「あ、やべ。パスポートどっか行っちまった。」

旅立ちというものは厳かなものだと思っていたが、そうでもないらしい。坐っていたベンチから離れてあたふたと自分の着ていたジャケットをまさぐり始めた傍らの男に溜息を吐くと、自分のカバンの中からそれを差し出せば安堵したようにもう一度腰を下ろした。

「さっき失くすと困るからって私に預けたじゃない。」
「そうだったか。忘れてた。」
「しっかりしてよ。パズドラばっかしてないでさ。」
「任せとけ。」

彼はそういうとパシッとこぶしを自分の胸に当ててにかりと笑った。本当にのんきな男だ。これからいったいどれくらいの時間空の上で過ごさなきゃいけないのか本当にわかっているのか。いや、彼のほうが空や海で過ごした時間が長いのだから、私よりもようくそれはわかっているはずだ。もう慣れているから、今更どうのこうのいう必要もないのだろう。とはいえ私は修学旅行以来の海外だ。国内旅行で飛行機には何度か乗ったが、いまだに慣れないし、耳は気圧の関係で痛くなるし、なんとも落ち着かない。国際線の成田空港は何度か友人を送るときに行ったことはあったが、空港独特のせわしなさにいつも圧倒されて、この雰囲気に飲み込まれそうになる。旅の始まりと終わり、出立と別れ、いろんな無数の出会いと別れをこの場所は見ているのだなと思う。そして私たちの知らない間にそこここで人生の分岐とドラマが生まれては消えているのだ。そう思うととても不思議で、なぜだか私はこの喧噪の中心細くて目の奥が熱くなるのだった。

「いろんな人がいるよね、世の中。」
「なんだ急に。」
「私は自分が人生の主人公だと思ってるんだけど、世の中で見ればただの人間一人にすぎないし、それはわかっているんだけど、なんだか不思議だわ。」
「最近急におセンチになるなお前。」
「おセンチにもなるわよ。数日後には南極に行くなんて信じられないもの。」

私の言葉にエースは視線を上げると、それもそうか、ともっともらしくそう言いながら伸びをした。平日の真昼間のこの場所は平日だというのにそれなりの人々で埋め尽くされている。平日のため、お父さんお母さん、並びに妹たちには行ってきますの挨拶は前日に済ませていた。そのせいか随分静かな旅立ちとなった。それも相まってか、寂しい気持ちがふつふつと胸のあたりからじんわりにじんだ。何となくカバンの中にあった黒い入れ物を取り出すと、その中のものを手に取る。空港の照明に反射してレンズが光った。何とはなしに横でスマホに夢中になっている彼に向けてパシャリと向ければ、彼はん、と一言うなってこちらを見た。そこでもう一度パシャリとシャッターを切ればレンズ越しの彼の顔が少しだけ眉をひそめたが、何か思い立ったのか「あ、」と一言言って私を見た。

「なあ、撮ってもらおうぜ。」
「え?」
「いいだろ別に、記念だ記念。」
「でも、」
「たまにはとられる側になるのもいいじゃねえか。思い出になるだろ。」

普段はそんなこと言うようなタイプではないのにと少しだけ驚いたが、無理やりカメラをかすめ取られ、思わずああ、という言葉しか漏れなかった。あれよあれよという間にエースは寄りにもよって忙しそうなCAさんを捕まえて(CAさんたちは彼を見て少しだけ喜んで見えたが、私を見て少しだけ残念そうな顔をしたのは見逃さなかった)、それから私のカメラを手に取るとCAさんに手渡した。

「行きますよー」

CAさんの声にどきりと目を見開いて背筋を伸ばす。隣のエースは暢気ににっかと歯を見せて笑う。私の肩を寄せて、ピースなんかして。私がとるときはそんな顔してくれないのになあ、と思わずムッとしたけれど、まあ、いいかと思って私も少しぎこちなくピースをして笑った。パシャリという乾いた音が2回、喧噪の中に一瞬だけ聞こえて、それからまた切りとられた時間は動き出す。気が付けばエースはたたたとCAさんのほうに向かい、丁寧に礼を述べていて、CAさんは軽く会釈していた。私はその小さなキャリーバックを引きずる数人のCAさんの背中をぼんやり見送る。彼女たちの背中を見送りながら、何となくようやく自分はこれかあら旅立つのだという実感がわいてきて、ようやく自分の心の中で整理がついたような心地がした。視界にはすでにCAさんの姿が人々の雑踏の中に消えて見えなくなり、代わりに今度は一人の青年がこちらに向かっているのが見えた。しかも笑っている。

「な、いいもんだろ。」
「はあ、まあ、そうね。」
「なんだよその返事、ま、いいか。これでもうお前はいけるだろ。」
「えっ」

そういって彼を見れば、彼は意味深ににやりと笑って、それから私の手を取りカメラを返した。そして置いてあった荷物を私の分まで手に取ると、よっと、と言いながら歩きだした。視線を上げて電光掲示板を見れば、自分たちが乗るべき便が気が付けば先ほどより一段上のほうに表示されている。私の前では脱力してばかりで、いつもぼんやりして何も考えていないようにフニャンとすることが多い彼だが、きちんと見ているところは見ているんだよなあ、と思わず感心した。

