31

「眠いなら少し休んだ方がいい。あいつが向かっている場所は分かっているが、どうせすぐには追いつかない。あくまでみかんちゃんは病人だ。無理しないでくれ。」
「…ありがとうございます。大丈夫です。疲れたらお言葉に甘えて休みますので。」

あの不思議な夜の後、コラさんは私の意思を確認した後、思い立ったが何チャラと言うように私の容体を確認した後、荷物をまとめてそのまま車に転がり込んだ。私は元より荷物はトランク一つだし、コラさんに至っては身一つだった。コラさんは私がすぐに横になれるように後部座席に乗せると、用意していたブランケットを肩にかけるよう言った。海からなだれ込む、朝靄の林の中車はエンジンをとどろかせた。不思議と蝉の声は聞こえず、タイヤが地面を踏みしめる音が聞こえた。こんなにも早くここを立つとは思わなかったし、ローさんとは別の人とここを立つとは想像さえしなかった。まるでいままで起きたことが全部夢の出来事で、これから先、私の前に立ちはだかるすべてが現実かのような感覚を覚えた。視界がやがて白んできて、ようやくこの静寂のうす暗い林を抜けるのだということが分かった。

「…もう朝だな。」
「はい。」

うす暗い林を抜ければ、眠っていたすべてが再び動き出すような気がして、彼の帽子を握ったまま、瞬きも忘れて目映い光を眺めていた。すると、それまで忘却の彼方に置き忘れてすっかり記憶から欠如していた生々しい記録が、突如目の前に断片的に頭の脳裏で砂嵐に交じって蘇っていくような感覚を覚えた。







「…………」

空が白んでいくのを視界の端に捕え、何となく窓を開ければ凄まじい轟音とともに肌に叩き付けるほどの風が車内に入り込んできた。徹夜であるというのに目は冴え冴えとしていて、朝の澄んだ空気の中を差し込む日差しがミラーに反射して眩しかった。休憩などほとんどないに等しい中で車をすっ飛ばしてきたおかげか、朝にはもう都内に行きつく様子であった。長期休暇中のこの時期には珍しく、高速も夜になれば大分空いていて、同じ方向に向かってくる車とすれ違うことも数えるほどであった。運転中であるのであまり考えずにいようと努めたが、案の定さまざまなことが脳裏に断片的に表れては消えていき、幾度か運転に差支えそうになる場面もあったが、ぎゅっと眉間に皺を寄せて何とか耐えた。時計の文字盤を追えば、もう朝方の五時を迎えようとしているのを見て、ふとそれまで脳裏を支配していた黒いイメージがすっと引いていき、代わりにへにゃりとした何とも言い難い柔和なイメージが流れ込んできて思わず口元が緩みそうになった。今頃あの女はベッドの上で未だ夢を見ているのだろうか。今日こそは目を覚ますだろう。二日も寝ていれば、最初は混乱するに違いないが、信頼できる人間が傍にいるのだ、問題はあるまいとそう思って、視界の端に見えた標識を見て、思わず徐々にブレーキを踏み込んだ。

「…は、」

本当は寄る必要などなかったのだが、思わず車を駐車させて息を吐いた。そしてシートベルトを外すと同時におずおず外へ出ると、そのまま一直線に視界の先の自販機に足をすすめた。公衆トイレと数代の自販機が並び、後は設置されたテレビから交通情報が延々と流れる簡素なサービスエリアである。迷うことなく小銭を入れてボタンを押せば、黒い小さな缶はガコンと言う音を立てて下に下りた。それを拾い上げて、その場で封を開ければぷしゅ、という音を立てて湯気が出てきた。いつぞやと同じ香りが鼻孔を掠めて、目を細める。そのままゆっくり口に運んで飲み込んで、ようやく息をついた。苦く濃い味が舌を包む。今は片づけなければいけないことが山ほどあって、こんな時にそれ以外の余計なことを考えるのは自分でもナンセンスであるとは十分に分かっていたが、今この瞬間、このブラックコーヒーを飲み終わるまでは、彼女とのあの数奇な日常を思い出すことが許されるような気がした。

