そしてすべてがとけていく | ナノ


すべてがとけてなくなるまで

 きっかけは香山さんの一言だった。
「――乱交といえば、週刊誌にすっぱ抜かれてたわね。相澤くんの元勤務先」
 複数の男を侍らせて朝まで奉仕させた。そんな卑猥な武勇伝の締め括りに、彼女は言った。刹那、頭の中では、長いこと閉ざされていた扉が開いた。波の音が聞こえてきて、潮の香りが鼻の奥にツンと刺さる。
「はあ。そうですか」
 気のない返事をしてしまったのは、あまりにも唐突に『その話題』を振られたから。とぼけたり、はぐらかしたりするつもりはこれっぽっちもない。そもそも俺がこの夏に犯した過ちは、たいそう立派な尾ひれを付けてヒーロー界を一人歩きしていった。香山さんも、俺の隣で頬杖をついている山田も事の概要は知っている。任務のことも、それから、彼女のことも。

 俺の任務は失敗に終わった。渚が自首してから程なくしてホシは逮捕された。彼が持ち込んだ一千万円の行き先はジャバリゾートホテルではなく、俺が足く通った観光案内所。釣り堀の受付という偽りの看板の奥に、裏社会御用達の死体処理場があったのだ。主犯格はおじさんで、彼女は謂わば実行犯。決して表には出せない死体をおじさんが引き受け、彼女が秘密裏に処理――個性を使って溶解処分していたそうだ。ここで話が終われば任務は成功したと言えるだろうが、現実はそう甘くない。ホシの逮捕を受けて、全国各地の犯罪グループは尻尾を捲いて逃げ出してしまった。つまり警察が目指していた関連団体の一斉検挙は叶わなかったというわけだ。
 俺が失敗していなければ。プロヒーローの責務を全うしていたら。恋だの愛だのにうつつを抜かしていなければ……なんてタラレバを並べて嘆いたところで結果は何も変わらない。せめてヒーロー界に償いをすべく、俺は脇目も振らずに働いた。刑事の真似事からは手を引き、対ヴィラン専門の武闘派ヒーローとして。犯罪の検挙、ヴィランの制圧にそれなりに貢献してきた。つもりだ。
 そうこうしているうちに夏が過ぎ、身体には傷が増えていった。秋が終わる頃には骨折をして、それでも医者の制止を振り切って働いていたらとうとう大きな怪我をした。数週間の休業。立ち止まってようやく、冬の寒さが身に染みた。

 新年会という名の誘いを受けて、俺は今、居酒屋のテーブルに着いている。偶には気晴らしが必要だ、香山さんや山田と酒を片手に馴れ合うのも悪くない。そんなことを考えてしまうほど俺は弱っているのかもしれない。胸にぽかりと空いた穴に冷えたビールを注ぎ込むと、身体の内側が熱を帯びた。
「……ねえ。そろそろ元気出しなさいよ」
「元気ですよ。体はこんなですけど」
 肩に乗ってきた香山さんの手を振り払った。湿っぽい空気を作られるもの、情けをかけられるのも御免だ。
「……元気ですよ。って、暗ェ! お前はゾンビか!」
「真似するな」
「だったらンな顔するんじゃねえよ、ゾンビ。こっちまでテンション下がっちまうダロ?」
「丁度いいだろ」
「なんでヨ」
「お前は声がでかすぎる」
「それが俺のチャームポイントじゃん!」
「うるさい」
「ショーちゃん、俺にそんな態度取っちゃっていいの? 今日はひざしクンに優しくしたほうがいいと思うケド!?」
「優しくしたら何なんだ」
「今日はお前にセクシーでホットなオンナを紹介してやろうと思って」
「遠慮する」
「あ、キュートでラブリーなオンナも用意できるぜ? 萌え萌えキュン! か、ショーちゃんのことなんか全然好きじゃないんだからネ! か、どっちがいい?」
「どっちも要らん」
 山田の底抜けの明るさが、今日はどこか心地よかった。


