『Disculpe, ¿Dónde está el tocador?』

「ディ、ディスクルペ、ドン、デ、エステ?…あれ?」

私があ?といえば目の前の初老の女性も同じようにあ?と言って首をひねった。困ったなと思わず苦笑いを返せば、飄々とした表情で荷物を手に取りこちらに向かってくる男と目があった。何かを察したらしいそばかすは初老の女性ににこりと笑って口を開いた。

「ドンデエスタエルバニョ?」

彼は呪文なような言葉をお世辞にもあまり上手とは言えないイントネーションで言ったのだが、私のちんぷんかんぷんな言葉なんかよりはよっぽど理解したのか、初老の女性はにこやかに笑って向こう側の通路を指さし何やら道順を説明した様子だった。そして話し終るとエースはにっこり笑って「グラシアス」と言った。ポカンとした表情でしばらく見ていたが、はっとして横を見れば、何事もなかったかのようによっこらせとリュックを背負いなおして二人分のスーツケースをもつ男が「行こうぜ。」と声をかけるのだった。

「…グラシアスぐらいは私も言えた。」
「何の張り合いだよ。つうか『トイレどこですか』くらいは流石に言えたほうがいいぜ。」
「わかってるよ、でもスペイン語だなんて初めてで…」

英語だってろくに話せないしとごにょごにょ言っておればトイレについたので先に行けと促されて、ようやくトイレについたもののなんだか心の中は一向にもにゃもにゃする。チリはスペイン語が公用語らしい。まあアルゼンチン経由だったとしてもアルゼンチンも公用語は一応スペイン語らしいので、結局こうなったことだろう。修学旅行のオーストラリアのほうがよっぽど意思の疎通ができたなと思いながら空港を歩いていく。人が多いし、当たり前だけど日本が全く聞こえてこない。歌のように外国語(スペイン語なんだろうけれど)が耳に入ってくる。人は多いし、飛行機から降り立った瞬間鼻孔を掠めた異国の独特の香りが強く感じる。日本に来る外国人もきっとこの独特の異国の香りを感じるのだろうか。

「チリって意外に白人が多いのね。」
「植民地時代にやってきたやつらが多いんだろ。」
「メスティーソってやつ?」
「あとは山のほうに行けばアンデスっぽいやつらがいるし、島もわりにあるからポリネシアっぽい奴らもいる。」
「ふーん。治安っていいんだっけ。」
「だんだん悪くなってってるな。」
「ええー、そうなの。」
「この辺の国に比べたら安定してるほうなんだけどな。だからとりあえず財布は肌身離さずもっとけ。腹巻か服の内ポケットに入れといたほうが無難だぜ。」

だから出発前の荷づくりの時に腹巻くらい買っておけと言っていたのか。寒いところに行くからかえってことなのかと思っていたが(たぶんそれもそうなんだろうけど)、こういう場合もあるんだなあと素直に感心しつつ、お腹をさする。すでに一応腹巻の中にお財布は入ってある。日本にいた頃はわりに私のほうがしっかりしてたけど(エースもしっかりはしてるほうなのだが)、今は完全に立場が逆転してしまっている。これが経験値の差というやつなのだろうか。

「空気が全然違う。」
「そうかあ?ずっと飛行機にいたからそんな気がするだけだろ。」
「そんなことないよ。わかるもの。エースはいつも外国にいるからわからないのよ。」
「そうかもしれないな。ああ、あと標高がわりに高い場所があるから、気分悪くなったらとりあえずすぐに言えよ。」
「うん。」

そうなったときのために保険とかスムーズに問い合わせられるようにしなきゃととても事務的なことを思いながら彼の背を追っておればあっという間に空港を出て、彼のいうがままにタクシーへと入っていった。きちんと空港の正規のタクシーを使うあたり普通に旅行しているようだ。いや、普通の良好なのだけれど、と心の内でぶつぶつ言っておれば、景色はどんどん空港を離れて市街へと入っていく。当たり前だけれど日本語なんて聞こえてこないし、Wi-Fiもなければスマホもいじれない。エースはエースでタクシーのおじさんにメーター回してねえだのなんだのを一生懸命片言のスペイン語で言っておじさんはすまんすまんという風にのんびり運転している。のんびりした雰囲気は南米の特徴なのだろうか。チリもシエスタってあるんだろうかとどうでもいいことをぼんやり思いながら、市街の景色を見た。思っていたよりも栄えている。もっと発展途上国のような雰囲気の強い国だと思っていたのだがと以外に思いながら、タクシーは市街をすいすい回っていく。日本よりも車のマナーはよろしくないことも分かってきた。隣を見ればエースがくああ、とあくびをしている。どうやらおじさんとの決着はついたらしい。