随分自分勝手に連れまわした挙句の果てにこのように捨て置かれるなどとは、彼女は思いもよらないだろう、そう思うと態とではないとはいえ、心が痛んだ。思えば自分はそれまで見てくれに合わず(自覚はしている)女性とこのように親密で長期間連れ出すことは今までなかったし、自分でそれを良しとしなかったのだ。人並みに女性を知ることはあってもこれほど自分以上に情を入れて付き合う女は妹以外いなかった。今思えばもしかするとそんな自分の行動があの男の付け入る隙を与えてしまった要因かもしれないが、あの日々は正直自分にとっても充実した幸福な日々であったのは間違いなかった。呆れることも多かったが、それ以上に愉快な日々であったと思う。もし自分がこんな厄介な人間でなかったら。普通の一般人のままで彼女に会っていたならどうなっていただろう、と、そこまで考えたところで空になった缶をぐにゃりと押しつぶした。その瞬間、すっとまた自分の心の中で冷たい空気が流れ込んできて、瞳がどんどん濁っていくのを感じた。

「(…自分の始末もつけられねえ人間が考えることじゃねえな。)」

そう一人ごちて、それからパーカーのポケットに手を突っ込む。小さな正方形の箱とライターを手に取り、箱の中を見たが、あいにく空だった。空であった煙草の箱と不甲斐ない自分に対する舌打ちを一つ零し、缶と同様ぐにゃりと潰した箱をゴミ箱に投げ捨て、黙したまま自分を待ち続ける車へと向かって歩き出した。すべてを終わらせたとき、みかんはもう安全な場所に居て、俺は何の躊躇いや後ろめたさもなく初めてみかんの前で立てるのだ。あと少しだ、あと少しで自分の手でけりをつけて、あいつの呪縛から解き放たれるのだ。







「…あの、聞いてもいいですか?」
「ん?何だ?」
「…コラさんは、ドフィさんとは今でも絶縁状態なんですよね?」
「そりゃあな。あんな一件があったら連絡を取ろうとする方が可笑しい。」
「確かにそうですね。ドフィさんはどうしてそこまでして現状に甘んじるんでしょうか。それに、そこまでローさんに執着する理由が未だに分かりません。…部外者の私が言うのも可笑しいかもしれないけれど…」

そこまで言って、先ほどコラさんに買ってもらったミルクたっぷりの甘いカフェオレを口に流し込んで、一息つく。コラさんはバックミラーで私をちらりと見遣ると少しだけうーんと唸って、それから困ったように眉をハの字にした。

「どうだろうなあ。よく解らんが、生まれながらにしてそう言う人間もいるっていうことだと思う。俺がどじってばかりの人間であるように、そう言うのは一生治らないのかもな…。さっきも言ったが、俺も最初はどうやったってドフィを母親の元へ戻したかった。でも叶わなかった。」
「…同じ家族でもやっぱり一個の人間なんですね。」
「そう言うことだろうな。とはいえ、俺もドフィがローにあそこまで執着する本当の理由は分からないんだ。何だろうなァ、よく解らんが、恐らく波長のようなものをドフィは感じたのかもしれない。こればっかりは本人に問い詰めない限りは分かり得ない。」
「そうですか…。」

そう言って視線を下げる。何となく被ってみた彼の帽子のひさしが目元に影を作り、少しだけ視界を暗くした。ふと窓の外を見れば、高速道路の防音壁の切れ間から、キラキラした海の水面が見えた。もうすっかり朝を迎えたらしく、地平線からは太陽の顔がもう半分以上見せていた。再び視線をバックミラーへと向けて、口を幽かに開いた。

「あの、コラさん。」
「何だ?あ、トイレか?トイレなら我慢せずに早めに言ってくれよ?この辺から三十分以降サービスエリアないんだ。」
「あ、いえ。お気遣いありがとうございます。でもそうではなくて…」
「?」

私があまりに歯切れ悪くそう切り出したので、コラさんは運転中にも関わらず私を伺うようにバックミラーで伺うと首を傾げた。なんだか申し訳ない上に、デフォルトで結構ドジな彼が運転中と言うだけでもなかなじゃスリリングなシチュエーションなので、できるだけ早く言おうと身を乗り出した。