 
『高級リゾートホテルの闇! ドラッグと淫欲に溺れる一流ホテルマン達――』
 新幹線の中でニュースサイトの有料記事を購読した。ジャバリゾートホテルの従業員による乱交パーティーの様子が事細かに綴られたものを。俺が踏んだ通り、パーティーの現場には違法薬物が溢れかえっていたようだ。主犯格の男はラウンジのマネージャー。彼がアンダーグラウンドな組織から薬物を仕入れ、乱交パーティーで使用したり、一部の宿泊客に高値で売り捌いたりしていたらしい。
 新幹線がターミナル駅に到着すると、在来線に乗り換えて海を目指した。
 最寄駅に降り立った途端、凍てるような寒さに身体が震えた。モッズコートのジッパーを首元まで上げても寒さは全く和らがない。風は東京で浴びるそれよりもうんと冷たくて、頬の肉にチクチクと刺さった。
 街は、相変わらず寂れていた。事件を機に釣り堀が封鎖されたせいか、ますます活気を失っているように見える。ホテルは潰れていないだろうか、みちしお食堂の大将は元気だろうか。馴染の場所に思いを馳せながら、俺は目的地に向かって歩みを進めた。今日はどうしても、その場所に行きたかった。この町を去ってからずっと目を背けてきたものと向き合うために。

『XX町観光案内所』
 久方ぶりに見上げた看板は、妙に汚れて見えた。観光客が訪れることがなくなった観光案内所とその隣の倉庫は、今でも黄色のテープに囲まれている。裁判が終わったら取り壊される見込みだという。
 俺は規制線の前で歩みを止め、目を閉じた。すると建物のシャッターはどこかに消え、開かないはずの自動ドアが開いた。
「こんにちは」
 カウンターの向こうで女性が立ち上がる。「どうも」と頭を下げると、「釣り堀ですね?」と彼女は声を弾ませた。……気がしただけだ。瞬きをした途端に視界から彼女は消えた。目の前には灰色のシャッターがそびえ立っているだけ。
「道具も借りられますか……だったか」
 あの日に――初めてここを訪れた日に戻ることができたら、俺は今度こそプロヒーローの責務を全うするだろう。恋愛にうつつを抜かすことなどなく、任務を着実に遂行する。けれども。
「……あの日に戻ることができたら、か。合理的じゃないな」
 時を巻き戻すなんてできやしない。『今度こそ』の『今度』は永遠に訪れないし、この町で過ごした日々は無かったことにはならない。任務よりも一人の女を優先してしまった事実だって。
 だから、ここで断ち切る。
「……好きだった」
 俺はあえて過去形にして口にした。そうするべきだと思ったからだ。

 明日、彼女に判決が下る。

 実刑判決でほぼ間違いはないだろう。彼女は起訴事実を認めているし、彼女が溶解処理した死体のうち、一人分のDNAが倉庫の床から検出されている。起訴できなかったものに関しても、証拠が挙がらなかっただけで彼女は全て自白している。
 俺が惚れた女は……手放したくないと思った女は。彼女は、明日、正真正銘の犯罪者になる。
「渚……俺は、お前が好きだったよ」
 今日までは。
 プロヒーローに相応しくない感情は、今日、この町で捨てる。明日からは決して同じ過ちを繰り返さぬと、ポケットの中のヒーローライセンスに誓う。
 だから今日までは、彼女の愛くるしい笑顔を、肌の温度を懐かしく、恋しく思う自分が居たとしても、見て見ぬふりをしてやる。


 * * *


「――番、出なさい」
 刑務官に促されて雑居房を出る。
 髪はぼさぼさでノーメイク。そして胸には呼称番号と名前が縫い付けられている。どこからどう見ても私は受刑者だ。こんな姿を晒すのは本望ではないけれど、面会の申し入れを断ることはできなかった。一目でいいから消太に会いたいと思ってしまったのだ。

