「…ここどこ」

そう呟けばその声さえも吸い込まれてしまいそうになる。無音の世界とはこのことなんだろうと思った。吐く息も吸い込む息も鋭いナイフに刺されるように冷たくて、肺が芯から凍えそうになるのを感じた。足を踏み入れれば存外さらさらとした感触が分厚い、圧底にもほどがあるブーツから伝わってくる。厚底ブーツなんて、いったいどこガングロだ。眼を開けてそこに立っているだけでも精一杯だ。思わず手を伸ばせば、もこもことした感触がして、それからぐっと圧力を感じた。自分の手が握られているのだということさえ気が付くのに、十数秒要した。圧倒的な冷たさだ。凛とした、音のない、怖いくらいに、涙が出そうになるくらいの寒さだ。だというのに、自分の延ばされた右腕は棒のようにそれを伸ばしたまま、掌の圧力を感じていた。

「息が、できない、」

私がそういえば、手を握る其れはぐい、と私を力ずくで引っ張ると、今度は私の肩を抱きしめた。視界はまっっさらな白から、黒に替わる。

「ゆっくり深呼吸してみろよ。それから、いい加減目を開けろ。」

そう言われてようやっと自分は今まで瞼を閉じていたのだと分かった。湿り気が瞬く間に瞼やまつ毛を凍らして視界を奪ったので、思わずおどろいて瞼を閉じたまま立ち尽くしていた。耳にかかる生温かな吐息と分厚い外套から伝わる彼の熱と匂いに勇気づけられ、ゆっくりと瞼を開く努力をする。数秒の出来事が、まるで何時間もかけて行われているように思えた。視界はやがて黒を写し、そして徐々に上を向けば日の光をボンヤリと感ずることができた。視界の上には太陽の逆光で輪郭のぼやけた黒上が見える。逆光でもわかるそのそばかすに安心して手を伸ばせば、そばかすは微かに笑った。その笑顔を見た瞬間、私はようやくここがどこであるのか、悟ることができた気がした。

「南極へようこそ、お嬢さん。」

泣きたいのか、泣きたくないのか。寒いのかあったかいのか。怖いのか怖くないのか。帰りたいのか、帰りたくないのか。よくわからずに涙を流せば、男は今度は困ったように眉をハの字にして、「直ぐに凍ってまた瞼あけられなくなるぞ」とまた笑った。









「思ってたより、何にもないしめっちゃ寒い」
「南極だからな」

ざくざくと歩くたびに雪の大地を踏みしめる。列をなして歩く私たちは遠くから見たら白い大地にぽつぽつ現れた働きアリか、それとも白い大きな犬の背中を歩くのみのように見えようか。私は自分の持ってきた荷物のおおきなリュックと、それからショルダーバックを持って前を歩くエースについていくだけだった。後ろを僅かに振り向けば、先ほどまで大きく見えていた船はもう豆のように小さくなっていた。私の後ろをマルコさん、その後ろはその他のクルーと、ぞろぞろと規則正しく並ぶ。想像を絶するほど寒い。マルコさんに言われてプロの探索隊が使うような業務用の着物を中に着用し、日焼け防止のゴーグルと、寒さで肺を傷つけないための対策用の防寒マスク(二重にしてある)、手袋だってヒマラヤ登頂用のものを買って着けているのに信じられないほど寒い。喋るのが億劫なほど寒い。先ほどから、前のエースが大丈夫か、と聞いて振り返るのを見てうなずくのがやっとである。重い荷物は全てエースとマルコさんたちが背負っていて苦しいはずなのに、場数を踏んでいるせいか寒そうではあったが、別段彼らは問題なさそうであった。

「ヒマラヤのより寒いぜ、ここは。」
「そうなんだ。」
「上に行けば行くほど山は寒いが、ここは海抜0でも寒い。」
「なんで、」
「空気が乾燥してるからだ、北極よりも寒いんだ。」
「北極もヒマラヤもどっちも行ったことないもの。」
「じゃあ、喜んだ方がいい。これでもう慣れるはずだ。」

