33

其処は実に殺風景な場所だった。必要最低限のもの以外は壁紙に至っても何一つなく、まるで病室のように白く無機質であった。照明も実に簡素なもので、夕方にしてはうす暗く、そして心細い程の間接照明だけが足元と目の先を照らしていた。視線の先にはガラス張りの空が見えた。不恰好な千切りパンのような分厚い雲がぽつぽつ浮かんでいて、うっすら橙色に染まりゆく最中で、その雲の下には無数の都内の建物が散らばって立っているのが見えた。これから来るであろう夜に備えて、眼下のビル群はうっすらとフィラメントをつけはじめ、その美しいパノラマはいつぞやの星空に負けてはいなかった。自宅のマンションでもなかなかの景色を見ることが出来るが、流石にこのビルの最上階ともなるとこれだけ見える世界が変わるのだな、と頭の隅で実感した。

「……ようやく来たか、」

十数メートル先で男はそう言って、ようやっと腰を掛けていた革張りの椅子を緩やかに回転させるとようやく体を此方に向けた。いやらしいサングラスと男のずり上がった口角ががうす暗いこの空間で嫌な印象を与える。同じ空間に自分と目の前の男以外はおらず、これからも誰かが入ってくるような気配はない。恐ろしくひっそりしていて、時折吹くビル風に煽られて風の音に混じって天井の見えない欄干からの空気清浄器の音のみが聞こえた。男はにたりと笑ったまま、俺を見えると、なぜか満足そうに笑い声をあげた。まるでこの時を心待ちにしていたかのような態度であるが、それは自分も同じであった。サングラスの裏で目が細められた気がした。それと同時に自分は持っていた柄の力を強めた。

「ロー。」
「………。」

それは酷く懐かしいような響きであり、二度と男の口から聞きたくなかった言葉であった。







「他の奴らはいるのか。」
「いない。」
「…どういうことだ。」
「厳密に言えばこのビル内には私とローと若様。その他は外で待機している。私は元場から離れてここに来た。」
「…あいつの指示なのか。」
「ええ。」

今更自分の行動が筒抜けであることは別段可笑しくはないし想定の範囲内ではあったが、まさかここまであいつが俺を万事迎え入れるとは拍子抜けであった。しかし、外で待機する残りの奴らといい、ベビー5のこの装備を見る限り、多勢に無勢なのは変わりないし、そう簡単にけりをつけることが容易ではないことがよく解っていた。だからこそ一人で来たのだし、覚悟を決めてきたのだ。無機質な音を立てて上へと向かって行くエレベーターのガラス張りの窓からは夕日の橙が差し込んで自分たちを照らした。

「お前が抜けたのはあいつらは知っているのか。」
「いえ。まだよ。でももうそろそろ気づく頃合いだと思う。…私は一旦管理室の方へ行くわ。監視カメラと電話線等の連絡を一時的に遮断する。」
「携帯は」
「警察や公安の傍受を避けるために基本的には特殊な無線や信号を使ってるから。もちろん一時的な遮断しかできないけれど、時間稼ぎにはなるはず。…それまでは好きにやっていいわ。」
「お前に言われるまでもねえ。」

軽快な音が響き、ようやくこのエレベーターが最上階に来たのだということが分かった。エレベーターを降り、あいつの居る元へと歩き出そうとした刹那、女はロー、と一瞬だけ呼ぶと、俺の目に一瞬だけ目を合わせて、それから腰のそれを半ば強引に押し付けて、それから何事も無かったかのように反対方向へと静かに走り出した。

「………。」

手に治まったそれに小さく舌打ちをすると、そのまま着ていたジャケットの内側にそれを身に着けて、それから自分も足早にそこを後にした。



一寸先は闇





「…いい、と言うまで出ては駄目だ。いいな?」
「はい。」

言われるがままに植え込みの下でちょこんと膝を抱えて丸くなれば、コラさんはそれを見てニコリと笑った。コラさんは今まで見たことのないような真剣な顔で辺りを見回すと、ビルとビルの間の狭い路地裏に侵入した。先ほどとは違う服に着替えて髪の毛もかつらをかぶって行動する彼はそれこそドラマで出てくるような隠密活動をするスパイのようであったが、どこか危なっかしいのは彼だからこそなのだろう。私も私で怪我を隠して用意されていたかつらをかぶり、まるで小学校の少年のような恰好で待機していた。おかげで膝小僧の絆創膏もなんだか夏の少年仕様で違和感がない。ローさんのキャップもなかなかいい変装小道具として活躍している。