「さくら、行くぞ。」
「うん。」

素直にうなずいて彼の手を取れば、エースはにかりと笑ってその手を握り返した。









ビジネスクラスのあまり慣れない椅子に何となくそわそわして、リクライニングをたおしたり戻したりして「ふーん」なんて何が分かったのかわからないような声を上げてみたりした。これもそれも、彼のスポンサーが出してくれるおかげらしいのだが、なんだかやはり私のような素人のためにここまで高いお金を出させるのはどうかと思う(彼の話によればプロの写真家が今回はついてくるからと言って奮発させたらしい。本当に嘘も大概にしてほしいものだと憤慨すれば写真得意なのは本当だから嘘じゃねえだろ、と一蹴されてしまった)。とはいえ、この快適な空の旅も少しの間だけだということももちろん知っている。

「『南極には二つの行きかたがあります。一つはアルゼンチンから、もう一つはチリからです。どちらにせよ経由する必要があります。』…」

ぺらりといつぞやに本屋さんで買った本をぺらりとめくる。隣ではすでにいびきを立てる男がいるがもう気にせずに本を読むことに専念している。窓の外からは美しい青が小窓いっぱいに見えた。南極の氷もこの青色に近いと言う。先ほどひどかった耳もなんとか落ち着きを取り戻し、ようやくフライトに慣れてきた。先ほどCAさんにもらったナッツをもぐもぐ食べ、ヘッドフォンから聞こえる邦画の音をBGMに映画もそこそこに本を読み進めていた。ぺらぺらと文字を追いながら南極の真っ白な世界を垣間見る。人間の手など触れられない、原始の姿をこの時代にまで伝えるその白い世界。この景色はいったいどれだけの間、この世界にあり続けているのだろう。そしてそれはこれからも変わらずそこにあり続けるのだろうか。そう思いながらページをめくっていくうちに、ふと、一つの写真で目が留まった。白い庭の中央に突如として現れたそれ。まるでおとぎ話のような、光の筋。その中には妖精が舞っているような、天使がそこから伝ってこの土地に舞い降りてくるような気さえする。小さなく、そして細かい幾百万もの光の粒子が集まり、一つの筋を成している。私はそれを目にした刹那、息が止まったような気がした。理屈では言い表せない、何かとてつもない言い知れぬ感情が沸き上がるのをふつふつと感じたまま、かすかに口を開いて再び呼吸をした。


「『サンピラー』だな。」
「起きてたの。」

思わず視線を横にすれば、傍らの男はくああ、と欠伸をしながらぽりぽり頬をかいた。そして私と視線を合わせると、エースは小さく笑って私の手元の本に視線を落とした。

「光の筋。これ、俺がはじめてオヤジに会った時に見たんだ。」
「見たの?」
「ああ見た。この世のものとは思えなかったな。」
「サンピラー。」

そういって写真を指でなぞってみる。光の筋、光のはしご。白銀の白い庭にそびえたつそれはその輝かしさで、辺りを光の庭に変えていく。

「見てみたいな。見れるかな。」
「運が良けりゃあみれるんじゃねえか。」

くああ、とあくび交じりでエースは答える。彼は当たり前のようにそういうけれど、私はこんな世の中の神秘を目の当たりにすることはほとんどなかった。旅をしてきた彼だからこそ言えるセリフなのかもしれない。今でさえこんなにのんきに過ごしているし、なんともなさそうだ。いつもは適当なのに。

「エースって、やっぱりすごいんだね。」
「何だ今更。ようやく気付いたのか。」
「そう言うだろうなと思ったから言わないでおとこうと思ったけれど、まあ、いっか。」

エースは私の知らないいろいろなことを知っている。オヤジさんはもっともっと、いろんなことを知っている。私は今からそんな人に会いに行って、それから彼らが目にした世界のほんの一部を見に行くのだ。世界の端っこ、南極で。そう思ったら何だか不思議な心地がした。小窓から移る世界はひたすら青く、そしてかすかに玉ねぎの薄皮のような雲が絶え間なく続いていた。

「地球って青くて丸いんだね。本当にどらえもんの頭みたい。」
「何だ急に。」
「ううん、なんでもない。忘れて。たぶん久々の飛行機で頭がほわほわしてるのよ。」
「酸欠ならCAに頼んで酸素マスク頼もうか?」
「もう、ばかにしないでよね。」
「お前って昔っから感傷的っつうか、時々突拍子もねえこと言うよな。」
「感受性が豊かなの。芸術肌って言ってほしいわ。」
「へいへい、俺はどうせ粗雑な野郎だからそんな繊細な気持ちわからねえよ。」

私がふふん、と笑えば隣のそばかすいじわるそうな笑みを浮かべて、さっきCAさんからもらったチョコレートスナックの袋を開け、ほれ、と差し出した。ほろ苦いカカオの味が口の中で溶けていくと同時に、霧のような雲が晴れて、青い空にぽつんと太陽が顔を出した。それ以外は何もない。隣でスナック菓子を頬張りながら「パズドラやりてー」と暇そうに宣う男をよそに、再びサンピラーへと視線を落とし、瞼を閉じてその情景を焼き付けた。今度は私がこの手で撮る番なのだと、直観的にそう思って。



2017.04.01.

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