けたけた笑いあうエースとマルコさんをよそに、私は想像以上の過酷さに思わずめまいがした。太陽が出ているだけましである。ヒマラヤも北極も行ったことないというのに、いきなりそれらの世界最高峰を超える地によくもまあ連れてきたものだと呆れるがそれも今更である。とりあえず何かあったら全部エースのせいなんだからと心の内で悪態をついてグイッと彼の腕を引っ張れば、エースはがしりと私の手を引いた。私たち以外すべてがッ白くて、空気も住んでいるからなのか空は真っ青だ。ペンギンもシロクマも見えない。すべてが白い世界での息は寒くて苦しい。上陸する前にホッカイロをこれでもかというほどエースに体中に貼られたというのに、それでも寒い。地球上にこんなにも寒くてつめいたい地域があったなんて、シベリアのロシア人も、ヒマラヤのシェルパたちも、きっとひどくびっくりするに違いない。手袋を何十二もした震える手で頸に下げたそれを撫でる。こんな寒さでは正常に作動してくれるかもわからない。エースに握られた手を少しの間だけ解いて、両手でカメラに触れる。スイッチを入れれば、きゅいいん、というかすかな機械音とともになんとか立ち上がってくれそうである。

「すげえな、こんな寒いのに動くのか。」
「たぶん…わかりません。今試しに撮ってみます。」

後ろでマルコさんが感心したようにそういったので、カメラを横に向ける。広大な雪肌がはるか遠くまで続いて、青空とのコントラストが美しい。もちろん、これは極寒の地でも作動する仕様ではない。だがなんとかカメラも踏ん張っているようだ。何度か試すようにカシャカシャならせば、機械音は辺りに静かに響いた。エースの後姿や、後ろに向ければ顔だけ向けて無表情で映るマルコさん、ダブルピースを向けるクルーたちの笑顔を写すことができた。

「あとどのくらいなの?」
「あと3時間も歩きゃあ着くさ。」
「3時間…」
「ちょっと休憩するか。マルコ、さくらがへばっちまった。」
「そうだな。20分くらいいいだろう。」
「よしきた。今椅子用意してやるよさくら。」
「…ごめんね。」
「なに言ってんだ。俺もそろそろ休憩してえなって思ったところだ。」

そう言ってにかりと笑ってゴーグルを外すと、ふるふると頭を振って深呼吸をする我が恋人の姿を見て少しホッとする。用意してくれた折り畳みの簡易的な椅子に腰を掛ければ、幾人かのクルーがねぎらいの言葉と肩に手を置いて激励した。普段運動をしないことがこんなところであだとなるとは。マルコさんが業務用の水筒を取り出すと、凍らないうちにとアツアツの紅茶を飲ませてくれた。早く飲まないと一瞬で凍るらしいので、普段猫舌の私も大慌てでそれを飲んだ。舌先が痛い。暫くエースに背中をさすってもらって惜しくらまんじゅうのように身を寄せ合っていたが、複数人のクルーがそわそわ一定の方向にぞろぞろ歩き出したのを見て久しく視線を上げる。

「ほら。さくら見ろ、ありゃァどっかの国の基地だ。」
「どこの国?」

言われて指さされた視線の先を見ればそれは幾人かの人が向かって行った方向だ。確かにかすかに人工的な建造物が見える。外していたゴーグルをつけてもっと目を凝らせば、はたはたと微かに国旗のようなものが揺れているのが見えた。赤に白。見たことあるけど、今は疲労と緊張からかぱっと思い出せない。だけど、ヨーロッパのどこかの国に違いなかった。遠くからでも皆が何となく談笑しているのが見える。それから、人間だけではない。数えきれないほどの狼のような犬たちが見える。そこで飼っているのだろう。「南極物語みたいね。」とぼそりとつぶやけば、「ここは南極だぜ。」とエースに笑われてああ、そうだったと思わず苦笑いした。

「皆知り合いなの?」
「まあな。こんなところですれ違うのは限られた人間同士だからな。俺たちもしばらくここにいたから、この辺の基地のだいたいの人間は顔見知りになんだよ。」
「確かに、渋谷のスクランブルですれ違うのとは訳が違うわね。」
「ああ。助け合うことが、ここでは何より重要なんだ。ガキの学級目標みたいなこというけどな、それが命取りなんだよ。持ちつもたれず、だな。」

