30

「コラさん、俺、都内に進学しようと思っている。」
「…ま、マジか。」

ちゃぽんと釣り針が幽かに動いて、水面に波紋が広がった。俺は思わず慌てて引いていた竿に手を伸ばしたが、見事に手を滑らせて竿を水面に落とした。動揺する俺を余所にローは冷静に網ですくって取り、俺にそれを手渡したので安堵のため息を吐いた。魚は逃がした。

「もう、いいのか。」
「いいも何も、こんな田舎じゃ進学しても意味がねえ。」
「だが、ドフィがまたちょっかい出すかもしれねえぞ。」
「…そうかもしれねえが」

朝焼けが見えてきて、海や空を赤に包み込む。キラキラ光りだした水面の上で、優雅に大きな艦隊が泳いで渡っていくのが遠くに見えた。ちらりとローの表情を覗きながら、それから再び竿を大きく振りかぶって水面に叩き付けた。

「俺はまだガキだが、もうあいつ等とはかかわらねえ。もうそこまで馬鹿じゃねえし、戻るつもりもねえ。コラさんのおかげでよく解ったんだ。ただ、純粋に勉強をするだけだ。」
「もちろんだ。お前なら絶対医者になれると俺だって思ってるさ。だが、ドフィが執拗なのも知ってるだろう?今までは田舎に居たから手を出せねえでいたかもしれねえが、戻ったら何されるか分かんねえぞ。」
「分かっている。だが、もうあいつらにビビッて生活するのはもう御免だ。俺は、俺のやりたいように生きる。コラさんだってそうだろ。自分でけじめをつけようとしてわざわざあぶねえ橋を渡って俺を助けた。だったら俺も逃げねえ。あいつが居ようともやりてえようにやる。」

ローがそう言ってじっと自分に視線を合わせて来たので、思わず目を見開いた後、少しだけ目の奥と耳が熱くなった。最近の女子高生でもしなさそうな照れ方に、横のローは思わずぎょっとした表情を見せたが、次の瞬間には小さく口元に弧を作った。そして獲物の引っ掛ったらしい自分の竿を引っ張った。

「…ま、何かあっても、俺がいるからいいか。」
「コラさん来るのかよ。」
「いや、毎日じゃねえけど、一応今は海軍の内部潜入しながら報告しに都内行くからな。うん。別に心配ってわけじゃねえぞ?何ならローの方が俺よりしっかりしてるしな。」
「まあな。」
「そこは否定しないのかよ。」








「あいつが居るからと言ってここにとどまっていれば俺はいつまでもドフラミンゴに屈したことになる、そう言ってローはその年に都内に進学した。案の定、ドフィはローに早速突っかかってきたが、俺たち監視の目は届いていたし、ロー自身も出来ることはしていた。勉強は言うまでもなかったが、可哀想に、恋人の一人や二人いてもいい年頃なのに真剣な恋愛も出来なかったんだ。」
「随分荒んでいたと聞きましたが…」
「あまり自分に関わらない様に、深入りされない様に努めていたんだ。もし本当に自分が好きな子を持ったとすれば、ドフィは其処に目をつける。ローはそれを見越して全く興味のないフリをしたんだ。どうってことない存在なら利用価値もないからな。おかげでホモなんじゃないかっていう噂が流れたって腹を立てていたよ。」
「なるほど…」
「高校生になったとはいえ、ローはまだ俺たちの保護下に置かれなければ、当時はろくに普通の生活も出来なかった。その頃の大学病院の騒動でドフィは鳴りを潜めて普通の不動産業やサラ金のような金融業に手を出し始めたんだ。俺たちも何もしていないドフィにうかつにちょっかいは出せない。何しろ、警察にもドフィの手は回っているから、ちょっとやそっとのことでは揺るがすことは出来ない。まあ、大学病院の時みたいなインパクトがあれば、別だがな。そうしているうちにローは大学に進学し、この頃になってようやくドフィの手が届かなくなってきたと思っていたんだが……ドフィはローを諦めていなかったようだな。」

そう言ってコラさんは肩をすくめた。私は思わず視線を下にして、膝の上のもこもこの帽子に移した。

「…それで、私は置いてけぼりなんですね。」
「それもこれも、君を傷つけないためなんだ。ローは後悔していた。」
「後悔?」
「ああ。君に対して迷惑をかけたと思っているんだ。こんなことは今までになかった。普段のあいつなら、君のことを無視して適当にあしらうことも出来たのにそれをせず、ここまで一緒だったんだ。あいつは口にして言わないが、みかんちゃんのことを大事に思っているからこそだと思う。」

