運命のノックが聞こえた。目を開けば視界には真っ青な世界が広がっている気がした。目を開けることなくしばらく臆病者のように意識だけを覚醒させる。瞼の裏側にまぶしいほどに光があふれているのがわかる。瞼の裏の細い血管たちがこんなにはっきり見えるほどだ、どれほどの間、私は眠っていたのだろうか。間遠に南米のお気楽で調子のいいカモメたちの声が聞こえる。

「…おきてやがるな。」
「………。」
「………フーっ」
「………ふふ、」

狸寝入りを決め込んでいれば、ぎしりとベッドがきしんで何かがこちらににじり寄ってきたかと思えば、突然耳の穴に生温かな空気が流れ込んで、くすぐったくて思わず声を出してしまった。ぎゅううううう、と力いっぱい体を抱かれて、思わずぎゃあぎゃあわめけば意識は完全に覚醒していった。瞼を開ければ青の代わりにカラスのように真黒な目と目があった。真黒で癖のある黒髪は生乾きで、いいにおいがする。

「いいにおい」
「シャワー行ってきた。お前も行くか?」
「うん。…でもまだ眠くて。」
「だが今いかなけりゃもう船の上で浴びることになるぞ。」
「あー、そっか。…取り合えず歯も磨きたいし…いこ。」
「よし、」

ちゅ、と唇にキスをして、それからよっこらせと言いながら私を抱き寄せると、横抱きにしてベッドから降りた。

「機能の記憶が途中からさっぱりないんだけど。」
「珍しく途中から寝てたもんな、さくら」
「ね。なんでだろう。初対面の人がいる前だったのに。」
「マルコいいやつだろ?」
「そうだね。ちょっと小難しそうな人だけど。」
「否定はしねえ。」

真っ青なターコイズブルーのタイルが敷き詰められた洗面所にエースは私を運ぶと、ふわふわのタオルとバスローブを差し出した。彼の腕の中から離れてガラスの扉から浴室を覗けばすでにお湯がたっぷり張ってあるバスタブが見えた。ねこ足で海外の映画によく出てくるようなお風呂だった。

「ありがとう、気が利くのね」
「お湯が張れるバスタブは珍しいんだ。もうこの先は風呂に暫く浸かれねえからな。」
「そっか」

海外では排水溝に栓がないものが多いけれど、ここのホテル違うのだという。もう一度ありがとうとエースに礼を述べていそいそと服を脱ぐ。脱ぐといってもすでにキャミソールにパン一というあられもない姿だったのですぐに生まれたままの姿となった。彼はというともう出ていったかと思えばいそいそとなぜか自分もパンツを脱ぎ始めていて、思わずえ、と声を漏らしてしまった。

「え、入ったんじゃないの。」
「シャワーだけな。なんか、俺も入りたくなった。いいだろ、別に。」
「うん、いいけど。」

なんていうやり取りもそこそこに大の大人二人(すっぽんぽん)はいそいそとシャワーを浴びて所狭しと二人でお風呂にはいることとなった。そういえば日本にいる間に何度か一緒に御風呂に入ることはあったけれど、ここ最近はしばらくなかった。セックスすることと、お風呂に一緒に入ることは、なんだかまた別な気がして。そこまでふと思って、シャワーを浴びて、静かに湯船に足を踏み入れた。エースの足の間を割って入って、居心地のいいベストポジションへと落ち着く。日本のホテルのようにテレビがないのでとても静かだ。窓は開けっぱなしで、かすかに潮風が入ってくる。

「ねこ足のバスタブなんて映画みたいだね。」
「そういえばそうだな。あ、最後に見た映画何だっけか。覚えてねえや。」
「パイレーツオブカリビアン。」
「あ、見てねえそれ。」
「残念、もう最終章だよ。」
「マジかよ、言われたから気になってしょうがねえな。行く前にみときゃよかった。」

