そしてすべてがとけていく | ナノ


夢と現

 私は今、夢を見ている。悪い夢だ。早く覚めたい。誰かが私をここから救い出してくれないだろうか――そんなふうに嘆いても、救いの手は伸びてこない。
 唇をきつく結んで、暗闇に浮かぶ身体と向き合った。
 人並み以上に鍛えたのであろう、しっかりと厚みのある胸板。楕円形の乳首と脇腹のあたりに刻まれた傷跡は、人間の目と口に……不気味な笑顔のように見える。傷跡はほんのり赤くて、にやりと口角が上がった唇みたいな形をしていた。
「こわ……こっち見ないでよ……」
 そうは言っても乳首は私を見つめ続けるし、傷跡は微笑みを止めない。
 息を呑んで、胸の表面に恐る恐る触れてみた。筋肉は石のように硬くて、氷のように冷たい。体つきだけならば消太に似ているが、肌の温度は大違いだ。私を抱いた男の肌は、とても熱かった。彼に抱き締められながら、私達どちらかの、或いは双方の肌が溶け出していると錯覚したほどに。
「消太……会いたいな」
 消太とひとつになった夜が恋しい。
 そう感じた途端に、胸の真ん中にナイフのようなものがぐさりと刺さる。鋭くて、冷たい。胸が痛い。息ができぬほど苦しいけれど、寝そべって悶えているだけではこの悪夢からは逃れられない。
 私は両足に力を入れ、倒れまいと踏ん張った。鼻から大きく息を吸って、下唇を思い切り噛み締める。口の中には鉄臭い、しょっぱい味が広がっていく。


 * * *
 

 白い肌が暗闇に浮かんでいる。きれいだ。と、この先何度身体を重ねようとも俺は同じ感想を抱くだろう。
 丸い乳房と、愛らしい二つの突起が俺を誘っている。彼女を抱いた夜、この肉はシーツの上で縦横無尽に揺れていた。俺が下半身を思い切り突いた反動で、弾むように。その様がもう一度見たい。
「にやにやしないで」
 いや、俺はしていない。間抜けな顔を晒しているつもりは断じて、ない。
 俺は咳払いをして、丘陵に手を伸ばす。
「待って」
「待たない」
「やめて。こわい」
「何を今更」
「触られたくないの」
「俺はお前に触りたいよ」
 胸の表面に爪を立てた。柔らかな肉は俺の指を飲み込んでいく。第一関節、第二関節と吸い込まれていき――やがて俺の指は、そして手は、彼女の肌に沈んでしまった。
「渚……?」
 どういうことだ。俺はただ、お前の身体に触れたかっただけなのに。絹糸のように白かったはずの肌にはいつの間にか黒い影ができていた。まるでブラックホールだ。
「……そういう夢、か」
 俺はようやく、自分が置かれた状況を把握した。これは夢だ。気味の悪い夢。
「……――」
 彼女が切なげに何かを呟いたが、単語の一つも聞き取ることができなかった。
「すまない。もう一度言ってくれ――」
 次の瞬間、鼓膜を突き破るような勢いで耳に飛び込んできたのは、アラームの電子音だった。まどろみを一瞬で飛び越えて、意識がはっきりとする。
「はぁ……」
 瞼を押し上げて早々、思わず特大の溜息が漏れてしまった。何故ならば片方の手がボクサーパンツの中で、太く硬いものを掴んでいたから。
 さて、どうするか。
 寝る前に自己処理をしたばかりなのに。昨晩のみならず、ここのところ彼女の身体を思い出しながら自身を慰める夜が続いている。何度ティッシュの中に放出しても、欲求は驚くべき早さで溜まっていくのだ。
 今、手を上下に動かせば一時的な快感を味わうことができる。さて、どうする。
「……やめておけ」
 自身を宥めるように言って、重い上半身を起こした。今日は、凡そ一週間ぶりに彼女と会う。生身の彼女に触れられる。あと半日ぐらい我慢をしろと。
 枕元で震え続けていたスマートフォンを掴み、アラームを解除する。朝の挨拶をしてからシャワーを浴びようと、メッセージアプリを開いた。新たなメッセージは一通も届いていない。
「珍しいな」
『渚』の名前をタップしてトークルームを確認する。一番下に表示されているメッセージは昨夜俺が送った『おやすみ』の一言。既読のしるしはついていない。
 夜の海で互いの気持ちを確かめ合ってから、一週間。四六時中連絡を取り合っているわけではないが、『おはよう』と『おやすみ』だけは毎日欠かさず交わしてきた。こんな日は初めてだ。
「寝ちまったのか」
 今晩はアプリを通さずとも、直に「おやすみ」と言うことができる。期待に胸が膨らんでいくのを感じながら、メッセージを二通、立て続けに送った。
『おはよう』
『予定通り昼の十二時でいいか?』


