22

左手に粘り付く、どろどろとした半透明のそれは水と共に排水溝の穴の中へと吸い込まれていった。鏡に映る自分の顔をふと見れば、随分疲れた顔をしていた。自分お顔を覗きながら、頭の裏では別の男のあの小憎たらしい顔がちらついた。

(お前にはあまり似合わないような娘だな)

にたりと笑うサングラスの男の声が未だに耳にこびり付く。

「(……そういうことか)」

思わず眉間に皺が寄ったが、視界の端にちらりと見えた薄ピンクの物体をとらえた。洗面台の隅に置かれたチューブ型の容器。それをとらえた途端、今度は忌々しい男の姿とは打って変わって先ほどの彼女の顔を思い出して思わず口角が上がった。ローションだと発覚した顔を青くさせたり、ともすれば顔を赤くして慌てふためく様子は、滑稽であったがそれと同時に自分の心を明るくした。本当に悪意のない無垢なしくじりほどインパクトのあるものはない。とはいえ、みかんは自分が思っていたよりも勘が鋭いようなので今後もあまり無駄な心配をかけないように注意が必要なようである。楽観的なのは認めるが、単にこちらに心配をかけまいと言わないでいるだけなのかもしれない。聞けばペンギンたちとも親しかったという事実も最近知ったので、恐らく自分のことはあいつらに大方聞いている可能性が高い。何とも偶然とは思えぬ廻り合わせだが今更それについて問い詰めるつもりは毛頭ない。今はそんなことよりも時間と安全の確保が最優先だ。今はもう一人ではない。今は迫りくる面倒事に、みかんが身も心も傷つかなければもうそれでいいと思う。現にそのために恋人でもない彼女をわざわざここまで連れて来たのだから。結果、正解であったと思う。一体ドフラミンゴは何を考えて、何を意図しているのか分からないのだから。大体このローションは何の意図があってみかんに寄越したのか、理解に苦しむ。不幸中の幸い、それは本当にただのローションだったからよかったものの、これが人を傷つける殺傷能力のあるものだったとしたら事態はこれでは済まなかったはずだ。

「(一体どれだけ人を馬鹿にすれば気が済むんだ、あの野郎は。)」

手段を択ばないことはあの男の常であることは身を以て体験しているので、今に始まったことではない。だが自分を貶める為に他人を巻き込むのはあまりに卑怯だ。只でさえ関係のない人間だというのに、あれほどの御人好しの楽天家を嵌めるのは我慢ならない。「いい人」や「いいやつ」、という言葉は自分の都合が入るようであまり好かない表現だが、みかんはあの人と同様にそれに当てはまる人間だ。絶対に傷つけるような真似はさせない。自分のせいで傷物にされては堪らない。ヴェルゴはああいっていたが信用することなどできる訳がない(分かっていても信用等しないが)。早く行動に移してすべてを終わらせたいのはやまやまだが、今はまだこちらから動けないのがもどかしい。だが前回のように無鉄砲に動いては最悪の事態を招いてしまう。今回は事情が違う。

落ち着け、ロー。今はまだ動くべきじゃない。お前と俺だけならいざ知らずだが、今はその子も一緒なんだろう
だが、だからこそこれ以上我慢ならねえ。今回のことでよく解った、あいつらは完全にみかんにも矛先を向けてるんだぞ
お前の気持ちはよく解る、だが今は俺に任せろ。あとは…お前の望むとおりにしていい。
……分かった


「…………」

ごとり、とポケットから何かが足元に落ちて、濡れた手をタオルで拭きながら思わず視線をそちらに向ける。足元には鍵が落ちていた。白い愛らしいシロクマと目のくりくりとした可愛らしいこけしが仲良く並んでいた。こけしがこちらを見て笑う。それを見たら何となく眉間に刻まれた皺が薄らいでいくような気がして、ふ、と小さく笑うと手を伸ばした。兎に角、今は自分がみかんの傍に居れば、みかんは問題ない。そう思って落ち着きを取り戻していく。鍵をポケットに入れなおして棚からニ●アを取り出すと、それを携えて洗面室を後にした。