「実は、さっきから言おうと思ってたんですけど、何しろ私、ようやく目を覚ましてから少し経った後で思い出したことだったので…でも、なんだか本当に現実世界で起きたことだったのか自信なくて、言えなくて…でも、今言わなきゃいけない気がしてて、」
「何かあったのか?落ち着いて、ゆっくり話して御覧?」
「はい……実は、呉に着いたその日、不思議な目に遭ったんです。あの臨海公園にローさんと寄って、ベンチで少し休んでいた時に、私、変な女の子に会ったんです。すごく強烈な出来事だったはずなのに、何故だか気を失ってから起きるまで全然思い出せなくて…でも先ほどコテージの林を抜けて朝日を浴びた途端、私、はたと思いだしたんです。」
「変な女の子。一体どんな子だったんだ?……まさかとは思うが、ファミリーの人間の可能性は否定できない。一応、あの辺は俺たちの管轄直下だからそう簡単には潜り込めないはずなんだが、小さい子だというなら、その監視の目を潜り抜けるかもしれない。もちろん派手な真似は出来ないだろうが…」
「はい…私もよくは分からないのですが…。あの一件から私、すごくローさんと親密になりたい欲求みたいのが膨れ上がったというか、でもなんだか頭の片隅で脅迫的に、強制的にローさんと親密にならなければならないといけない使命感みたいなのがすごい自分の中で合って…あ、でも全然そういった大胆なことは恐れ多くて全然できなかったんですが…。」

確かにあのような場所で男女二人で居れば自然の感情に違いないし、元より私は彼をすごく好いているのだから至極当然の感情なのかもしれないが、何だか自分の自然な感情とは裏腹に性的な欲求が不自然にも増強していくようなとっかかりを覚えていた。もちろん最初は男性との夜を過ごすのが久々だったからだと自分で自分を納得させていたが、今となってはあまりにも自意識過剰になっていた気がする。もともと自意識過剰な背核ではあるが、あのローションの件の興奮は変態の領域であった。いや、確かにローさんのあの行動もなかなか問題ではあるが。

「とにかく!その、端的に言えば、恥ずかしいんですが、あの一件から、わたし間違いなく性欲が増したんです!いつも以上に!それ以前の私なら、ローさんと一緒にいることに喜びは感じても、恐れ多くてそれ以上の関係は望みさえしなかったんです。冗談で思うことや自意識過剰な勘違いはあっても、まさか本気でその、肉遺体的な関係になろうとか、それ以上の親密な関係になろうだとか、積極的になんかしてやろうとか、大胆な行動なんてしようとしなかったし…元々チキンで自分から何もアクション出来ないタイプだし…」
「あはは、でもそれは自然な感覚じゃないのか?俺だって惚れた女が傍にいれば性的に触れたいと思うぞ?」
「そ、それは勿論そうなんですが、また違うんですって!もう、なんて言えばいいのかなあ、兎に角自然な感覚も確かにそこにはありましたが、使命感に似た嫌な感じの情欲が湧いていたのも事実なんです…。だから、つまり私が言いたいのは、ドフィさんが今回狙っているのは、ローさん自身だけではないのではないかと言うことです。」
「それはつまり、ロー以外に狙いがあるということか?」
「はい。簡単に言えば…まだ確証はありませんし、おこがましい気がしてなかなか癒えずにいたんですが、多分、もしかしたら、私にも問題があるのではないかと、その記憶を思い出して直感的に思ったんです…」

確証はありませんが、ともう一度同じように一言添えてそう言えば、コラさんは黙ったまま、何かを考え込むように視線をフロントに向けていたが、やがて額に少し汗をにじませると、ひときわ低い声で口を開いた。

「……もしかしたら、俺は、みかんちゃんを連れてきたのは間違いだったかもしれないな。」


元の木阿弥




苦虫を噛んだような顔でコラさんはそう言うと、険しい表情で前方を見つめていた。


2016.03.06.




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