失敗したなあ、とか言いながら人の胸を揉んでくる男に思わず腹パンしてやろうかと思ったが、どうせこの男には何しても意味がないのだと観念すると溜息を吐いた。溜息でさえこの南米の空気は陽気にしてくれそうである。

「いつマルコさん帰ったの?」
「お前が寝てすぐ。」
「今日はゆっくり休めって言って片づけて帰っちまったよ。もうすぐで俺たちと荷物のっけに来るけどな。」

エースはぼんやりそういって私の胸を揉み次第たのち、満足したのかその手を放すと自分の前髪をかき分けて猫のようにふあああ、と歯を見せて大きなあくびをした。髪の毛を洗おうと立ち上がればその拍子にお尻を触られたのでバシャりと思い切り水を顔面にかけてやればぐふ、という声を上げて水飲んじまったと険しい表情になったので笑っておいた。南極ではきっとこんな感じでお互いにすっぽんぽんで余裕をかましてお風呂なんぞに入れるわけがないだろう。人類が最後に足を踏み入れた場所、未だその全貌がわからぬ未知の土地。そんな土地に私は惚れた弱みとか何とか言って結局この男にここまでついてきてしまったのだ。今断ればまだ、すぐに日本に帰れるだろう。

「ねえ、エース。」

きゅ、と蛇口をひねる。髪を洗い終わってシャワーを止める。髪を絞って久しくエースのいる方向を向けば、ぼんやりと宙を見て湯船につかる黒髪でそばかすの男がこちらを見た。眠そうで何度もあくびをしたらしく、その目はいつも以上に鈍く光っている。

「ん」
「マルコさんて、彼女いるの?」
「知らね。でも、いたら俺にも言うだろうし、いないんじゃあねえか?いたとしても、つれてこないだろうよ。」
「そう、やっぱりそうよね。」
「?」
「普通彼女とか恋人みたいな、大事にする人を連れてこないわよね、普通。」
「そうきたか。」

どきり、というような顔を一応して見せるが、いまさら何を言うか、という顔もしている。私も其れは自分が言うのもなんだが今更であるが。別に明確な答えがほしかったわけでも、反省してほしかったわけでもない。なんとなく口にしたらどうなるだろうという好奇心だったが、存外彼も淡白な反応だったのでそのまま流してしまおうと湯船から立ち上がった。

「好きだかこそ連れていくっつうのは、理由にならねえかな。」

ぽつり。本当にぽつりと聞こえるか聞こえないかの声でそう聞こえて思わず視線だけ下に移せばエースは何事もなかったかのように目を瞑ってふんふん鼻歌を歌っていたので、思わずふ、と笑ってバスタブから片足を上げた。











「カモメのジョナサン。」
「あ?」
「…なんでもない。」

パシャリ。距離にして数十センチ。シャッターの音に思わず目の前のカモメは視線を此方に向けたが、別段逃げる様子もなかった。隣のエースがしばらくマルコさんと一緒になって船の支度をしているのをしり目に、私はシャッターを押し続ける。私が手伝おうとしても却って邪魔なのは明白であったので、船の上ではすべてプロに任せることとした。思っていた以上に大きな船に(これでも中型船に入るらしい)度肝を抜かれたが、エースの力を借りて荷物を載せて乗り込むと、目の前には大海原が横たわっていた。どこまで行っても空と海の青ですべてが青く染まっている。思わず首にぶら下げていていたニコンで写してみたが、レンズ越しにそれらの景色を見ていると、そのうちどっちが空でどっちが海かわからなくなりそうだった。甲板には見知らぬ外人さん(マルコさんやエースさん同様この船のクルーらしい)たちがにこやかに私を迎え入れて、しばらく握手の嵐だった。さまざまな国籍の方がここに入るらしい。すぐさま出発ということで、荷物を船内の部屋に置いた途端、船は動き出した。甲板に出て暫く冒険していたが、色々な人々が仕事をする様子や船の場所を色々確認した。だが、それも終るといよいよ手持無沙汰になり、部屋に戻って鞄の中からここに出る前に寄ったパン屋さんでおまけにもらったパンの耳の詰め合わせを取り出す。私が持ってきたパン屑にカモメたちは予想以上に喜んでいる様子であった。海外のカモメは日本のカモメと同じなんだなあとどうでもいいことを考えながら、親子のカモメをfilmに収めて一息つく。傍らではあちらもひと段落したらしいエースたちがデッキに腰を下ろしていた。