珍しくもっともそうなことを言って静かに背中をさすってくれるエースに少しだけ不思議で見つめていれば、なんだ?と言わんばかりに眼があったので、ううん、なんでもないと答えて少しだけ旨がきゅんとした。絶対言わないけれど。よく映画でサバイバルでたくましく勇ましい男性の姿にヒロインがだんだん惚れていく姿とか描かれるけど、今は何となく彼女たちの気持ちが少しだけわかる気がした。普段ならば、単純だなあってえテレビや映画を見て笑う側の人間だけど、やっぱり、世の中実際に体験しないと分かりえないこともたくさんあるんだなと、直に感じた。

「…やっぱり、私はまだまだね。」
「ああ、普段から運動しとけ。」
「そういう意味じゃなかったけど、そうね。検討するわ。」

そう言って隙ありと言わんばかりに写真を撮れば、少しだけ驚いたような顔で私を見るそばかすの青年とカメラのレンズ越しで視線が交わった。









「はっや、」
「すげえな!こっちの方が全然いいじゃねえか!」

がはがは笑う彼をよそに、私はどうにかこうにかしがみ付いて振り落とされないようにするので精いっぱいだった。アッと言う間にどんどん加速し進んでも進んでも同じような景色が広がる中、僅かに出ている肌色の部分に直に風が当たり突き刺さる。想像以上のスピードに目を瞑っていたが、それも疲れて眼を開ければゴーグルの向こう側には先ほどはあれだけ遠かったはずの氷の山々がだんだんと近づいているのがわかった。屈強な男の掛け声に返事をするかのように息を吐き吸いを規則正しく繰り返しながら、いく数匹もの狼のようにたくましく大きな犬たちは私たちを乗せたそりを豪快に引っ張っていくのであった。確かに人の足では到底このスピードは出せないし、3時間はかかると言われた道のりであったが、これならあと1時間ほどで決着が付きそうな雰囲気である。

「わんちゃん痛くないのかな。」
「わかんねえけど、何匹もいるから大丈夫なんだろうよ。」
「そっか。」

私が落ちないようにエースは覆いかぶさるように私を支えて楽しそうに始終笑っている。この犬橇を楽しんでいるのも間違いないだろうけど、きっと、親父さんに会えるからワクワクしているのだろう。何となく背中から伝わる彼の体温でわかった気がした。親父さん。あともう少しで会うのだと思うと、うれしいような、緊張するような、怖いような、く会いたいような、不思議な心地がして外気とはまったくもって相反するかのように暖かな、そしてどこか切ない気持ちがした。親父さんは一体、私を見てなんて言うだろう。そして私は親父さんを前にして、何を言うのだろう。全く見当がつかない。

「狼みたい。」
「シベリアンハスキーっていう犬だよな。」
「うん、聞いたことある。なんか、名前もかっこいいね。トラ、元気かな?」
「今頃父ちゃんとぬくぬく炬燵の中だろうな。」
「ふふ、そうだといいね。ああ、炬燵がほしいな。」
「俺の胸じゃ不足だったか。」
「まあ、100点満点中77点ね。」
「すげえ微妙な点数だな。」
「平均点以上よ。喜んで。」
「よくわかんねー。お前、ガキの頃からそういうとこあるよなあ。」
「いいじゃない。」
「悪いとは言ってねえよ。」

何だこの会話、とお互いどこかで思っていて、どこかで上の空のような感じがする。あともう少しだ、耳元でエースが囁く。無意識なのか意識的なのか判別がつかなくて、とりあえずぎこちなく彼の手を握れば、力強くまた握り返された。

「信じるよ。」

無意識か意識的にか、犬橇の速さに掻き消されるか否かの、自分でもわからないほどに自然と出た言葉に少しだけギョッとして、それから何だか気恥ずかしい気持ちがしたけれど、エースは聞こえたのか聞こえないのかよくわからない表情でさきほどとちっとも変わらぬ表情で前を向いていた。ずっと握られた右手があたたかくて、何だかよくわからないけどひどく安心した。白い世界が広がり続けるだけの視界に、やがて、一軒のもくもくと煙を上げる小さな建物が見えてきた。



2017.09.24.

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