意外にもドフィさんが潜伏しているというビルは繁華街の大通りに面していたので人通りは多く、よくあるドラマの悪の組織のアジト、と言った感じではなくて、普通の地下駐車場のある高層ビルであったので拍子抜けした。植え込みの陰からビルを見上げれば、それは、どれほど高い建物か知ることが出来た。コラさんによれば、ドフィさんは最上階に居て、恐らく今頃ローさんもそこで彼と対峙している頃合いである。もう町は橙色と暗闇に支配されつつある黄昏時で、これから繁華街の夜が明けようとしていた。

「(それにしてもこんな感じで本当に潜入できるのか、心配になってきたわ。大丈夫なのかな……コラさんは大丈夫だと言ってたけど、あの人結構大事なところでドジるみたいだし…私も人のこと言えないけれど………とりあえずローさんに会いたい。二人ともそんな流血沙汰になる様なケンカしないよね…?いや、あの二人ならやりかねない…怖い…ローさんに会いたい…会いたい…)」

思わず足元の小石を手に取って思わず彼の名前を地面に刻んでおれば、不意に足元に影が映り、はっとして顔を上げて思わず息が詰まりそうになった。

「…せ、せにょーる…ぴんくさん…」
「久々だな、みかん。少し見ねえうちに随分、餓鬼っぽくなっちまったようだが…」

そういって彼はずいっと私に近づくと、何事も無かったかのようにしゃがみ込んで、私と目線を同じように下げた。私はその間、唖然とし、驚きのあまり目を見開いたまま彼を眺めることしかできなかった。それこそ、『見ぬは極楽、知らぬは仏』以来の久々のセニョールの登場に思考が追い付かず、如何してよいか分からなかった。しかしそんな私などお構いなしに彼は私と同様小枝をとると、もう片方の手で煙草をふかしながらなぜか地面にぐるぐると円を描き始めた。何か言わなきゃなのは分かっているのに、彼の履いている新品の白い靴が植え込みの泥に汚れてしまうのが忍びないなあとどうでもいいことしか浮かばない。

「その怪我どうしたんだ。」
「…あの、転んじゃって。」
「お前はもう少し落ち着いて行動した方がいいな。」
「…あは、あはは。あ、あの、セニョール、」
「ん」
「今日は、その、御日柄もよく、なんていうか、その、絶好の植え込みに隠れる日和ですよね…」
「お前はローに会いに来たんだろう。そしてなぜ俺がここに居るか知りたい、違うか?」
「仰る通りでございます。」

思わず即答すればセニョールはふ、と笑ってそれから再び煙草をふかした。このままじゃコラさんと車内で必死に練に練り上げた、「ドキっ★トラファルガーロー救出どっきり登場大作戦」が水の泡である。変装した意味もない。そもそもこのタイミングでコラさんが出てきてしまえばそれこそ鉢合わせで大変なことになってしまう。それだけは避けなければと思案を巡らせ、ぶるぶるしながらも彼の一挙一動に細心の注意を払う。でもそんなことはお構いなしにセニョールは続ける。

「で、ローとはどうなんだ。その後は。」
「…え、ローさんとですか?」
「そうだ。呉は楽しかったか?同じコテージで泊まったんだろう。」
「ええまあ。あ、でも彼との泊まりはマンションから引き続きで。」
「ああ、そういやあだったな。で?」
「いや、『で?』って…」

微妙な反応を返す私に彼はどことなく痺れを切らしたのか、んー?と唸って眉間に皺を寄せると、サングラスの奥の目を細めた。

「回りくどい言い方だったな…一応気を遣ったつもりでそう質問したんだが、そうだな、素直なお前にはかえって分かりにくかったか?」
「?」
「ローとはもうヤッたのか?」
「ぶ、」

思わぬ歯に衣着せぬ発言にダメージを食らいつつも何とか地面に手をついて倒れこむのを阻止すれば、それを見た彼が再び首を傾げた。

「な、何を言い出すかと思えば、ちょっと、何でこの期に及んでそんなことを…。」
「今だからこそだ。」
「で、やったのか。」
「や、ややややっや、やるわけないでしょう?そもそも、貴方の言うやるって、何なんですか!?からかってます!?ここお店じゃないんでやめてくださいよ!ましてやお互い素面だし…」

あたふたする私を余所に彼は煙草を足元に押し付けると、胸元から新しい一本を取り出して、自分の手の甲にぽんぽんしながら私を見た。そして随分険しい顔をしたので、ようやくいつものダンディな彼が戻ってきてくれたかと思いきや、やや焦ったように彼は手を顎に当てて何かを考え込み、そして再び口を開いた。

