24

「みかんちゃんの言葉ば、東京弁だけんか?」
「うん。」
「東京から来たんかー」
「…うん。」
「そー思った。ちかっぱ丁寧なしゃべり方だと思った」
「か、河童…?」
「服も東京ん人やけんお洒落やしね。」
「いやあ、そんなことは」
「ばってんそいで海に入る気か?」
「え?」






(ああ、どうしてこんな時に急に思い出したんだろう。)


急転直下




「……いった、」

起き上がる気力が出ない。体中に痛みが走っているらしいが、けがをした直後の衝撃でまず驚きが初めに来ていた。背中に衝撃が走って、刹那呼吸が出来なくなり、それに関しては確かに焦った。だがすぐさま息を吸い込めて少し安堵する。むりやり腕を伸ばして岩に捕まると、それを支えに起き上がろうと下半身を動かす。ようやくゆっくりだが起き上がると、足ががくがくした。一息つく。見上げれば随分な高さから落ちてしまったらしいことが分かった。林とはいえ、平坦な場所であると決めつけて意気揚々と歩いていたが刹那、突然の傾斜に足を滑らせてしまったらしい。

「…濡れてる?」

足下を見れば、小さな小川が流れており、半身が濡れていた。落ちた時の衝撃で気が付かなかったが、数分と立って状況が呑み込めるようになってから気が付いた。傾斜は軽く10メータ以上はある。よくこれぐらいの怪我で済んだものだと逆に感心したものの、どうやら落ちた時に足をくじいたらしく、左足が言うことを効かない。

「あ、携帯。……大丈夫だった。」

パーカーのポケットには無傷のスマホがあることを確認すると安堵したものの、傾斜の一番下は日差しが届かず涼しいどころか寒いし、足場は悪いしで最悪である。おまけに日は傾き始めた時間である。片足でバランスを取りながら小川から離れると、傍にあった木の根に腰を下ろす。まずは他にけがはないかを確認しなければならない。昔子供の頃に九州に越してきたばかりの頃、木から落ちた時にも子供たちとの間でそうしたように。とりあえず頭や背中、足や両腕を見て触ってみたが、目立った外傷はないようだ。とはいえ、頭を打ったというなら後後大変なことになる場合もある。

「(…はやくローさんに言わなきゃ。)」

試しにスマホを開いてみるが勿論コテージから離れた場所なので圏外である。傾斜を登れば何とか弱くても電話はつながりそうであるが。ゆっくり再び腰を上げると、地面に落ちていた木の枝を杖に何とか傾斜を上がる決意を固めた。いくら最近太ったとはいえ、まさかほんとうに転げ落ちる日が来るとは思わなかった。ローさんは七時ごろには帰ると言ったから、自力で帰るしかないのだ。最悪の場合、家まで付けばタクシーで病院まで行ける。何とかなるだろう。自分を奮い立たせて一歩一歩傾斜を上る。がさがさと林の腐葉土を踏みしめていくうちに、ぼうっとした頭の片隅で、何故か昔のことが思い起こされていった。私が九州に越したばかりの頃のことだ。里帰りの電話をもらったからだろうか。それともひさびさに転げ落ちたからだろうか。

「はあ、しんどい…」

十歩進んでは息を吸って、また進んで、吸って、を繰り返し繰り返し、何とか登りきることに成功をしたが、今度は意識が朦朧としているからなのか、来た道はどこかなかなか思い出せない。少し時間が必要である。ローさん曰くここには熊はいないので安心であるが、流石に見渡す限り林の中で一人ぼっちは怖い。おまけに今は怪我を負っている。

「(…うう。散歩なんてしなきゃよかった…)」

キノコやリスなどの森の小動物を見たいだなんて白雪姫みたいな真似事をしようとしたらこのありさまである。最近ローさんと二人きりで色々心の整理をしたいところであったから、一人になって林でぼんやり考え事をしていたらまさか足を踏み外すとは。孤独になって考えたら何か落ち着くんじゃないだろうかとか無駄に文学被れなこと考えなきゃよかった。家で大人しく彼を待っていればよかったのだ。只でさえ迷惑をかけているというのに、このままではさらに迷惑をこうむってしまうじゃないか。そんなことをくどくど考えているうちはまだ平気だったが、刻々と日は落ちてくる。夏とはいえ、木々の生い茂るこの地帯は闇が迫るのはそう長くはない。おまけに外傷はないものの頭を少し打っているのでだんだんぼんやりしてきた。脳挫傷になっていたらかなりやばい。

「(…せめて、コテージの近くに行ければ、)」

気力を絞り出して一歩、また一歩と腐葉土を踏みしめる。自分の呼吸が林の中で異様に響いている気がした。

「ろー、さん、」

何気なく彼の名前を読んでみたが、やはり返事は帰ってこなかった。孤独とはこのことなのだとぼんやり思った。もう川のせせらぎは聞こえない。ぼんやりする頭の中で、林の中の蝉の声がよく響いた。もう自分がどこにいるかもよく解らなくなっていた。