 懲役ニ年の実刑判決。最高刑よりも減刑されたのは、おじさんが個性を使って私の記憶を消していたことが考慮されたのだと、国選弁護士の先生が言っていた。だけど、たとえ『仕事』の記憶が無くとも、私には罪の意識があった。『仕事』のことは他言無用だとおじさんにきつく言われていたし、『仕事』を終える度にまとまった金額の報酬を受け取っていたから。人に言えないことをさせられているのだとなんとなく自覚しながらも、私は『仕事』をこなした。自分の個性が誰かの役に立っていることは嬉しかったし、何よりも、私はお金が欲しかった。故郷に観光客を呼べるような何かを作りたい。準備金が溜まるまでは黙っておじさんに従おう。そう思っていたところに……私は出会ってしまった。相澤消太に。
 私は、亡くなった方達の尊厳を奪った。立件されたのはたったの一人。片手では数えられないほどの『仕事』が証拠不十分として不起訴となった。出頭した夜に処理するはずだった遺体は、髪の毛の一本すら溶かせなかった。好きな人がプロヒーローだと知ってしまったから。
 あれから、一年。

「入りなさい」
 刑務官が扉を開ける。この向こうに消太が居る。一目でいいから会いたいと思ったのは自分なのに、いざその時が目前に迫ると足がすくんでしまう。
「早くしなさい」
 息を吸って、一歩、足を踏み出した。
 硝子の向こうに居たのはプロヒーロー、イレイザー・ヘッドだった。私は思い知らされる。ヒーローかれ犯罪者わたしは別の世界で生きているのだと。私達を隔てる為に硝子の壁があるのだと。
「こんにちは。釣り堀ですね?」
 空気が重くならないように、気まずくならないように、私は精一杯の笑顔をつくる。
「……おい。流石にそれはないだろ」
 分かっている。おふざけがこの場に相応しくないことぐらい。
「久しぶり。元気だった?」
「ああ。お前は?」
「元気だよ。見ての通り。ま、こんな姿になっちゃったけど」
「仕方ないだろ」
「分かってます。でも……消太には見られたくなかったな」
「だったら面会を断ればよかったのに」
「じゃあ突然会いに来ないでよ」
「任務で近くに寄ったんだ。一度ぐらいお前の顔を見ておこうと思って」
「あのさあ、コンビニに行くついでに来た、みたいな言い方やめてよ。ここどこだと思ってるの? 刑務所だよ?」
 消太は、露骨に嫌な顔をした。苦い漢方薬でも無理矢理飲み込んだかのように、眉間に皺を寄せている。
 私は鼻を啜って、腹に力を込めて声を出す。とにかく明るく振る舞おう。湿っぽい雰囲気にならないようにしようと。
「イレイザー・ヘッドってそういう感じなんだ。本物は初めて見た」
「本物?」
「この間ニュースにちょっと映ってたよ。個性強化ドラッグの事件だったかな」
「ああ、あれか」
「その首元の……布? それってどうやって操ってるの? 私にもできる?」
「特訓すれば」
「へえ。出所したらやってみようかな」
 まるで観光案内所のカウンター越しに雑談を交わしているかのようだ。消太が差し入れてくれた缶コーヒーが手元にあったらいいなと、叶いもしない望みを抱いてしまう。
「――聞いてもいいか」
 ひとしきりの雑談が途切れると、消太の声色が変わった。
「どうして話してくれなかったんだ」
 小さな黒目が私を見つめている。
 ――消太、老けたな。
 出会った頃にはもう爽やかな好青年という感じではなかったけど(彼がまだ二十代半ばだと知った時には心底驚いた)、この一年で随分と老け込んでしまったように思える。
「何を……話して欲しかったの?」
「お前のことだ。それ以外に何がある」
「自首する前に話してたら消太の手柄になったの?」
「そういうことじゃない」
「じゃあさ、話してたらどうなってたの? 消太がうちの町に来たときはもう、おじさんも私も、引き返せないところまで行っちゃってたんだよ?」
 忘れもしない、あの夏。私は出版社のライター、田中消太に恋をした。ジャバリゾートホテルのスキャンダルを暴くために私達の町にやって来た、ちょっと不愛想で、私の知らない香りがする人。彼がいつかあの町から居なくなってしまうのだと分かっていても、燃え上がる恋心を鎮火することはできなかった。
