そしてすべてがとけていく | ナノ


潮が満ちるところで

 みちしお食堂で彼女と乾杯する。テーブルには一番小さいサイズの瓶ビールと、グラスが二つ。
「本当にこれだけでいいの?」
「十分だ」
「遠慮しないでね? 私は勝手に控えめにするから、消太は好きなだけ飲みなよ」
 彼女は慣れた手つきでビールの栓を抜いた。
「いや。俺も強くないらしいから」
「らしい、ってどういうこと」
「すぐに記憶を無くしちまうらしい。自覚はないが」
「うわ、タチ悪いやつだ」
「……お前にだけは言われたくないよ」
 すぐに記憶を無くす男と、カクテル三杯でふらふらになるまで酔っ払う女。俺達は似た者同士というわけだ。
「じゃあ一口だけにしてね」
「そっちこそ」
 グラスの半分ほどの高さまで、黄金の液体が注がれた。「乾杯」の合図でグラスをぶつけ、乾いた喉を潤す。冷たくて、苦い。
「んー、冷たい」
 くしゃりと表情を崩した彼女の口元には白い髭が乗っている。――かわいいな。その言葉が脳裏に浮かんだ途端、喉の奥がむず痒くなった。俺はビールを再び口に含んで、不快感を苦みで上書きした。


 今週末から、ジャバリゾートホテルの従業員寮に入居する。
 この地に着任してから半月以上も経っているのに、決定打となる情報は未だに得られていない。こんなにもちんたらしていていいものかと、いささか心配していたところにヒーローネットワークから追加の指示が届いた。『各位、時間は掛かってもいいから確固たる情報を掴め』と。ホシの犯罪グループを一網打尽にするべく、捜査の手は全国各地に及んでいるそうだ。東ではサポートアイテム会社に、西では飲料メーカーに、南や北でも様々な場所に俺のようなヒーローが潜入しているとかなんとか。犯罪の証拠が全て出揃ったところで一斉検挙、という画策のようだ。
 時間は掛かってもいいと言われ、胸を撫で下ろしている自分が居た。まだこの半島を離れたくはないから。無論、任務を忘れたことは一瞬たりともないし、情報収集は抜かりなく進めているつもりだが――頭の片隅にいつも、渚を思い浮かべているのもまた事実だ。普段の彼女らしい、愛くるしい笑顔。リゾートホテルの客室で「寂しくなっちゃった」と嘆いた時の、憂いを帯びた顔。観光案内所で見せた、俺への好意が表面に滲み出ている、照れた顔。


「――あれー、田中君と一緒じゃないか」
 すっかり胃袋が満たされた頃、おじさんが店に入って来た。
「どうも」
「どうも。やっぱり二人ってそういう感じだったの?」
 目を真ん丸にした彼女の首が、今まさに横に振れようとしていた。
 俺は透かさず「そうですね」と答えて彼女を制する。なんとなく、否定をされたくなかった。
「もう、水臭いなあ! もっと早く言ってよー」
 おじさんはにやにやしながら彼女の背中を何度か叩くと、「デートの邪魔しちゃあ悪いね」と笑って、俺達のテーブルから去っていった。
「……ねえ消太」
 嵐が去った後の、穏やかな波のような声で彼女は言う。
「私達ってそういう感じなの?」
「違うのか?」
「違わ……ない……と思いたいけど」
 頭の中で何度も再生された、この表情。俺への好意が表面に滲み出ている、照れた顔。目の前でこんな顔をされると、居ても立っても居られなくなる。他人に触れられたくないと言う彼女に、触れたくなってしまう。手中に収めたくなってしまう。
 ――そんなふうに求めてしまうぐらい、俺は渚が好きなんだな。
 自分の気持ちには気付いていたけれど、言語化することは意図的に避けていた。優先すべきは任務で、恋愛は二の次であるべきだ。彼女への想いを『好き』と定義づけてしまうと、優先順位がひっくり返ってしまうと分かっていたから。
 つまり、今、ひっくり返ったというわけだ。
「出るか」
 風を浴びたいと思った。身体が火照っているのはたった三口のビールのせいではない。夜風で熱を冷まして、その後は……俺達の話をしよう。



「本当に良かったのか?」
「だから大丈夫だって。おじさんには甘えちゃえばいいの」
 俺達の伝票はおじさんに奪われた。「ご祝儀」と茶目っ気たっぷりにウィンクをして、「うちの子をよろしく」と頭を下げた彼から伝票を取り返すことはできなかった。
「何か礼でも……」
「いいのいいの。あの人、奢るの好きだから」
 釣り堀は赤字経営じゃないのか。頭を過った心配は、瞬く間に意識の内から消えてしまった。
 リゾートホテルでの勤務が始まれば、彼女と会える機会はぐんと減るだろう。俺は任務を放り投げて異性との逢瀬にのめり込むようなヒーローにはなりたくない。だから今晩は彼女のことを考えていたかった。仕事も、雑念も全部取っ払って彼女のことだけを。