「みかんー、みかんー」

ふと、脳裏にぼんやりと子供の声が聞こえる。カブトムシを追って、虫取り網を片手に駆けまわって、山に飽きたら海に行ってサザエを取る。私の手を引いて走る焼けた帽子。白い雲を突き抜けていく船。山の上からは港の姿がよく見えた。

「みかんー、こっちだよー」

そうだった。そう言えば、私は皆と山の中で夜遅くまで大きなカブトムシを探して駆けまわって、それから迷ってしまって。どうすればよいか分からなくて泣くことも出来なくて、お気に入りの下ろし立てのサンダルは泥だらけになってしまって、鼻緒の部分は足が擦り切れていて、とても痛かった。それでも私が泣かなかったのは、あの子がずっと手をつないでくれたからだった。

「みかん、よかばい。あんいっちゃん星見。あいの見えれば絶対迷わんけんから。絶対。」



「…いっちゃんぼし、」

視線を上げてみる。生い茂る木々の隙間から群青色と橙のまじる空の上。ささやかに光る星が見える。私の真上を照らすそれは、昨夜天井の上で見たそれと全く同じであった。私の場所を知らせて音もなく光るそれ。彼がその長い指で線を引っ張ってくれたその光。ゆっくりと腕を上げて私も同じように星をなぞろうとしたとき、自分は今、酷く眠たいことに気が付いた。もう眠くて仕方がないのだ。

「…ぽら、りす」

最後に見たのは、確かに彼がなぞったあの孤独で美しい星だった。







「…………。」

瞼を開ければ美しい満月が見えた。満月の光のせいか、今日はそれほど綺羅星が見えない。体を動かしたら酷い倦怠感に襲われた。まるで暫く動かなかった眠れる森の美女が久々に起き上がった瞬間はこんな感じだったろう。自分の体を覆っていたブランケットをのけると、やっとのことで起き上がる。ぎしりとスプリングが軋んだ。部屋は真っ暗だった。自分が寝ていた枕の横には見慣れたもこもこの帽子が置いてあった。それに何となく触れて、少しずつ頭の整理をしようと努めた。すると自分がなぜここで寝ているのか、それ以前の記憶がごっそり抜けていることに気が付いた。自分の状態を確認する。月明かりのおかげで暗闇でも全容は把握できた。私は自分のパジャマを着ていた。そして片足には包帯が巻かれ、そして腕にもまかれていた。頭に触れてみたが何もなかった。

「(とりあえず、ローさんに会わなきゃ。)」

帽子のおかげで真っ先に彼のことを思いだすことが出来た。兎に角状況を把握するためには、何らかの事情を知っているであろう彼に聞くのが一番いいだろう。体を一頻り動かして歩けることを確認すると、ゆっくりベッドから降りた。すぐ下には私のスリッパがそろえて置いてあった。サイドテーブルに手をかけて足をそれに入れようとした刹那、テーブルの上の何かに手が触れて落ちた。ちゃりん、とそれは音を立ててフローリングの床に落ちた。それを拾い上げれば目つきの悪い虎と目があったので、そのままポケットに忍ばせた。扉を開ければ廊下も暗闇に包まれていた。足元を注意して自分の怪我をしたらしい足にも気を配りながら電気をつけて階下へと向かう。階下にはリビングから光が漏れていた。

「……ローさん」

ゆっくりと声を掛けながらリビングに入る。ソファに腰を掛けた男の背中が見えた。帽子を被っているのでその顔も見えない。ゆっくりと足を運んで彼にもう一度声を上げようとしたとき、男はむくりと起き上がった。刹那、私は足を止めてしまう。何故ならばソファに座っていた男が見慣れた男のそれよりも異常に背が高いことに気が付いたからだ。驚いて思わず後ずさる。

「ローさん、ですか?」

この異常な静寂と男の後ろ姿に半分以上は彼でないということは分かっていたが、確認のために声を掛ける。思いのほか自分の声は震えていた。目の前の男はゆっくりとこちらを振り向いたので、ようやく視界にその全容を映すことがかなった。

「…もう、気分は大丈夫なのか?」
「…あの、あなたは…?」

男性はニコリと笑った。ローさんよりも長身で、金髪で、笑うと愛嬌があって、人の警戒を解くには十分すぎるほどの善良さを持ち合わせていた。まるでローさんと正反対であると思った(本人には死んでも言えない)。男性は帽子を脱ぐと、ゆっくりとこちらに向かってきた。そのまなざしは先ほどの笑みとは違って、凄味のある厳粛な面持ちで、寸分の気の許しも与えぬような雰囲気であった。私もローさんの帽子をぎゅっと両の手で握りながら、彼に神妙な面持ちで視線を送った。彼が事の真相を知っている気がした。

「…突然現れてすまない。だが、どうしても込み入った事情があるんだ。…詳しくは、あっ。」

と言いながら、彼はわたしの目の前で空気にけつまずいて派手に横転し、あろうことか怪我人の私に向かってダイブしてきた。


執筆 2016.01.20.





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