 真っ青なクリームソーダは俺の胃袋に収められ、空のグラスは晴天の色に染まっている。初めて二人で食事をしたカフェで落ち合い、水族館でデートをし、リゾートホテルのレストランでディナーを楽しみ、俺の部屋に泊る。そんな休日が始まろうとして――未だに始まらない。
 スマートフォンで現在の時刻を確認する。午後十二時四十五分。約束の十二時はとっくに過ぎているが、テーブルには変わらず俺ひとりだ。メッセージアプリに新着メッセージはないし、電話をかけても繋がらない。昨晩の『おやすみ』も含めて俺が送ったメッセージは一度も読まれていない。
 ……大丈夫、なのか?
 グラスの中で解けた氷を――微かに甘い味がする水を啜りながら、頭の中にあらゆる可能性を並べた。スマートフォンを紛失した。急病にかかり、連絡もできぬような状態で寝込んでいる。何かしらの事故に遭った。もしくは、事件に巻き込まれた。
「……まさかな」
 あと十五分。十五分待って何の連絡もなければ、彼女の家に向かおう。そう決心して全ての水を飲みこんだ瞬間、スマートフォンが震えた。間髪を入れずに応答する。
「大丈夫か?」
「……イレイザー・ヘッドですね?」
 待ち望んでいた、若々しく快活な声ではなかった。
 登録名はこの地の県警本部だった。俺は咳払いをして、仕事モードのスイッチを入れる。
「ヴィランですか?」
「いえ、ヴィランというわけじゃ……今ジャバリゾート付近ですか?」
 老人のようなしゃがれた声だった。刑事だろうか。知らない男だ。
「はい」
「では至急こちらへ来てください」
 俺はリゾートホテルの建物を見上げた。昨日の勤務を終えた時点では、ホテル内には何の異変も無かったはずだ。ヴィランではない、ということは。『一千万円』、『違法薬物』という単語が頭を過る。
「三分もあれば」
「ああ、現場はジャバリゾートじゃないんです。そこから少し離れてて」
「どこですか?」
「位置情報送ります」
「了解」
 ジャバリゾートから少し離れた事件現場と、昨晩から連絡が取れない彼女。二つの要素は容易に結びつけられる。
 ――杞憂であってくれ。そう、祈るように呟いて、伝票を握り締めて席を立った。
『悪い。任務が――』
 彼女にメッセージを打ちかけたところで、県警からショートメールが届いた。途端に足は止まり、手先が震え出す。画面に表示されている地図に、覚えがあった。
 杞憂は、取り越し苦労では終わってくれなさそうだ。
 