コラさんはそう言うともう煙草を押し付けてふう、と息を吐いた。私は彼の言葉の意味を咀嚼するのに必死で、暫く言葉が出なかった。こうしている間にもローさんはドフィさんのところに一人で向かっているのだと思うと、酷く心が騒いだ。私が行ったところでどうこうなることではないけれど、今はひたすらローさんに会って、話をしたかった。こんなに辛いことを経験していたのに、そんなことつゆ知らずで、私は能天気にひざまくらだのベッドだのではしゃいでいたのだと思うと思わず自分が恥ずかしくて、穴があったら入りたいくらいだった。ローさんは今何を考え、今後どうしたいのか。私とはもう二度と会わないのか。今すぐにその返事が聞きたかった。独りよがりもいいところだと分かっているけれど、今はただ会いたくて仕方がなくなっていた。他人を思ってこんなに胸が苦しくなるのは初めてだった。

「…話が長くなってすまなかったな。今度は、君の話を聞かせてくれるか?」

そう言われて思わず下げていた視線を上にあげる。目の前の男性はまっすぐ私を見据えて静かにわたしが返事を返すのを待っていた。彼の目から視線を反らし、天井をあおいだ。目を瞑り少しだけ過去の記憶の海に身を委ねる。

「私は………、」

脳裏に、幽かに懐かしい記憶が浮かび上がるようだった。二日間も目覚めずに眠っていたせいか、驚くほどに頭が冴え冴えしているように思われた。

「山か海、どっちがいい?」
「えっ、うーん……………海?」
「海か。」
「うん!」
「そうか…」
「うん、海の方が好きかも(山も好きだけど)」
「やっぱりな……パパもだよ。」
「ふーん?」


多分これが、私の人生における一度目の転機だったのかもしれない。



一日逢わねば千秋





転勤族の父が脱サラをして突然漁師になると言い出したのは、私がまだ小学生の頃であった。これにはさすがに母も呆れるだろうと思っていたが、もう引っ越さなくていいのかと言うことで妙な安心感を得たと見えて、母はそんな父に文句も言わずについて行ってしまったのだ。もちろん両親の監督下にあった私たち兄弟に選択肢はなく、私は有無を言わさず、気が付けば九州は熊本に腰を落ち着かせることとなった。もともと関東や東北を転々とし、標準語のみしか話せなかった私は、本当に同級生が何をしゃべっているのか分からず苦労した。曾祖父が九州人の父は気が楽だったかもしれないが、生粋の埼玉県人であった母は正直未だに熊本弁になれない。実際、今でも近所の人や職場の人が時折何を言っているのか分からなくなる時があると漏らすし、私も同様である。

「小さかった弟の方が一番馴染んでいました。友達は私によくしてくれました。それは今もそうです。定期的に小学校の友人とは今でも連絡を取ります。自然が豊かで、コンビニが無くて、不便だけど楽しかったです。中でも、一番仲よくしてくれた子がいました。」
「どんな子だったんだ?」
「それが、なんて言ったら良いのか。一言でいうなら、ターザンですね。」
「ターザン?」
「はい。すごい野性的と言うか、いつも半袖短パンで、膝小僧と鼻には絆創膏がくっついてて、鼻水をずるずる言わせてたこなんです。」
「はは、まるで男だな。」
「はい、男の子なんです。」
「男の子が一番の友達だったのか?」
「はい。」

私がそう笑って答えればコラさんは目をぱちくりさせた。

「彼は生まれたころからその港町で育って、海は勿論、山やのっぱらに行っては私に色々教えてくれました。草花の名前や、商店街のお店、コワイおじさんのいる場所や、トンボの捕まえ方や川での魚釣りまで。勉強の方はからっきしでしたけれど。遊びの天才でした。昭和の少年のような子だったんです。言葉の解らないおどおどした私をいつも気遣って、学校でもよくしてくれました。」
「いい子だな。」
「ええ。本当に。あんまり仲が良くていつも一緒にいたから、他の男子から冷やかされることがあっても、彼は全く気にするそぶりはなくて、堂々としていました。ガキ大将みたいなところがあったんです。今思えば、引っ込み思案でそのくせ寂しがりな私の気持ちを彼は分かっていたのかもしれません。彼にはお母さんが居ませんでした。下に三人の弟と妹が居て、酒屋のお父さんの手伝いをよくする子。よくよく考えれば、少しだけ、ローさんに似ているかもしれませんね。」
「その子が?」
「ええ。勉強は全くできなかったんですが、面倒見はよかったし、すごく優しかったんです。勉強は微妙でしたが、頭が悪かったわけじゃないんです。むしろすごく物知りで、熊本で見える綺麗な星の名前を教えてもらったりしました。ローさんも星についてお詳しかったんで、あの時、一瞬だけ思い出しました。」