「…ああ、どうしよう…」

一人取り残された寝室のベッドの前で、思わず同じ場所を行ったり来たりで落ち着かない。ローションもそうだが、この後のこともある。ローションのインパクトで暫し忘れていたが、私はこの後男性と寝室を共にしなければいけないことをすっかり思いだした。その瞬間、ローションから離れた直後の私の緊張は再び顔をのぞかせた。実に忙しない宵である。あと少しでおそらくローさんは戻ってくるだろうが、もう何と声を掛ければよいかさえ分からない。只でさえ怪しい雰囲気にまさかのローションである。もう穴があったら入りたいとはこのことだ。

「…………」

じとり、とした視線を感じて思わず視線の方に視線を移せば、自分の鞄のなかから顔を出す白いもこもこのそれと目があった。もこもこの可愛いビジュアルとは裏腹に人の二、三人は殺っているであろう鋭い眼光。私に何か大事なことをを諭そうとするかのように見つめている。

「……あっ、そうか。(ね、念のためにブラとパンツ一緒か確認しとこ…)」

普段はノーブラ就寝派であるがこの緊急事態には手段など選んでいられまいと可能性は限りなく少ないが世の中何が起きるか分からないので念には念を入れてブラとパンツが同じセットか一応改めておく。

みかん。」
「あっ、ローさん、あの、大丈夫でしたか…?」
「別に洗い流せばいい話だろうが。」
「あはは、ですよねー…。」
「俺よりもお前が大丈夫なのか。随分動揺してたじゃねえか。」
「あ、ああ、大丈夫です!忘れてください!」
「インパクトありすぎて忘れられねえよ。」

うわあああ、と思いながらベッドサイドで思わずどぎまぎしておればローさんは私を見て首を傾げた。そして私にああ、と何か合点がいった様子で手に持っていた青い缶を手渡した。

「これで今日のところは我慢しろ。」
「す、すみません。」

彼はそれを私に手渡すと、さも当たり前のように早々にベッドに上がってごろりと横になった。あまりに自然な流れに呆気にとられていたが、とりあえず傍の椅子に腰を掛けると心を落ち着かせるように白いクリームを足に滑らせた。ちらりと横目でベッドの上のローさんを見たが、彼はその長いおみ足を組んで静かに読書に耽っていた。別段女性とベッドを共にすることに何の迷いや焦燥、緊張などなさそうである。自分の考え過ぎだろうか、それとも私が女性として魅力がないだけなのか。もし後者なら私はあまりのショックにショック死するであろう。死なないけど。

「あ、あの、そう言えば、天井素敵ですね。」

静寂が支配する寝室に耐えかねて思わず声を上げればローさんは久しく視線を私に向け、それから上の方を見た。そして読んでいた雑誌をベッドサイドテーブルに置くと、むくりと天井を注意深く見だした。

「このくらいの季節になるとよく星が見える。」
「へえ。」
「本当は冬が一番空気が冷えて澄むせいかよく見えるが、夏も良く見える。」
「そうなんですか。」

クリームを塗り終えてやることもなくなり、いざベッドに入らんとするところでなんだかやはり勇気が出なくて苦し紛れに出てきた話題であった。だが彼は思った以上に食いつきがよく、思わずこちらが驚いたほどである。そこで私はここに来たばかりの時に、彼がよく小さいころに来ていたという話をふと思い出した。なるほど、だから詳しいのか。

みかん、電気けしてくれ。」
「え、」
「いいから早くしろ。消したらこっち来い。」
「は、はいっ…!?」

思わぬローさんの発言に思わずえなんて言ってしまったが、彼に急かされて止むを得ず指示通りに部屋の電気を消すと、暗闇の中、恐る恐るベッドへと向かう。先ほどから雲間に消えたり隠れたりしていたお月様は今は隠れているのか寝室は一気に暗い静かな世界になった。ベッドにのれば大袈裟にスプリングがなったので思わずひやりとしたが、こっちだ、という低いテノールに導かれる様に私はベッドの上をゆっくり移動した。

「わっ、」

突然、伸ばした腕が急に掴まれたかと思えば、ぐい、と引っ張られて、とん、と座らされた。明らかに左肩に当たるそれはローさんのそれで、突然彼の例のいいにおいが鼻孔を掠めて思わず息が詰まりそうになる。ああ、まさか、まさかなのか、本当に今度こそまさかなのか!?と瞬時呼吸が苦しくなって思わず過呼吸寸前となった。