 野次馬の壁をなんとか擦り抜けて、規制線の前まで辿り着いた。黄色のテープで囲まれているのは観光案内所そのものと、右隣の空き店舗。いつも閉じられていたシャッターは開いている。
『XX町観光案内所』
 何度も見上げたこの看板が、今日はやたらと眩しく見えた。「お前を待っていたぞ」と諸手を挙げて歓迎されているかのように。
 野次馬の中には知った顔がいくつか見られた。みちしお食堂の大将と常連客。ジャバリゾートの従業員寮に移るまでは俺の住まいだった、この町のホテルの従業員達。彼らと目が合うと、気まずそうに外方を向かれてしまった。
 嫌な予感が、姿かたちを変えていく。
「お兄さんも釣り?」
 隣に立っていた、中年の男に声を掛けられた。彼はこの町の住人ではない。如何にもアジを釣りに来たという装いの男は、たいそう残念そうに言う。
「釣り堀は閉鎖だってさ。ま、この様子じゃあしょうがないけどさー」
「何があったんですか?」
「俺もよく分かんないんだけど、死体が出たっぽいよ」
「死体……」
 自分の声が、頭の中で反響している。し、た、い。死体。それが渚の肉体であると決まったわけではないし、そうであると考えたくもない。分かっている事実は、彼女の勤務先兼住居が規制線で囲まれているということ。それだけだ。希望はまだ、微かながらも光を放ち続けている。
 観光案内所の自動ドアが開き、鑑識官達がぞろぞろと外に出てきた。その向こうに見えるカウンターの奥、彼女の定位置だったところには刑事のような風貌の男が立っている。俺はヒーローライセンスを翳しながら規制線を跨いだ。
「イレイザー・ヘッドです」
 男は俺を見るなりワイシャツのポケットから警察手帳を取り出した。
「XX県警捜査第一課の鈴木です。早速ですが話を聞かせてください」
 スマートフォンのスピーカー越しに聞いた、老人のようなしゃがれた声だった。流石に俺と同世代には見えないが、声の印象よりも随分と若そうだ。
「単刀直入に伺います。イレイザー、この女を知っていますね?」
 カウンターに一枚の写真が置かれた。言うまでもなく、そこに写っているのは――渚だった。屋台の中でコテを片手に微笑んでいる、エプロンを身に付けた彼女。祭りでのワンシーン、といったところだろう。観光案内所の受付でもホテルのスタッフでもない、俺の知らない渚の姿。屋台では焼きそばでも焼いていたのか、それともお好み焼きか、この町だから魚介類の鉄板焼きかもしれない。そんな呑気なことを考えている場合ではないのに、本題から目を背けたくなってしまう。
 頼むから、生きていてくれ。神仏に手を合わせたり、胸で十字架を切ったりする人々の気持ちが今なら分かる。
「無事、なんですか?」
 後で罰が当たってもいい。こんな時ぐらい、普段は存在すら信じていない神様とやらに祈る。渚は無事だと、生きていると言ってくれ。
「何のことですか?」
「……死体が出たと」
「ええ。死体は出ましたが……大丈夫ですか? すごい顔してますよ」
「俺はいつもこの顔です」
 俺は今、すごい顔どころか、ひどい顔をしているに違いない。もしヒーロースーツを着ていたら操縛布に口元を埋められたのに。
「イレイザー。貴方がこの女と親密な関係だったと聞きました。でも、捜査は捜査ですから、」
「分かってます。何から話せば?」
「率直に教えてください。貴方は何かを知っていましたか?」
 あんたは馬鹿なのか、と、腹の奥から込み上げてきた暴言はなんとか喉元でとどめた。
「誰かが……親しい間柄の人間が殺されようとしているのを知って、放っておくヒーローなんてどこにも居ませんよ」
 毒でも吐くような声を出してしまう。俺が何かを知っていれば、何かに気付いていれば、彼女は今でも――
「……なるほど。そういうことですか」
 刑事は、何かを悟ったような顔をして俺を見上げた。その表情が意図するものを、そして彼が続けて放った言葉の意味を、すぐに理解することはできなかった。


「落ち着いたら声を掛けてください」
 そう、刑事に肩を叩かれてからどれ程の時が流れたのだろうか。俺はカウンターに上半身を預けて、この夏を顧みていた。初めてここを訪れてから今日に至るまでの、彼女と過ごした日々を。
 彼女との出会いは、まさにこの場所だった。それからホテルの朝食会場で何度も顔を合わせて、雑談を交えるようになって。捜査(取材、というていだったが)への協力を依頼して、ジャバリゾートに潜入して、そして……あの夜があった。彼女に初めて触れた夜。彼女と俺が、ホテルの従業員と客ではなくなった夜。あの日以来、明けても暮れても彼女のことばかりを考えて、俺はやがて任務を忘れるようになって、自制も我慢もできなくなって――ちょうど一週間前、潮が満ちる海で、とうとう彼女を俺のものにした。つもりだった。

 ――会えなくなるって分かってるのにこれ以上好きになるのが嫌なの。

 彼女の言葉を、あの時吹いていた海風の湿っぽさを思い出す。
「分かってたのか……お前は……」
 写真に呟きと溜息を同時に落とした。光沢紙の中の彼女は表情ひとつ変えず、笑顔をこちらに向けている。胸を抉られるような気分になって、写真から視線を上げた。
ふと、壁に掛かったカレンダーが目についた。
 その日の客の数を示す『正』の字や細かな予定が書き込まれている、月間カレンダー。昨日の日付は丸で、今日の日付はハートマークで囲まれている。一週間前、彼女を抱いた日にも同様に、ハートマークが書き込まれていた。二つのハートマークは、どういうわけか歪んでいく。線は滲んでいき、形は崩れ、溶けていく。
「……渚……、」
 泣いてたまるかと、俺は瞼を閉じた。
 ここは事件現場で、俺はプロヒーローだ。肩を落としている暇はないし、涙を見せるなんて以ての外だ。責務を果たせと、己に喝を入れる。
 まずは落ち着いて、状況を整理しなければ。俺は刑事の言葉を思い返し、頭の中で復唱した。

 ……なるほど。そういうことですか。イレイザー、悪いが貴方は勘違いをしている。確かに死体は出ました。現場は隣の倉庫です。でも、死んでいたのは男だ。この女は……この女が、昨夜出頭してきた被疑者です。


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