23

「…ローさん、」
「何だ。」
「その、あとでお散歩行ってもいいですか?」

もぐもぐと白米を口にするローさんはちらりと私を見た。そして予想とは相反して何事も無かったかのように澄まして「好きにしろ、」と言ったので私は心の内で少しホッとする。朝のさわやかな風が林を抜けて開けたままのリビングの窓から入り込んで気持ちがいい。せっかくの別荘地に来たのだから、もう少しこの辺りを散策してみたいと思っていた。ペンギンたちも呉の写真欲しがってたし(旅行で来てるわけじゃないけど頻りに聞きたがるもんで仕方がなく)、どうせ暇だし。それにしても昨夜は色々波乱の予感はしたが存外(というよりも当たり前だけど)何も起こらずに無事(?)朝を迎えた。ていうか途中で私は普通に寝てしまったのでその後のことは知らない。朝起きたら相変わらず彼のおみ足が私の腹にのっていて、朝から彼の寝顔が見えた。おまけに前回同様まじまじとその寝顔を堪能していたらじろじろ見るなと普通に彼に言われた(彼もまた前回同様狸根入りだったのだ…うう)。

「(……もう完全に変態と思われてるわ…ぐすん)………」
「…何だ、俺の顔に何かついてるか。」
「……あ、いえ…その。ローさんの今日の予定は?」
「少しやることがある。買い物には付き合う。」
「そうですか、わかりました。」

お皿を片付けて軽く洗濯を一緒に済ませるとそのまま出かける仕度をする。ローさんは私の携帯を借りて例のコテージの主であるおじさんに連絡を取っていた。彼はおじさんがとても好きらしい。今日はお買い物ついでに彼の失くしてしまった携帯のかわりを取りに行く予定だ。やはり携帯がないとこのご時世不便である。でもそのあと帰ってからは別行動だ。鏡の前で化粧がひと段落ついたその時、ローさんから返された私の携帯が小刻みに震えだした。

「もしもし…あ、ママ。」

電話の主は実の母親であった。心配性で定評のある母親はいつもラインをして生存確認に余念はない上にこうして電話までかけてくる。そう言えば呉にいることはまだ言っていない。だが今回の母親の用件は単なるご機嫌伺いではない。要約すれば夏休み中の帰省はいつごろになるか?という質問だった。

「…うーん、まだ、ちょっと分からないんだよねえ。あ、でもちゃんと帰るから、心配しないで。必ず帰るから。うん。またシフトと予定もう一回確認してからかけるから、うん、ありがとう。ママもね。はーい、」

ぶつり、と通話を終わらせると思わずため息をついた。そう言えば今回の件ですっかり忘れていた里帰り。行くつもりではあったが、なんだか今は身の回りがごちゃごちゃでそれどころではなかった。母親にこれを有り体に今の近況を伝えたら絶対警察に言うだろう。もう警察には言ってあるんだけれど。まあ、もう少し様子を見よう。もう子供じゃないし、ローさんもいるし。うーんと唸りながらハンドバックを手に取るとローさんのまつ階下へと急いだ。


恋は思案の外




「ローさんは、今年の夏は里帰りするんですか?」
「…急にどうした。」
「えっ。いやあ、ちょっと気になっちゃって…。あ、でも忙しいんですよね…ただでさえ今回の件で色々予定が狂ってるのに、行けないですよね。」
「…医学部は夏休みが短いからな。」
「へえ、そうなんですか!」
「高校生と変わらねえ。」
「…じゃあ、行けないですね…」
「いや…二、三日くらいは行けなくもねえが…。お前、東北行ったことあるんだったな。」
「はい。」

ころころとストローでアイスティーのグラスの中にある氷を転がす。窓の外では強い日差しに照らされた往来をたくさんの人々がだらだら熱そうに歩いていた。空には海のある方向におおきなおおきな入道雲がもくもくしていた。目の前で真新しいアイ●ンのパッケージを開けて中を検めるローさんを尻目に私は頼んだパンケーキにフォークを突き立てた。ローさんは私のことをちらちら見ていたので思わず首を傾げた。

「みかん」
「はい?」
「…昨夜、お前が寝る前に俺が言った言葉、覚えてるか?」
「……昨夜?」

そう思って頭の裏で昨日の夜を思い出す。昨日は夢のような夜だった。いい夜だったなー。ローさんと星めぐりしたみたいで楽しかった!あ、でも何か確かに意識が飛ぶ間際、ローさんが大事なことを離した気がする。すごいマジなトーンで何か重要なことをささやかれた気がする。何だっけかな。それにしてもこのパンケーキまん丸だな。クリームがめっちゃおいしい。まん丸…。…あ、そう言えば…。