「(ああああああまだ心の準備があああああ!)」
みかん、上見てみろ。」
「え、……あ、はい。…あ」

言われた通り視線を上に向ければ、先ほどよりもより鮮明になった夜空の様子が天井に広がっていた。くっきりと四角く黒に縁どられた枠の中には、無数の白い大小さまざまな星が見えた。都内は別の意味で狭く四角かったそれは、今の目の前に広がるそれとはまったく異質であった。それはまさしく星空と言うにふさわしい、思わず故郷を思い出すような夜空であった。群青の中に見えるうっすらぼんやり白い流れを中心に、ちいさな白い点が無数に散らばる様子は明かりの下では見えにくいのだ。

「わあ、なんだか、懐かしいです。私の故郷の空を思い出しました。」
「ここは都内に比べれば空気がきれいだからな。お前の故郷程じゃねえかも知れねえが。」
「でも、久々に見て感動しました。昔は当たり前だったけど、都会に出たら全く見ることなんてなかったし。」

と言うよりも、空を見るということ自体見なくなったと言っても過言ではない。都会の時間の流れは速すぎて元来のんびり屋でマイペースな私にはあまり合わないのかもしれないなあ、とゆっくりと流れて言っているであろう星を見ながらそう思った。

「あれみろ、あれが北斗七星だ。わかるか。」
「…ケンシロウ?」
「はあ?」
「ああ、いえ。あのあれですかね、あの首の曲がった様な…」
「“柄杓”の形ともよく言われてる奴だ。その頭の二つの星が並んだ線をそのまま右に、頭の中で引っ張ってみろ。」
「頭の中で…引っ張る…」
「こうだ。」

そう言ってローさんは自分の手ですう、とその二つ並ぶ北斗七星の頭の星から左に線を描いて、ぴたりとその長い指を止めた。指はある大きめの星の前で止まった。暗闇に慣れたおかげで彼の手は勿論輪郭も大分見えてきた。静かな寝室で二人分の呼吸がやけに大きく聞こえる。

「あれが北極星だ。」
「あ、なんか聞いたことあります。それはほとんど動かないって。」
「そうだ。一年を通してほとんど動かない。名前の通り、あの星は北の方に位置している。つまりだ、北極星の位置さえわかれば」
「自分の今いるおおよその場所が分かるってことですね!」

私がそう言えば彼は口角を上げて頷いた。それからローさんはぽつりぽつりととても自然に星座の説明を必要があれば指で指示しながらしてくれた。とても上手な滑らかな説明で、恐らくとても慣れているような感じさえ見受けられた。とても意外な一面であるように思えた。普段の彼とは違って親しみを込めて説明するローさんの横顔を見ながら、きっとこういう風に妹さんに教えたのかなあ、なんてぼんやり思ったりした。彼はいたって平静なように見えたが、その声には嬉々とした明るさがほんのりうかがえた。彼の幼少期は一体どのようなものだったのだろうか。まさかローさんともなると、自分の弟のようにうるさくて年がら年中鼻水を垂らしたような少年だったわけはないだろう。とても賢い男の子に違いない。聞くところによれば中学の時にはすでに優秀だったのだから、もっと小さいころから熱心に勉強していたんだろう。なんだか自分と違い過ぎてイメージが湧かずじまいであった。

「あの北斗七星はもう一つ別の星座を構成している。」
「もう一つの星座?」
「ああ。おおぐま座だ。」
「くま?あの、白熊とかの、くまですか?」
「そうだ。あの北斗七星はおおぐま座の尾に当たる。」
「へー。」
「さっきの北極星の場所をもう一度見てみろ。北極星を起点に周りの明るい星を線で繋げられるか?」
「ええっと…あ、これとこれかな。あ、なんか見覚えのある形ですね。」
「そうだ。小さな北斗七星に似た形になるだろう。それがこぐま座だ。」
「わあ、親子なんだ。」