「ねえ、せっかっくだからチリの観光もしたい。どこか撮り甲斐のある場所とか教えてよ。」
「構わねえけど、南極行ってから帰りにしとけよ。市街にいるのは今日だけだぜ。」
「え!そうなの。」
「ああ。今の時期は晴れが続いてるらしいからな、行くなら今しかないんだ。」
「随分強行突破なスケジュールなのね…。」
「行き当たりばったりってわけじゃねえけど、天候に合わせなけりゃどうにもならねえんだ。」
「そうだと分かるとつくづくなんで親父さんは南極にいるのか全く分からないわ。」
「お前もあの地を見ればわかるさ。」

そういってエースは遠くを見て何かを思い出すような顔をした。私はその横顔を見て、彼の脳裏に浮かび上がっているだろう南極の風景を想像したけれど、見たことのない私には一向に思い浮かべることなどできなかった。気が付けば都会の風景から一変し、タクシーはどんどん建物の少ないこのチリの原風景が広がる片田舎のような場所に進んでいた。南米特有の風がタクシーの中を通り抜けていく。そよぐ前髪をかき分けて、リュックの中から「簡単!スペイン語会話」の本を取り出した。今度こそこのおじさんに「グラシアス」と言ってやるのだ。窓に視線を移せば年季の入ったトラクターを運転するおじさんが見えた。その息子らしいこども2人がトラクターの後ろに座っている。トラクターの荷物置き場には大量の木箱が入っている。子供たちはその荷物番らしく、タクシーと並走する私たちを見た。手を振りかえし、小さな弟は乳歯の抜けたばかりらしい前歯を思いっきりむき出して笑った。何となく心が躍って、首にかけたニコンを一撫でする。かなりのスピードを出す車窓から、「グラシアス」と小さくつぶやいて、シャッターを切った。













「あ、あの、」
「ああ、起きたのか。すまんな、急に現れちまってよい。」

目の前の金髪(パイナップル?)の男性はそう言って謝るとにこやかに私を出迎えた。そして私にグラスを差し出すと、ミネラルウォーターを注いでくれた。親切に軟水だとも一言添えて。私は起き抜けのいまだ覚醒しない頭の中でこの人は誰だろうと冷静にぼんやりしつつも、いただいたのだからとお水をごくごく飲んだ。金髪の男性の隣にはリビングのソファにかけてラザニアか何かのお皿に顔を突っ込んで寝息を立てる見慣れた黒い頭が見えたので思わず眉間にしわを寄せた。なかなか趣味のいいグレードの高いホテルに泊まれたというのに、ラザニアに顔を突っ込むおとこがいるだなんてこのハイグレードなホテルの一室には似つかわしくない。青と白を基調とした壁に青いソファ、高級そうなテーブルなど、夢のようだと先ほどまではしゃいでいたけれど、はしゃぎ疲れて私はそのままベッドに倒れこんで意識がプッツンしたことを今更思い出して、それから溜息を吐いた。窓の外はすっかり暗くなっていたので、なんだかもったいないことをしたなと反省する。気が付いたら眠ってしまったらしい。確かに飛行機では眠ったけれど、体は動かせないし自分でも知らぬ間に疲労をためていたらしかった。私のそんな顔を見て金髪の男はふ、と笑って自分が持っていたグラスのワインを飲むと、思い出したように口を開いた。

「俺はマルコだ。よろしくな。アンタはさくらちゃんだよな?」
「あ、はい。あなたは、エースの…」
「旅仲間みたいなもんだよい。こいつの兄貴みたいな役回りだ。おい、エース起きろよい。さくらちゃん起きたんだぞ。」


ラザニアに顔を突っ込んでいた男の頭をがしりと掴んでぐいっと上げると、マルコと名乗った男性はゆさゆさとエースを揺らした。そうすれば何事もなかったかのようにぱちりと目を開けたエースと目があった。

「お、起きたのか。」
「こっちのセリフよ。」
「ああ、このパイナップル頭はな、」
「マルコさん?今自己紹介してくれたよ。」

私がそういえばああ、と納得したようにうなずいて、タオルで食べ物だらけになった顔を拭いた。そして隣のマルコさんにパイナップルとか言うなとぽこんと叩かれていたがノーダメージな様子である。