「あの、私、」
「、」
「……満月の前の段階って、何でしたっけ…?十三夜?」
「……小望月、待宵月だ。十三夜はこの小望月の一つ前の段階だ。」
「あーあ、なるほど。えっと、満月のお話でしたっけ?」

そう言えばローさんは頭を抱えてため息を吐かれた。あれ、違うみたいだ。どうしよう。

「あ、あの、ローさん、パンケーキ、食べます?」
「いらねえ。」
「…さいですか。」

ローさんはもう一度ため息を吐くと、何事も無かったかのようにスマホの初期設定に没頭した。私はとりあえず上げようとしたパンケーキの断片を自分の口に運んだ。

「(ああ、どうしよう。そんなに大事なこと離されたっけ?え?告白されたの?まさか私寝る前に告白されたんだっけ?え??だったら聞こえなかった自分を全力で殴りたい。いや、もはやスパブロ決めたい。いや、もはや踵落とし決めてやりたい。てか本当に大事なことだったらどうしよう。)あの、ローさん…?」

思わず涙をためて声を掛ければ、目の前のローさんはぎょっとしたようにこちらを見たが、私をじっと見据えると手を伸ばした。

「いい。気にするな。」
「そう、ですか。」
「ああ。」

彼は伸ばしたその手で私の頬に触れた。彼の指先にはクリームが付いていて、それは間違いなく私の頬についていたものであろう。さも当たり前のようにそのクリームの付いた指をローさんは舐めると、甘い、と一言の溜まって眉間に皺を寄せた。私はその動作をまるでテレビを見るかのような感覚でぼうっと眺めていたが、時間が刻々と過ぎていくうちに恥ずかしさが込み上げてきて、思わず肩をすくめて熱い頬を誤魔化すべく冷たいアイスティーを喉に流し込んだ。一方、目の前のローさんは初期設定を終えたのか、テーブルに新しいスマホを置くと相変わらず涼しげな顔を下げてアイスコーヒーを飲んでいた。もしこういう行為を彼が悪意なく行っているとすれば、彼は間違いなく罪な男である。

「(ローさん最近私に対してすごい親しい気がするんだけど、これってやっぱり本気で期待していいのかなあ…それともただ単に責任を感じてるだけなのかなあ…)」

つい数週間前ならば、私は間違いなく後者であると信じて相変わらずアイドルのおっかけよろしく彼のイケメンさ加減にウハウハ言っていただろう。しかしここにきて最近のローさんの行動はいくら信用しているとはいえ、異性に対してあまりにもスキンシップが過剰すぎるのではないか。流石の私でも気が付くぐらいであるから、ことは深刻な局面に到達しているのではないだろうか。もしペンギンやシャチがこのような私たちの様子を見たら、どう思うのだろう。日頃あれだけ私を冷やかす彼らでも、これを見たらやはり可笑しいと思うだろうか。それともいつものように私の過剰反応だというだろうか。彼の周りには極端に女性が少ない(というよりも学校では異性の友人はもしかするとたくさんいるかもしれないけれど、私の見たところだけでは他の女性の影が見えない)。まさか彼は他の異性にも同じことをするのだろうか。いや、存外潔癖でこの見てくれの彼である、それは考えにくい。

「(…やっぱこれってひょっとしたらひょっとするんじゃ…。)」

ごちゃごちゃ考えながら、思わずぶくぶくストローで泡を作ってしまう。いつも彼に熱を上げているくせに、自分でもいうのもなんだが、こんな自分とローさんが恋に発展するなんてちょっと現実味に欠けている気がする。世界の違う住人のような感覚がする。そう考えたら今までの出来事がある意味奇跡に思えてきた。タイプの全く異なる男女が逃避行をし、一つ屋根の下で暮らしている。まるで小説や漫画のようではないか。下げた視線をもう一度前方に戻せば、すでにローさんはストローから口を離していて、慣れた手つきでスマホを操作していた。

「みかん、」
「は、はい。」
「そろそろ出るか。」
「ああ、…はい。」

彼はそう言うと先にお会計を済ませるのかレシートを手に席を立った。こういう時の彼は有無を言わさないので私は自分の財布を出す暇さえない。仕方がなく大人しくお皿の上に残っていたパンケーキを頬張ると、残りのアイスティーも一緒に流し込んだ。入り口付近のレジには長身でイケメンの隈の男が無愛想にカードを差出し、可愛らしいウェイトレスのお姉さんはやや緊張した面持ちで目をキラキラさせながら彼を見上げる。頬をは少し淡く染まっている。でも男の方はあくまで事務的に、それどころか冷ややかさえ感じさせるほどぶっきらぼうに一切笑うことなくカードを受け取る。それを遠目でぼんやり見ていたら、やっぱり私は他の女性よりも、ローさんに優しく扱われているのではないかと思えて、嬉しいような、それともこれは単なる自惚れに過ぎないのだろうか、という複雑な気持ちになった。

「荷物寄越せ。」
「いえ、軽いですから。」
「お前鞄持ってるだろう。」
「いや、でも…」
「歩くスピードがただでさえ遅い上に重い荷物を持ったらいつになったら家に着くか分からねえだろ。いいから寄越せ。」
「す、すみません。お願いします。」

カランカランと言う乾いた音と共に扉が開かれ、むわんとした熱い外の空気が瞬時に体を覆った。外に一歩踏み出せば、アスファルトさえも溶けだしそうなうだるような暑さが私とローさんの間を駆ける。隣のローさんはお気に入りの帽子を目深に被ると行くぞ、と一言言って歩き出した。私は奢ってもらったことに丁寧にお礼を述べたが彼は短く返事を返すだけだった。人通りの多い歩道を歩き始めれば、前から後ろから人がやって来る。ローさんは荷物を持ったままさり気無く私を奥に誘導すると自分は人通りの多い道を歩き始める。気付かれぬ様に横を見上げれば、帽子の日さしのかげに鈍く光る眸が見えた。ここから大通りを抜けて二十分ほど歩けばバス亭がある。バスは十分足らずで私たちの泊まるコテージに付く。ローさんはそのまま私を送った後、車でどこかに出かける予定だ。

「………、」

彼と歩くと歩幅が違うせいか当初はなかなか追いつけずはあはあ言いながら苦労したものだが、今では彼が私の歩幅を気にしているのか、急がずに彼と歩みを進められるようになった。ローさんが意識的にせよ無意識的にせよそうしてくれることは私にとってもありがたいし、それだけ暫く私たちは一緒にいる証拠でもあった。

「通り雨だな。」
「え。」
「もうすぐ降り出す。少し早く歩けるか。」
「あ、はい。」

今までローさんを盗み見ながら歩いていたせいか気が付かなかったが、空を見上げれば、遠くでもくもくしていた入道雲が気が付けば空を覆っている。かと思えば遠くの方でごろごろ言い始めたのでそれきたと言わんばかりに外に出ていた通行人の足も早まる。夏はこういうこともよくあるものだが、傘も何もないのでなんとか屋根のあるバス停までたどり着ければいいが、確かここはまだバス停までまだまだ距離があり、二、三分ではたどり着けない。

「わわっ降ってきました!」
「チッ、」
「うう…私の足が短くてごめんなさい…」
「お陰様でな。とりあえず走れ。」
「…うう、済みません。」
「泣く暇があったら足を動かせ。風邪ひくぞ。」

彼は被っていた帽子を私に被せて鞄も引っ手繰ると私の手を取り走り出す。周りにいた多くの通行人も蜘蛛の子を散らすようにまばらになり、何時しか視界には大粒の雨が覆った。辛うじて傍にあった電話ボックスに二人して避難することに成功した。とりあえず濡れたが熱いのですぐ乾くだろうし、通り雨なので待てばすぐ止むだろう。濡れてしまった彼の帽子を乾かそうと脱ぐと、はたはたと仰ぐ。狭い電話ボックスではあるが、今はありがたい。ローさんは濡れた頬を腕で拭っていた。帽子を私に被せてしまったから私よりも随分雨を被ってしまっている。

「あ、これつかって下さい。」
「いいのか。」
「もちろん。あ、あの、大丈夫ですよ!このハンドタオルは使ってないので!トイレの後に拭くやつは別にあって…」
「誰もそこまで言ってねえし、気にしてねえよ。」

そう言いながらローさんは口角を上げて私の差し出したハンドタオルを手に取った。旅行仕度の際にたまたまハンカチを余分に鞄に入れていたのがこうして役立つとは思わなかった。彼を見上げれば随分自分たちが今至近距離であることを実感させられた。密着と言えば私は昨夜からローさんと褥を共にしている仲で合った。緊張ですっかり思考が停止していたけど、やっぱり恋人でもない男女がそう言うことをするのはいかがなものか。いや、ローさんはそれでいいのか。彼はそれほどまでにトラ男ならぬチャラ男だったのか。そう言えば最初の頃にペンギンから高校時代は結構すさんでたから女性関係もルーズであったとやんわり聞いた気がする。

「雨脚が随分強い。暫く動けねえが、我慢できるか?」
「はい。大丈夫です。おやつも済ませてお腹も満たされてますし。」
「そりゃ良かった。」

ざあざあ降る雨は窓の外から視界が白くなるくらいの強さだった。夏の通り雨は短い代わりにこんなにも力強い。二人で入る電話ボックスには二つ分の呼吸だけが響いていた。時間が経つにつれて緊張も和らぎ、狭い空間で互いの体がくっつきそうでつかないことの方にやきもきした。ローさんは荷物を電話ボックスの台の上に乗せると、腕を組んで目を閉じそれから微動だにしなかった。まるで生気のない静物のようなたたずまいに私はちらちら視線だけを送る。彼を見ていないとき、私の目は自分のつけている腕時計を見た。秒針がかちかちと言うたびに、止まれ、止まれ、と無謀にも思わず小さく願ってしまう。それがだめなら、せめてもう少しだけ雨がゆっくり降って、時間もゆっくり流れればいいと思う。沈黙が支配するこの四角い箱の中で、ローさんは何を考えているのだろう。飛び出した自室のこと?学校のこと?見学や研修のこと?マンションに残してきたペンギンやシャチのこと?それとも、私のことだろうか。只でさえポーカーフェイスでクールな彼のことなど、表情を見ただけでは読み取れない。

「…ローさん、寝てるんですか?」
「俺は立って寝られるほど器用じゃねェ。」
「そ、そうですよね…」
「何だ。」
「あの、別段他意はないんですが、お聞きしてもいいですか?」
「質問による。」
「さいですか…。ローさんは、恋人っていらっしゃいませんよね。」
「現時点でな。それがどうした。」
「あの、なんでつくらないんですか?」
「別に必要に感じなねェし、居ても忙しくて相手してやれねえからな。」
「じゃあ、大学入ってからは全然なんですか?」
「ああ。」
「へー…」
「…急に何だ。」
「あ、その、医大生って忙しいから、恋愛も自由にできないもんなのかなーなんて…」
「そんなものはそいつによるだろう。実際、医大生でも付き合ってる奴なんて珍しくねェよ。」
「…そうですか。」

怪訝そうに眉を潜めてローさんはそう言うと私を見下ろす。まっすぐ見下ろされると本心を見透かされるのではないかとひやひやしてしまう。思わず目を泳がせてできるだけ目を合わせないように努めれば、、何故か分からぬがローさんは口角を上げると私の頭に手を乗せた。

「お前は聞かなくともわかるな。」
「はい?」
「お前絶対恋人いねえだろ。」
「…悔しいですが言い返せないです…」

私がそう言えばローさんは満足そうにまた笑って彼曰く形のいい私の頭を撫でた。

「そうでもねえと男のいる女を連れまわすことなんか出来ねェよ。」
「…そうですね。私も自分に恋人が居たら多分、ローさんについていかなかったです。…タンデムもしなかっただろうし」
「お前意外とそう言うところは固いよな。」
「意外と、は余計です。私はもともと身持ちが固いんです。」
「なら、お前に恋人が居なくて俺は好都合だったな。」
「そう、ですね。」

ローさんの言葉は勿論私が望む意味とは全く違う意味合いがあったということは分かっているにしても、思わずどきりとしてしまうのはやはり私が自意識過剰だからなのか。唯一、この一連の拙い考察で分かったことは、私は間違いなく、トラファルガー・ローと言う男に本気の本気で惹かれ始めてしまっている、と言うことだけだった。今までだって本気で彼を好きだったけれど(ローさんカッコいいしなんだかんだ優しいし)、今まで以上に期待している自分に気づいてしまった。もっともっと彼に優しくしてほしいし、私も彼に優しくありたい。いい娘止まり、親しい異性止まりではもう耐えられなくなってしまっている。そんなわがままが、自分の中で確実に大きくなって感情のコントロールを効かなくしていた。こんな大変な時だというのに、自分でも自分を疑いたくなるが、どうにもこの感情を抑える術が思いつかない。こんなことを言ったらペンギンやシャチにまた呆れられてしまうだろう。自分で言うのも何だが、こういう時、私は自分でも驚くほど大変に愚直であり、不器用であり、そして感情に流されやすくなるのだ。彼は間違いなく私のこの性質とは真反対に属すタイプの人間である。私みたいな感情に流される女性は、きっとあまり好きじゃなさそうだ。

「晴れて来たな。」

小さく低い声が聞こえて硝子越しの世界を見る。だんだんと黒かった空が白み始め、雨はその力を失ってきた。

「あの、」
「ん」
「私も、ローさんに恋人が居なくて、好都合、です…。」
「…そうか。」
「…はい。」
「…………。」
「…………。」
「…………。」
「ぼ、帽子お返ししますっ!ありがとうございました!!」

自分で言っておいて気まずくて乾いた帽子をずいと差し出せば、彼は苦笑交じりにそれを受け取って被った。窓の外ではようやく雨脚と雷鳴が弱まり始めていたが、私の心臓はばくばくと未だ大きな心音をとどろかせていて、暫く収まりそうにない。


執筆 2016.01.08.





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