ふと、そこまで聞いて頭の裏で聞いたことのある詩の一片が思い起こされた。


大ぐまのあしを きたに
五つのばした  ところ。
小熊のひたいの うえは
そらのめぐりの めあて。



「…星めぐりの歌。」

ぽつりとそう言えば、隣にいたローさんがふむ、と頷いた。

「『星めぐりの歌』だな。」
「私、一年生の時に宮沢賢治について調べたことがあります。」
「授業でか?」
「いいえ。個人的に気になって彼の作品や文献を少々漁っただけなんですが…。昔から読んでいてすごく好きだったんです。たぶん、私が日文を選んだのもそのせいかもしれない。もちろんそれだけではないんですけど。」
「ガキの頃の読んだが俺はそれきりだな。」
「賢治は抽象的ですから、好きな人とそうでない人、選ぶと思います。私、その年の最初の夏休みに実は一人で東北に行ったんです。花巻に。南生まれだから北に行くのはわくわくしました。すごく良かったです。」
「シュールだったろ。」
「はい、すごくシュールでした。夏だからかもしれないんですが、思ってたより寒々しくなくて、沿岸を電車でのんびり旅したんですけど楽しかったです。でも奥に行けばいくほど、なかなか人が居なくて民宿を探すのも苦労しました。都会はそうでもなかったですけど。」
「そうだろうな。俺も北の生まれだから分かる。」

ローさんはやはりそっちの方の生まれなんだなあと思っていた。東北の男って無口な人が多いイメージを南国の私は抱いていた。でもきゃんきゃんうるさい人よりもこういうクールな人が私は好きだ。

「でも、賢治の故郷で星空を見ることは叶いませんでした。」
「何かあったのか。」
「それが、大雨で見れなかったんですよ。二、三日粘ったんですけど、雨が止んだと思えば曇りで。でも、童話館とか資料館には行けたんでよかったです。ついでに遠野まで行けたので。」
「……そうか。もう一度見たいとは思わないのか。」
「見れたら見たいですね!またいつかチャンスがあれば……まあ、この分だと当分実現しそうにありませんが。」
「…そんなことねえだろ。」
「そうかなあ…。」
「案外望めば近いうちに見れるかもしれねえぞ。」
「あはは。そうだといいなあ…」

そんな会話を続けているうちにどうやら緊張も和らいできたと見えて、気が付けば何事も無かったかのように私は彼と肩を並べて自然と背を枕に預けていた。ローさんの星座の話を聞きながら、頭の中では賢治の『星めぐりの歌』の音楽が絶えず流れていた。星空はどこで見ても平等に綺麗なんだなあ、と思って、なんだか童心にかえった様な気がした。今日も今日とて気苦労が多かったけれど、本当に楽しくて、私の楽しくて嬉しい感謝の気持ちが少しでもローさんに伝わってくれればいいのになあ、と思った。そんなことを考えながら聞く横のローさんの低くて心地のいいテノールが耳に心地好くて、だんだん意識がとのゐていくようだった。そのうち、視界に映る夜空がだんだん明るくなって、月が雲間から顔を出したのだということが分かった。まあるい月は白くぼんやり光っていた。

「…満月?」
「いや、まだ満月じゃねえ。まだ二、三日早い。」
「…そうですか…。」
「よく見てみろ。」

ぼんやり白く青白い光が差し込んでくる。よく見てみろと言われて思い瞼を引きずって目を凝らしてみる。ぼんやり見えるお月様の姿はすこしだけ小ぶりの真っ新なお皿にも見えた。ぼんやり見える視界に映る星々は先ほどの光の強さは失っていたが、露が散らばったようにやはり綺麗であった。散り散りになった黒い雲はやがて四角い額縁の中から消えてしまった。

「晴れて来たな。」
「………はい。」

今夜は美しい天気です。お月様はまるで真珠のお皿です。
お星さまは野原の露がキラキラ固まったやうです。


横のローさんの低くて心地のいいテノールが耳に心地好くて、だんだんと視界が暗くなっていく……――





みかん、寝てるのか。」
「んん……」
「……もし、すべて終わったら、」
「………。」
「…もう一か所だけ、付き合ってほしい場所がある。お前が望んだ場所だ。」
「………。」
「それまで、もう少しだけ俺に付き合えるか?」

そう言えば、聞こえているのか聞こえていないのか分からぬような、んん、という声が聞こえて思わず口角が上がりそうになる。その小さな肩を抱いて枕を整えてやると、傍にあったブランケットを手繰り寄せ、みかんの肩まですっぽりかけた。そしてみかんの顔にかかった前髪を梳いてやれば瞼が幽かに動いた。安らかでちょっとやそっとでは起き上がりそうにない女の静かな寝息を聞いて安心すると、もう一度天井の星をぼんやり眺めた。頭の裏では彼女が口にした詩の一片がゆったり流れ、その音楽に身を任せているうちに、自分も彼女に倣って瞼をゆっくり閉じた。


星に車をつなげ




執筆 2015.12.18.





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