「二人とも寝ちまったからねい、時間的にもうレストランは閉まっちまったんで、ルームサービスにしておいたんだ。」
「す、すみません…」
「いや、いいんだ。また朝がある。さくらちゃんは何か食べたいものあるか?一応一通り頼んであるんだが。腹は減ってるか?」
「腹ペコです。機内食以外、何も食べてなくて。」
「良かった。」

そう言って席につくようマルコさんは勧めると、手際よく私に新しいワイングラスを差し出した。そして食前酒と言わんばかりに白ワインを注いでくれたので、私は礼を述べた。恭しくワインのラベルを私の方に向けてくれたこ処を見るに、この人の手慣れているというか、大人の男の余裕に感動を覚えた。

「この食前酒にはFrita Congrioが合うよい。」
「フリッタ?」
「白身魚なんだ。日本人の口にも合うと思うよい。」
「俺も食う。」

そう言ってバクバク食べながら空になった自分のワイングラスを「ん、」と言ってマルコさんに差し出す男がよもや自分の恋人であることを一瞬忘れそうになった。なんだかマルコっさんと違いすぎて思わずため息を吐きたくなったが、マルコさんは「じぶんでやれよい」と言いつつもきちんと入れてあげる辺り確かにお兄さんっぽいなとフリッタ何とかを咀嚼しながらぼんやり思った。


「マルコさんて、どちらのご出身なんですか?」
「さあて、どこだったっかな。物心ついた時から一つどころに留まらなくてな、覚えてねえや。」
「へー、」
「気が付いたら親父にくっついてたからな。」

マルコさんはそう言ってワイングラスを口元にもっていくとゆっくりと味わう様に飲み込んだ。「親父」、と一言言った瞬間、その瞳が柔らかく細められたのが印象的だった。

「マルコはずっと親父と一緒にいるんだ。一番の古株だ。」
「そうなんだ。素敵ですね、そんな長い間一緒にいていろんなところに行くんでしょうね。」
「まあな。いつも楽しいわけじゃねえけどよい。いつも命がけだ。でも安心しろ良い。ここは俺の庭みたいなもんだ。南極までの航路は安心していけるようにサポートするよい。」

南極までの道のりは存外険しいものだ。旅行初心者の私のために、どうやらマルコさんは手助けをしてくれるという。うれしいような、ご迷惑をおかけして申し訳ないような気がして感謝と謝罪を思わず述べれば、彼はにこりと笑った。

「感謝をするのはこっちだよい。遠いところ、よく来たな。」
「いいえ。飛行機乗り継いだだけですから。」
「乗り継ぎだけでもなれてなけりゃあ結構しんどいもんだよい。」

そう言って彼は口元だけ笑って見せた。大人な人だなあと思う。

「それに、お前に会いたかったしな。」
「私に?」
「ああ。こいつが会わせてえってずっと前から言ってたんだよい。ようやく会えた。なんだ、お前が言うよりも可愛いじゃねえか。」

そう言われて視線をマルコさんからエースに移せば、彼は物を咀嚼したまま口を動かした。左手にはパン、右手にはローストビーフを指したフォークをもって。

「外面はいいんだよ。」
「なんですって?」
「いや、なんでもないっす。」

私がにこりと笑ってそういえば、エースはおとなしく縮こまった。それを見たマルコさんは即座にうなずくと「なるほど、そういう力関係なんだな。」と言った。なんかもう初対面だけどいろいろばれている。

「仲が本当にいいんだな。」
「いえ、腐れ縁です。」
「はは、腐れ縁か。結構だ。それに、俺たちもそんなもんかもしれねえな。」
「俺たち?」
「ああ。縁ってのはアジアの考え方だが、俺はそういうのはどこにだってあるもんだと思う。『糸』という漢字があるだろう?絆は糸の半分って書くらしいな。」
「ええ。その通りです。よくご存じですね。」
「随分昔にアジアを回ってたからな。すこししかわからねえけど。…『家族』もそういうもんだと思う。血がつながっていようがつながっていなかろうが、関係ない。互いの糸が半分ずつ、繋がりあうんだ。俺とお前の糸も今、ようやく繋がった。」

そういって彼はもう一度確かめるように、安心しろ、必ず親父に会わせてやるよ、とぼそりとつぶやいた。私はマルコさんの細められた目を見つめて、注がれたワインをゆっくりと飲み込んだ。そしてにっこりと笑った。「グラシアス。」ぎこちなくそう言えば、彼も笑って(今度はきちんと目も細めて)「bueno」と言った。



2018.02.04.

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