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「みかんー、みかんー」


ふと、脳裏にぼんやりと子供の声が聞こえる。カブトムシを追って、虫取り網を片手に駆けまわって、山に飽きたら海に行ってサザエを取る。私の手を引いて走る焼けた帽子。白い雲を突き抜けていく船。山の上からは港の姿がよく見えた。

「こっちだよー」

そうだった。そう言えば、私は皆と山の中で夜遅くまで大きなカブトムシを探して駆けまわって、それから迷ってしまって。どうすればよいか分からなくて泣くことも出来なくて、お気に入りの下ろし立てのサンダルは泥だらけになってしまって、鼻緒の部分は足が擦り切れていて、とても痛かった。それでも私が泣かなかったのは、あの子がずっと手をつないでくれたからだった。


「「みかん、」」


小さな子供の声が、だんだんと低くて心地の良いテノールにすり替わって、私はそのまま瞼を閉じてその声に身をゆだねた。





雨降って地固まる




「………。」


随分長い夢を見ていた気がする。ゆっくりと瞼を開ければ、視界はおなじくらい暗かった。何だかデジャブのような気がしたが、覚醒したばかりの頭ではよく思い出せない。体をかすかに動かして息を吸い込めば微かに薬品の香りが鼻孔を掠めた。起き上がろうとすれば右手に違和を覚えた。ゆっくりと視線を向ければ、自分の右手が自分のそれよりも大きなそれに握られているのを確認した。

「……お前は本当によく寝るんだな。」
「あっ…」

見えずとも声の主がわかって思わず息を漏らした。何かを言わなきゃいけないのに、いったい何を話せばいいのやらわからなくて、それから数秒たった後、ようやく私の口から出たのはただのかすれた呼吸音だけだった。暗くて定かではないが、確かに私はあのいつぞやの時のように彼の人と体を密にして横たわっていた。彼は私の手を握って、かすかに胸を上下に動かしながらしっかり呼吸をしていた。ずっと黙っているとお互いの心臓の音が聞こえそうなほどの距離だ。私の心音が時間を追うごとに早まっていくのがわかって、恥ずかしくて、うれしくて、感情の波が入り交じり、胸が詰まった。頭の中で今までのことがポンポン浮かんでは消えて、それからなんで自分はここにいるんだろうか、ここは現実なのか、まだ夢の中なのか。或いは地獄なのか、天国なのか、訳が分からなかった。ただ、彼と触れ合っている手のひらだけはひどく熱を帯びていて、彼の冷たい指先が私の手をなでる度、歯がゆくて、もったいなくて、切ない気持ちがした。自分の稚拙な言葉では説明しきれないくらいだった。

「私…」

一呼吸おいてようやく詰まった声でそういえば、突然お腹にかつて感じた覚えのある圧迫お覚えて思わず「うへえ、」という間の抜けた声が口からこぼれた。私の腹には彼のその長い御御足が乗っかっていて、抱き枕の役割を再び果たしていた。

「(デ、デジャブ…)」
「気分はどうだ。」
「…いろいろいっぱいいっぱいです。ここどこですか。」
「病院だ。」
「…病院?」

そう言って顔を横に向ければ見慣れた美しい色の双眼と至近距離でかちり合って再び心臓がはねた。彼のその顔の凹凸もきちんと識別するほど冴えて暗闇に慣れてしまっていて、それがかえってよくなかった。反射的に離れようとすれば腹に回された足に力が籠められ、解こうとした手はぎゅっと握られた。

「ローさん。」
「なんだ。」
「あの…近いです…」
「シングルベッドだからな。」
「…そういう問題なんですかね。」

ていうか、なんでシングル?という質問はこの状況ではおそらく愚問だろう。どちらにせよ、彼は私を話すつもりなど毛頭ないと見えて、こんな狭い病院の簡素なベッドの中で男女二人静かに折り重なったまま沈黙を貫いた。心臓が痛いのを何とか落ち着かせようと目だけを動かして辺りを見た。彼のいう通り病院で、どうやらここは個室らしい。窓際に置かれたベッドのようで、視界の端には夜風に揺れてカーテンがかすかに動いているのが見えた。静かに風の音が聞こえてくる。遠くでセミの声が聞こえる。カチカチと壁掛けの時計の秒針の音も聞こえてくる。そして、目の前の男の規則正しい心音も。

「……私たち、」
「助かったんだ。」

「助かった」そう聞いてようやく実感がわくのではないかと思ったが、以外にもその言葉は私の耳にはあまり馴染まなかった。まるで別世界の物語のセリフのように感じられた。仕方がなしに彼と再び視線を合わせる。闇に浮かび上がる双眼は鈍く光を帯びているようだった。まるでおとぎ話の中に出てくる生き物の目のようにきれいだった。私は数度瞬きをすれば、彼も静かに瞬きをするだけだった。だんだんと冴えてきた頭の中であらゆることが思い起こされた。聞きたいことが山ほどある。やはり彼に聞かねば頭の中がもやもやしてしようがない。

「…あの、ローさ、」

いろいろ聞きたいことがあって思わず口を開こうと息を吸いかけたその刹那、その口は彼にふさがれることになった。唇に柔らかな温かさを感じて思わず目を見開けば、見開いた視界いっぱいに見慣れた顔が見えて思わず「ファッ」という声を上げそうになったが、現在自分の唇は別の人間の唇によって塞がれているので無理なことであった。しかもただの小鳥さんのような可愛らしいキスならまだしも、結構大人な唇を食むようなキスだ。思わず体の変なところに力が集中して全身がこわばり始めたが、目の前の人物はお構いなしに私のお腹に相変わらず足を絡ませて離すまいと言わんばかりにぎゅう、と私の体を抱き寄せるのだ。

「…すげえ顔してんなお前。」

ようやっと唇が離れたかと思えば彼は開口一言そういってふ、と笑った。

「え、えと、その……え?」
「とりあえずまだ寝とけ。」
「…………はい。」

もういろいろと考えてただでさえ脳みそがオーバーヒートしそうだというのに、まさかの展開に私はもう体中から熱が出て暑い。だというのに彼は私から離れる気配がなくて、それどころか私のことを優しく抱きしめるものだから、下手に逆らえなくて、もうなにが何だかわからなくて目と喉の奥が熱くて、視界はあっという間にスリガラスのようにかすんでいってしまった。

「……何で泣くんだよ。」
「…だって、もう訳わかんなくて、なんかもう、何がどうなってるか、どうすればいいか私、わからなくて…ローさんいきなりキスするし、もう意味わかんないですよ…」

聞きたいことや知りたいことは山ほどあるけど、もうこの際どうでもいい。もうどうにでもなれと、彼の胸を借りて子供のようにおよおよ泣いておれば、頭上から呆れと笑いの混じった溜息が聞こえた。そして仕方がなさそうに私の頭をなでる大きな掌のぬくもりを感じた刹那、私はようやく「生きて帰ってきた」っという実感が胸の奥底からふつふつと湧き水のように湧いてくるのを感じることができたのだ。



執筆:2017.03.20.




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