 彼がプロヒーローだと知って私は絶望した。『いつか』の時を待たずとも、すぐさま彼から離れなければならない。何故ならば私は人に言えない『仕事』をしていたから。諦めなければならないのに、諦めたくない。消太に触れたいし、触れられたい。そんなぐちゃぐちゃになった感情を抱いたまま彼と身体を重ねて、私は思い知った。ライターだろうがプロヒーローだろうが、私はやっぱり消太が好きだった。
「――俺には、罪を犯す人間の気持ちが分からん」
「だろうね。ヒーローなんだから」
「ヒーローだからと言って皆が皆聖人のように生きてるわけじゃない。犯罪に手を染めるヒーローだっている」
「うわ、最低」
「お前が言うな」
 消太は小さく息を吐くと、前屈みになった。猫のように背中を丸め、両手を組み合わせ、
「……渚」
久方ぶりに私の名を呼んだ。声のトーンは、私に向けられる眼差しは、あの夏のそれらと同じだった。
「俺は犯罪を許さない。どんな事情があろうとも、だ」
「ねえ、なんなの? 説教するために会いに来たの?」
「さあな。俺にも分からん」
「なにそれ」
「任務で近くに寄ったのは本当だ。お前のことを思い出して、久しぶりに顔を見ようと思った。それだけだ」
 消太はそれ以上を語らなかった。だから余計に、知りたくなってしまった。言葉の裏に隠されている彼の本心を。私は消太に何も知らせぬまま――デートの約束を反故にして――出頭したし、逮捕された後の彼を何も知らない。たった一晩でも身体を重ねた女が犯罪者だと知って、どう思ったのだろうか。ヒーローネットワークから処罰を受けたりはしなかっただろうか。あの夏から、消太はどんな一年を過ごしたのだろうか。老け込んでしまった理由の中に、私は含まれているのだろうか。どうして今になって会いに来たのだろうか。知りたい、けど――知るべきではない。
 私は、長い時間をかけてひと夏の恋を忘れたつもりだった。かつて抱いた気持ちは欠片ほども残っていないと思っていた。でも、未だに、私の中には存在している。相澤消太という男が、確かに居る。
「……消太、あのさ」
 下瞼が、勝手にぴくりと動いた。
「会いに来てくれてありがとう。それから、迷惑かけてごめんなさい。私は……ここできちんと罪を償って、これからは貴方達ヒーローの世話にならないように生きていきます」
 頭を下げながら、瞼を閉じた。目元の震えが治まるのを待って、ゆっくりと頭を上げた時、硝子には消太の手のひらが貼り付いていた。大きな手。ごつごつとした指。硬い皮膚の感触と、ずっと触れていたくなるようなぬくもりを、私は今でも覚えている。
「その言葉、忘れるなよ」
「うん。一生忘れません」
 翳された手のひらに、自分のものを重ねた。手のひらが感じる温度はひんやりと冷たい。
 もう一度でいいから、消太に触れたかった。けれども私は、人間の肉体は溶かせるのに、こんな薄っぺらい硝子の一枚も溶かせないのだ。
「じゃあね」
 私は硝子から手を離して、立ち上がり、刑務官に退室の意を告げた。
 これが私達の今生の別れなのだろう。刑期を終えて出所しても、二度と顔を合わせることはない。それでいいのだと、私は自分自身に言い聞かせた。受刑者の身である私が、未来を望むべきではない。
 最後に消太がどんな顔をしていたのかは見ていない。目に焼き付いているのは、彼の手のかたちだけだった。

 扉が閉まると、私は雑居房へと歩み出した。
 刑期はまだ半分以上残っている。刑務所の門を跨ぐその瞬間までに、時間をかけて溶かそうと思う。針のようにチクチクと胸を刺す恋心も。ひと夏の思い出も。好きだった人の肌の温かさも。あれもこれも全部、ひとつ、ひとつ、ゆっくりと溶かしていく。いつかすべてがとけてなくなるまで。




 そしてすべてがとけていく 
 〈完〉


back



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -