34

「一体何が目的なんだ。もうお前とはかかわらないと言った筈だ。」

底冷えするような一際低い自分の声が響いて、男が刹那、そのサングラスの奥の瞳を曇らせたように感じた。男は暫く美術品を眺めるように俺を黙したまま眺めていたが、その口元の笑みだけは消えなかった。もちろんこのような科白はお互い想定の範囲内であるし、これから帰ってくる科白も然りである。夕日がビルの合間に沈んでいくのを男の背後で捉え、これから途方もなく長い夜が始まる様な気がした。

「ロー。お前は本当に変わっちまった。」
「違ェよ。俺は正気に戻っただけだ。」
「フッフッフッ、そうか。まあ、どちらにせよ、あの頃のお前は俺の右腕にふさわしい人間だった。ガキの分際であれだけのことが出来たんだ。行く行くは俺の後を継ぐ男だったのに、惜しいことをしたな。…だが、今がどうであろうと、お前は間違いなく過去からは逃げられねえ。」
「…………。」
「俺は未だにお前にはその“素質”があると思っている。」
「だからなんだ、興味ねえよそんなもん。お前が何をどうしようととやかく言うつもりはねえ。お前の言うとおり、俺は一度でもお前らと手を組んだ人間だ。元凶は俺にある。それに関してはお前らを責めるつもりはねえし、弁明するつもりもねえ。だが、関係ねえ人間まで巻き込むな。下らねえちょっかい出すなら、俺一人で十分だったはずだ。」

きっと一層睨んで男にゆっくり近づいていく。男は別段退くつもりも動くつもりもないらしく、目の前のテーブルにその足をどかんと載せて随分ふんぞり返った姿勢で俺を見ていた。本当にどこまで人を舐めれば気が済むのだろうと怒りがふつふつと出で、この瞬間にも増幅されていくのを感じたが、兎に角今は感情的になるのを少しでも抑える必要があった。刺し違えてでもこの男の口から今回の真実を聞きだし、今後二度と彼女に、そして自分に関わらぬことをあいつの口から言い出させるほどの落とし前をつけなければここに来た意味がないのだ。

「まあ、そうカッカするな、ロー。」
「俺の名を気安く呼ぶな。」
「随分嫌われちまったもんだな。」

そうは言っても男には別段ダメージなどないことは分かっている。刻々と近づいてくる距離に、男はむしろ喜んでいる様子であった。思えばあの時以来、この男とここまで近距離で対面したのは久しかった。

「俺をまだファミリーにもう一度戻せるとでも思ってるのか?」

テーブルを挟んで似三メートルも無い距離でそう見下ろしてそう言えば、男は心底可笑しそうに吹いて、それから参ったな、と言わんばかりに額を押さえた。まるでお笑い芸人が出ているテレビを見てるかのような反応に思わず額の血管が浮き出る思いがしたが、どうにか落ち着かせようと深く息を吸った。そうすれば幽かに昔に嗅いだことのある男の香りがし、刹那でも懐かしいと思ってしまったことに少しだけ悔しさを覚えた。

「そう思っていたんだがな、もう諦めた。」
「……何?」
「諦めたんだ。お前をここに連れ戻すことは不可能だとここ数年で分かったんだ。」

何を言い出すかと思えば、存外あっさりした男の言葉に正直驚いて、目を幽かに見開いた。あまり動揺を相手に分かりやすく見せてはいけないことぐらいは分かっているが、思わぬ男の独白に驚かずにはいられなかった。しかし、それもそのはずであろうとも思えた。というのも、ここ数年、自分は恐らくこいつらの嫌がらせのような者は全てことごとく撥ね退けてきたのだ。とはいえ、数年間執拗に追い掛け回し、今回の件でも黒幕として暗躍していたこの男が、今の今までの行いを全て踏まえて発言していたなら可笑しいのは至極当然であるし、納得など到底無理な話であった。

「それは今までのことを理解しての発言なのか?」
「ああ、勿論だ。俺はお前を諦めた。」
「…ついに頭までやられたのか。」
「もう少し言葉には気を付けろよロー。…まあ、いいだろう。今に始まったことじゃねえからな。」

一瞬憤怒を見せたかと思えば、男は再び余裕のある笑みを見せたかと思えば、ここに来て初めてちらりと自分の背後の景色に視線を送った。もう日は没し、いよいよ都会のフィラメントが自分たちを照らしだしていた。どこへ行ったのか、千切れた分厚い雲は、もうどこにも姿はなく、代わりに群青色の空には幽かに輝く点がいくつか顔を出していた。男は日が没するのを確認すると、ふん、と息を吐いて俺を見上げた。

「…そうだ、俺はお前を諦めた。だが…」
「………」
「後継者を諦めたわけじゃねえ。」

眉を潜めてその言葉の真意を無言で促せば、男はにたりと笑ってそれからしばらく同じように無言を貫いたが、突如思い出したかのように口を開いた。

「…そういやァみかんを見ねえが、元気なのか?」
「あいつは関係ねえって言ってんだろう。いい加減にしやがれ。」
「そんなにあの娘と俺を会わせたくねえのか?ん?」

思わず男の眉間に刃物を突き立てる。お互い微動だにせず、静寂がつつんだ。男は額すれすれに切っ先が向かれているというのにまるでどうにでもないかのように不自然なほどの平静であり、それは偽りの反応のようであった。俺が怒れば怒るほど男は天邪鬼の如く喜ぶ様子なのが非常に癪に障る。

「それだけお前がみかんを可愛がってやってるということだな、いい心がけだ。」
「………」
「でなけりゃあ、俺の今までの“心配り”が台無しだからな。」
「何だと…?お前の狙いは何なんだはっきり言いやがれ。」

切っ先をわずかに男の額に差せば、そこから幽かにぷくりと血の珠が現れた。男は余裕そうに笑顔を崩さぬまま、がしりと素手で刃先を掴むと、ぐっと力を入れたのが分かった。思わず眉間に皺を寄せる。

「まだわからねえのか?お前にしては随分察しが悪ィな……ロー、お前は今まで努めて女に関わろうとしなかった。」
「お陰様でな。」
「ああ、無理もねえな。隙のないお前を俺は結局連れ戻すことが出来なかった…だが、お前は俺を振り切ろうとするあまり、知らず知らずのうちに手前ェから盲点を作り上げた。」
「…どういうことだ。」
「お前は数多の女から距離を置くあまり、特定の女に固執することは今まで一度してなかった。だが、みかんは例外だ。何故あの女はそれまで同様避けてこなかった?……それはあの女がお前にとってそれまでの女たちの中で例外に値する“素質”を備えていたからだ。端的に言い換えれば、お前はあの小娘に少なからず魅力を感じた、そうだろう?」
「………」
「お前は今まで透かしたフリして女との接触は極力避けてきた。俺たちが用意した女や男にはことごとくゴミのように扱い、見向きもしなかったのにな。俺たちはどうにか取り入れる隙を考えたが、ここ数年でそれは無理だと分かった。お前は警戒して見てくれのいい女や都合のいい話をする女を避けるようになっちまったからな。正面切って手を出すのは言わずもがなだ。だが、それまでの失敗で得るものもあった。………お前がどういった人間を警戒し、どういった人間に心を許すのか、どういった場面であればそいつに関心を示すのか、否か…それがだんだんと分かった来たんだよ。」

男の話す内容に思わず嫌な冷や汗が流れる。男の言うとおり、通常の自分なら他人の言わんとしていることは皆まで言わずとも察しが付く。だからこそ、これから先男が口にしようとしていることがどれほどろくでもない事なのか想像がつき思わず額に汗がにじむような、背に冷たい汗が伝うような気がした。

「…なあ、ロー。みかんは“あの男”に似てるだろう?そう思わないか。」
「お前ェ、まさか…」
「フッフッフッ、ようやく気が付いてきたか。流石だな。」
「…まさか、あいつはお前らの」
「残念ながらそれはお前の誤解だ。あの小娘は何も知らずに巻き込まれた、いや、俺が巻き込んだと言った方が正しいな。もし仮に今まで通り俺たちが用意した人間ならば、お前はすぐに嗅ぎつけるし、その前にぼろがでちまう。…だが、何も知らない人間ならば、話は別だ。何しろ、ばれる嘘も何も初めから無ェからな。」
「…利用したのか。」
「こんなにうまくいくとは思わなかったけどなァ。あの女の性格と行動パターン、範囲、経歴をざっと調べれば、今後どう動くかくらいはだいたい予想がつく。あの女には知らないうちに俺たちに協力してもらったことになるな。最初はさして期待はしてなかったが…、まさかここまで俺の掌で踊ってくれるとは思わなかった。…みかんには感謝しなけりゃならねえな…」

やはりこの男は最初からみかんを利用するつもりであのマンションを紹介し、俺との接触を図るよう仕向けたのだと知り、思わず怒りのあまり奥歯をかみしめた。それだけではなく、本人までも知らないのだ。もしこのことを知ったら、みかんはどれほどの辛苦を味わい、自分を責めさいなむだろうということはあの性格を知っていれば想像に難くない。しかしながらそんな回りくどいことをしてまでこの男は何をしたかったというのだ。聞けば聞くほど謎は深まるばかりで到底理解できず苦しむのであった。男は歯を握る手に力を籠めてそれを下に向けようとしたので、思いきり力を出して振りきり、何とか男の手を刃から振りほどいた。男の手は歯を握ったときの傷で血がにじんでいたが、別段気にする様子も見せなかった。