「…一応聞くが…みかんとローは、付き合ってるんだよな?」
「え、付き合ってませんけど。」
「………」

私が普通にそう伝えれば、彼は今しがた火をつけ咥えたばかりの煙草をぽろりと落とした。その表情はサングラスではっきりとはしないが、微動だにしないその様子は明らかに動揺を隠し切れていないというのはよく解った。そして暫し固まっていたかと思えば、彼はようやくこっちの世界に戻ってきたと見えて、落ちた煙草を見てずるずると足で始末をし、乱れた前髪を掻きながら、ながらようやく口を開いた。

「…もう一度くぞ。お前らは付き…」
「あってません。」
「…………。」
「恋人同士じゃ…」
「ありません。」
「………お互いヤッては」
「ないです。」
「…一発もか?」
「ないです。」
「…………。」
「…………。」
「………マジか。」
「?」

私が首を傾げれば、今度は彼が前に倒れ項垂れる番であった。セニョールは暫くの間項垂れていたが、時間が経過するとばさりと立ち上がって、それから私を見上げた。よく解らぬが、どうやら私は知らぬ間に彼の期待を裏切った様な形となったらしい。とはいえ、私は何を隠そう目の前の人物たちに悩まされていたわけだから、そもそも期待もくそもないのだ。一体この人たちは何がために私たちにここまでちょっかい出してくるのだろうか。疑問に思いつつふと顔を上げれば、辺りはすっかり暗くなっていて、さりげなく先ほどコラさんが姿を消した路地の方へ視線を送るも、彼はこちらに戻ってくる気配はない。

「…こうなっちまったら、直接会わせたほうが速そうだな。」
「はい?」
「いや、こっちの話だ。みかん、ついて来い。今からローに合わせてやる。」
「えっ、ほ、…本当ですか?いや、でも…てかやっぱりあの人ここに居たんですね。」
「ああ。今いかねえと間に合わねえぞ。早く来い。安心しろ。お前のことは俺を始めファミリーの奴全員傷つけることはしねえ。絶対だ。」
「な、何故ですか?」
「それが若様の命令だからだ。どうせお前はいつか会わなきゃならなかった。いいか。ローを傷つけたくないというなら、言うことを聞いてくれ。俺も手荒な真似はしたくねえ。」
「い、今傷つけないって言ったのに…(こ、コラさん助けて…!)」
「ケースバイケースだ。」

うわああ!と心の内でそう叫んで路地の方を見るも、やはり一向に彼が出てくる気配はなかった。私の心境など無関係にセニョールは私の手を取ると、そのまま立ち上がらせ、私を横抱きにすると強制的に運搬し始めた。これでは完全に子供のようではないか。せめてもの抵抗と、さり気無くポケットに入っていた定期ケースを植え込みの方に静かに落しておいて、コラさんが来た時の緊急事態を伝えるメッセージとした。これは先ほど二人で考えた方法の一つである。

「……若様になんて言やァいいんだろうな。」
「?」

担がれてビルのエントランスを通過した最中、普段の彼に似合わず小さな声で何か囁いたような気がしたが、今はとにかくパニックで何も答えることが私自身も出来ず定かではなかった。が、事態が即座に急変し、計画がとん挫したことだけは真っ白になった頭の中でしっかりと理解できていた。相手は裏社会の人間であるし、抵抗も意味をなさないのだ。そのことはコラさんの話を聞いていたのでよく解っている。もうこうなっては仕方があるまい。あとはコラさんがうまく立ち回ってくれれば起死回生のチャンスはある。そもそも私を連れて彼が行動することがやはり無謀だったのだと身を以て実感し、悟った。とりあえずお荷物と化した私が出来ることと言えば、コラさんが動きやすいように言うことを聞いたふりをして時間を稼ぎ、そして自分でタイミングを見計らってローさんと脱出を図ることである。

「(とりあえずコラさん気付いてくれるだろうか…。それにしても、ローさん、今どうなってるんだろう。)」

エレベーターの扉が開かれ、ようやく体を下ろされると乗る様に促される。扉が開かれて、最上階のボタンが押される。

「このビルの一番上だ。」
「…………、」

これだけ待ち焦がれた彼との対面が、ものの数分で叶うというのが、この状況下ではとてもじゃないが俄かに信じ難くて、恐怖からなのか、緊張からなのか自分でもよく解らない小刻みな震えが止まらず、吐き出した吐息は震えていた。


2016.03.09.




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