そう言って絆創膏の張られた自身の右腕の手首を掴みしずかにじっと見た。

「それに、見てくれもちょっと似てましたよ。本を読んだり、蝉の脱皮を見ようとして夜更かしをよくしていたので、いつも目の下に隈がありました。今まで全然思い出すことなんてなかったのに、不思議ですね。彼は宮沢賢治が好きでした。幻想文学が好きだったんです。よく私に本を貸してくれました。背表紙がぼろぼろで、どれほど何度読んだことか分からないような本でした。でも、おかげで私は文学生になれました。彼のおかげですね。」
「その子は今どこにいるんだ?熊本か?」
「…いいえ、実は私が中学に上がる前に引っ越してしまったんです。酒屋さんはお引越ししていなかったのですが、彼だけ、東北に行ったと聞きました。遠い親戚がそこに居て、養子になったんだそうです。」
「はっきりわからないのか?」
「はい。本当に突然でしたから。私、実は東北に行ったことがあったんですが、正直言うと、それだけではなくて、無意識に彼に会えるかなあ、なんて思ってたので、あえなくてがっかりしました。そもそも、東北のどこにいるかもわからないのに、可笑しいですよね。」

私が笑えばコラさんは小さく優しく笑った。

「私は、あの子が居てくれたおかげで今このように馬鹿みたいに明るく生きて行けていますが、彼が居なければ、優しい皆が居なければ多分、此処には居なかったかもしれません。彼が居なくなってからその後、鳴かず飛ばずで微妙な成績を保ちつつも生計を立てる父と、それを支えるためにパートに出る母、サッカー少年の弟に挟まれ、私は相変わらず熊本で中高を経て、都内の大学に通うことになりました。私の人生といえば、こんなものです。だから、コラさんやローさんみたいに苦労はほとんどしていませんし、辛いこともほとんどありませんでした。」
「いや、人の悲しみや苦労はそう簡単に計りにかけることは出来ないよ。君には君の悲しみがあったはずだ。それでもここまで生きて来たんだ、もっと胸を張っていいと思うよ。少なくとも、俺も、ローも君のことをきちんと認めている。」
「なんだか、すごく恐縮です。」

えへへ、と言いながら照れ隠しに頬を掻けばコラさんは目を細めた。そしてさてと、と言ってコラさんは立ち上がると、大きく伸びをした。私はその姿をぼんやり見上げる。

「君の話が聞けて良かったよ。ありがとう。」
「こちらこそ、色々教えて下さって嬉しかったです。ローさんに聞いても、きっと答えてくれなかったことだと思います。」
「ははは、一人で何とかしようとするタイプだからな。でも、別に信用されていないわけじゃないんだ。自分の仲間にも本当のことや自分の考えていることをあまり口にしないし、気にすることはないさ。…で、この後のことなんだが、」

ゆっくりと庭の景色が見える窓際へ移るとコラさんは外の景色を見ながら話を続けた。大きな背丈の向こう側には夜の闇に溶け込んだ林が見えた。心なしか蝉の声がほとんど聞こえてこない。三時を回った静かな夏の夜は、ほんの少しずつ夜明けの気配を感じることが出来た。コラさんはベランダの窓を開けると、外の空気をゆっくりと吸い込み始めた。夏の幽かな温かさと海の湿り気を帯びた風が部屋に流れ込んで、私の前髪を掠めた。

「君は、どうしたい?」

コラさんは此方を振り向くことなく私に静かに問いかけた。とても自然に紡がれた私に対する質問が、今の私にはずしりと重力を持って私の心に食い込んだ気がした。暫く只管呼吸をしたまま彼の広い背中を見つめていたが、視線を自分の膝に移す。もこもこの帽子に、ポケットには目つきの悪いホワイトタイガーのキーホルダーが視界に映った。

「…それでも、私、ローさんに、会いに行きたいです。連れてってくれますか…?」

何の役にも立たないし、何なら足手まといかもしれないけれど。そういう意味を込めて絞り出した声でそう伝えれば、コラさんはゆったりと此方を振り向いて私を見るなり、満面の笑みで頷いた。「それで正解だ、君は間違っていない。」。そう言われているようで、とても心が救われた気がした。


2016.02.13.




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