「コーヒーでも飲むか?」
「頂きます。」
「今は暑いがな、だんだん寒くなってくるよい。上着はいつでも出せるようにしてくれ。」
「わかりました。」

マルコさんはそれだけ言うと船内へと入っていってしまった。気が付けば隣でごろんとデッキの椅子に横になる男がいて、私が口元にパンの耳をもっていけば眼も開かずにばくりとそれを口にした。

「ぱさぱさだな。」
「パンの耳だもの。」
「そうか。余計コーヒー飲みたくなるな。」

もぐもぐと寝たままだらしなくパンを咀嚼する彼の口に面白半分にどんどんパンの耳を突っ込む。カモメたちがすきあらばパンを盗もうとしているが、目にもとまらぬ速さでパンを食べ続ける人間にきっとドン引きしてるはずだ。

「親父さんはずっと南極にいるの?」
「ずっとじゃねえよ。その前はアフリカの喜望峰らへんにいたらしい。」
「ふーん。なんで今は南極にいるのかしら。」
「知らねえけど、見たいもんが見れると移動するらしいが…」
「じゃあ、まだ見つかってないということね。」
「そういうことだろうな。」

ふーん、と言ってパンを今度は自分の口に運んでかじってみた。ぼそぼそとパンの耳を噛みながら、エースの親父さんがみたいものって何だろうとちょっと考えてみた。これだけ世界中を旅した人が見たいものって何なんだろう。オーロラやエンジェルフォール、ウユニ塩湖の天地の鏡や、アメリカのネイティブアメリカンの聖地…。いろいろな物を見てきた人が、今度は北極で何を見たいのだろう。きっと私のような小さな東洋の島国で育った頭ではきっとわかりえないのだろうなあ、と思ってごくんとパンを飲み込んだ。日本からここまでようやっと来たけれど、どんな人なんだろうと思いわくわくする分、不安な気持ちもある。親父さんに会ったら、私は何を話せばいいんだろう。私は、何を親父さんに伝えられるのだろう。

「ミルクと砂糖入れたかったら使ってくれよい。」
「あ、ありがとうございます。」

気が付けばコーヒーを作ってくれたらしいマルコさんが椅子の上にお盆に載せたコーヒーを載せてくれていた。ごろりと寝そべっていたエースはよいせと起き上がると、私にマグを渡した。パンの耳を横取りされたカモメ達が諦めたのか船の上でゆらゆらと暢気に飛んで空を滑空しながら鳴いている。

「お父さんに会ったら、何を話せばいいかわからないな…」

コーヒーのマグを手に取ってしばらく手の内に掴んだまま、ぼそりとそういえば聞こえていたのかいないのか、横でコーヒーを飲んでいた暢気なそばかす男子はうーん、と唸ったかと思えば、こちらを向いてにかりと歯を見せた。


「心配すんなよ。俺が好きで、写真が好きで、日本に家族と友達がいて、少し前まで田舎の事務職やってたけど、俺と一緒に親父に会いにここまで来ましたって、言えばいいじゃねえか。」
「なんじゃそりゃ。」
「いいんだよ、それで。親父なら、全部、わかってくれんだよ。」

そういって満足そうに笑うと私の膝に会ったパンの耳の袋を何事もなかったかのように横ドルとちょうどよかったといわんばかりにコーヒーと一緒に食べ始めた。その姿を見ていたらなんだか悩んでいた自分がばかばかしく思えて、苦笑いをしてから、苦いコーヒーを飲み下して思わず舌を出した。


2017.07.09.

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