「…そしてお前らは俺の想像をはるかに超えて親密になった。若いっつうのはいいことだな。俺たちが何もしなくても、お前らは勝手にくっつきだした。おかげで、俺たちは予定よりも早くそれを実行するようにいくらか細工をした。お前らは仲良子よしで同居をし、ついには愛の逃避行、という寸法だ。俺から逃れれば逃れるほど、お前らは俺の思い通りに自ら罠に嵌って行ったというわけだ。」
「………、」
「…そして、お前はあの女とよろしくやる中になった。そうだろう?今まで女とまともな恋愛をしてこなかった男と、それを気遣う女……なかなか感動的なシナリオだと思わねえか?そんな様子を影から見る俺たちは、さながら、愛のキューピッドだな。」
「お前は一体何がしたかったんだ…」
「さっきも言っただろう。俺はお前を“諦めた”。だが、お前ほどの素質を持つ男はそういない……。また新たに他の人間を探したが、やはり無駄に金がかかるだけだ。そもそも、目の前に欲しいもんがあるというのに、必死こいて探す方がおかしな話だ。お前自身は見込みがなくても、お前と同じ才を引き継ぐ存在を出現させる方法が、この世に一つだけあるとしたら、一体何だと思う?」

思わず絶句して目を見開いて男を見下ろせば男は上がっていた口角をさらに上げた。不気味な笑い声がだだっ広いフロアに響き、そして背景のフィラメントが全て遠のいていくような、底なしの闇に突き落とされていくような感覚が次第に自分を包んでいった。最初からこの男は俺を狙ってなどいなかった。いや、俺は間違いなくこいつらにとって必要な“役者”であるのは変わりないが、だが、俺は大きな間違いを犯していたのだ。こいつの狙いは俺自身ではない。あの女の言うとおり、こいつの真の狙いは那津みかんであった。もっと厳密に言えば、那津みかんと、彼女にに託されるはずの“それ”であったのだ。

「正気じゃねえな……」

狂っている。そんなことは最初から分かっていたことなのに、久しくこの男の闇に触れて気が違っていきそうになる感覚に思わず気が遠のいていくようだった。しかし、それと同時に思わず拍子抜けしたような脱力が自分を襲い、直後、この男の大きな誤算と慢心に思わず乾いた笑いが込み上げた。俺がくつくつと嘲笑を混じえてのどを鳴らせば、男はこの日初めて怪訝そうに眉を潜めた。

「……一体何がそんなに可笑しいんだ。」
「誤解をしているのはお前の方だ。」
「何だと」
「俺は今まで散々お前に人生を引っ掻き回されてはずれくじを引いてきたが…」
「…………」
「今回の懸けはお前の負けだ、ドフラミンゴ。」



言うも愚か





「ここだ。」
「はい…。」

促されるがままに(強制的に)エレベーターから下ろされると、目の前には紅の絨毯の引かれた廊下が見えた。後ろを振り向いて階を確かめれば、35階の表示の横に「top floor」という英語の表記が見えた。どうやらここが最上階らしい。ぼんやりと照明が灯っていて、しんと静まり返っている。ビルと言うよりもここだけ見るといいホテルのような雰囲気で、他の階もそのような構造なのか、或いはここが最上階だからなのかは定かではなかった。自分とセニョールピンクさん以外は誰かが居る気配はない。他のファミリーの人間は本当にここに居ないらしかったが、もしかすれば隠れているだけなのかもしれないと気を抜かずにびくびくしながらその場をきょろきょろ見回った。

「あの…」
「ああ。ここが最上階だ。」
「ローさんは無事なんでしょうか。」
「さあな…。俺たちはずっと外にいたから分からねえが、早く行かねえと嫌なもんを見ちまうかもしれねえ。お前だってその前に会いたいだろう。だから大人しくついて来い。」

悪いようにはしないからと、再三私に吐いた科白をもう一度吐くと、セニョールは私の腕を引いて左側に歩き出した。ひっそりとした廊下は長く、そして一番奥の方に窓がみえて、そこからはすっかり暗くなった都会の空が見えた。右手にはいくつかの扉が見えたが、セニョールは迷うことなく一番奥の一番多く那扉の方へと向かっているようであった。その扉が近づけば近づくほど、心臓の音が大きく高鳴っていくのを感じる。彼に会える喜びと、ドフィさんに直接対峙する恐怖、コラさんは今どこにいるんだろうという不安、すべてが織り交ざって追いつめられた私の肩にどっしりとのしかかってくる。だが、そんな追いつめられた中でも、自分を奮い立たせ足を動かすだけの原動力が、唯一、私の中の一縷の望みとして残っているのも事実であった。でなければ私は既に心身ともにHPが0となって動くことさえできず地面に蹲っていたはずだ。

「(……うまく動いてくれるといいんだけど。)」
「…ここだ。」
「はい。」

セニョールは扉の目の前で足を止めると、私を扉の前に立たせた。そして顎でその扉を開けるように指示した。私は言われるがままに頷くと、ゆっくりとその大きなノブに手をかけた。思わず足元にちらりと視線を向ければ、ポケットからはみ出ていた目つきの悪い白い虎と目があった。

「(ローさん…)」

絶望の最中、この扉の向こうに待っているものが、自分にとって少しでも希望のあるものであると信じて、目をぎゅっと瞑って扉をゆっくりと開いた。


2016.03.12.




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