 行き先を決めずに歩みを進め、海岸に辿り着いた。真っ暗な砂浜と、月明かりが浮かぶ満潮の海。遥か向こうには半島の先端、ジャバリゾートホテルと周辺施設の明かりが見える。
 リゾートホテルに彼女を連れて行ったことは、今となっては間違いだったのかもしれない。あの夜がなければ、俺達は今でもホテルの従業員と宿泊客のままだっただろう。俺はいずれこの町を去るのだから、無味乾燥な関係でいたほうが幸せだったかもしれない。
 ――でも。俺は味を知ってしまったんだ。今更後戻りなんてできやしない。
「アジの南蛮漬け、美味しかったね」
「そうだな」
「みちしおのご飯はいつだって最高だけどさ、今日が一番だったな」
「味付けがいつもと違ったのか?」
「……そうかもね」
 彼女が言わんとすることは分かっている。はぐらかしてしまうのは緊張のせいだ。
 だが逃げていては何も始まらない。俺は覚悟を決めて、彼女の手の甲をとん、と小突いた。手を繋ぎたい、と。
 しかし、俺の要求は退けられる。彼女は「ごめん」と両手を胸の前で結び、項垂れてしまった。
「冷たいな」
「だって……汗かいてるし」
「俺は構わない」
「ちょっとは私の気持ちを考えてよ」
「だったら俺の気持ちも考えてくれ」
「なにそれ。ずるい言い方」
「ずるいと言われてたって構わないよ」
 彼女は少しの間考えていた。悩んでいたのかもしれない。
 俺達の足元で波が数回、押したり引いたりを繰り返した後、
「指だけね」
彼女はTシャツの裾で手を拭って小指を伸ばした。俺はようやく、小指を手の中に収める。少しの力で折れてしまいそうなほど細い指を。
「気にし過ぎだ」
「消太を傷付けたくないの」
「火傷する程度じゃないのか?」
「これくらいの汗ならそうだけど……」
「それなら問題ない。怪我には慣れてる」
「慣れてるって……今までどんな危ない取材してきたの? あ、もしかして戦場ジャーナリストだったとか?」
「違うよ」
「じゃあ、」
「俺はお前に嘘を吐いていた」
 波の音が、俺と彼女の間を駆け抜けていく。
 任務を終えるまでは田中消太であり続ける。自ら仮面を外すべきではない。そんなことは百も承知だが――優先順位はもうひっくり返っている。プロヒーローの責務よりも、一人の男としての望みが勝ってしまった。好きな人には、本当の俺を好きになってほしい。
「どういうこと?」
「俺はライターじゃないし、田中消太でもない」
「え……」
 俺から離れて行こうとした彼女の手首を、咄嗟に掴んだ。
「名前は相澤消太。職業はプロヒーロー。一応、ヒーローネームはイレイザー・ヘッドだ」
 彼女は顔を上げて、真っすぐに俺を見た。眉間に皺を寄せて、口をほんの僅かに開けて。その表情を作り出しているものの正体が驚きなのか、怒りなのか、或は恐怖なのかは読み取ることはできなかった。
「プロヒーロー……そうなんだ……」
「任務の為だ。仕方なかった」
「うん。分かるよ……大丈夫」
 大丈夫、の言葉に反して彼女の声は怯えているように聞こえた。
「ジャバさんはスクープ撮るためじゃなくて」
「捜査だ」
「すごい。本物なんだ」
「本物だよ。ライセンス見るか?」
「いい。相澤消太で検索するから」
「たいした情報は出ないぞ」
「どうして? ヒーローなのに?」
「そうだな……俺みたいな人材は潜入捜査に適してる、とだけ言っておく」
「あーなるほど。じゃあ私と一緒に行ったのが下見で、今週末から本格的な潜入捜査、って感じ?」
「ああ」
「そっか。……会えなくなるんだね」
「だから今はできる限りお前と一緒に居たいんだ」
「うん……でも、私は……」
 海風が彼女の髪を揺らす。心も……揺れているのだろうか。
「嫌ならそう言ってくれていいぞ」
「嫌じゃない。私だって消太と一緒に居たいよ? だけど……会えなくなるって分かってるのにこれ以上好きになるのが嫌なの」
 何かが、胸の奥から込み上げてくる。一言では表せそうもない、様々な感情が入り混じった何か。彼女に対する特別な想い。興奮。子供じみている所有欲。一握りの後ろめたさ。まるで満ち潮に沈みゆく砂浜のように、俺はそれらに呑まれていく。
 もう、我慢ならなかった。俺は彼女の手首を解放して――指と指を絡めるように、手のひらを重ねた。今度は逃げられることも、手を振り払われることもなかった。
「渚は……俺のことが好きなのか」
「え? そういう話したでしょ?」
「したか?」
「だってさっきおじさんに聞かれて……」
「二人はそういう感じなのか、と言われただけだ」
「なにそれ」
 そうじゃないだろ。と、心の中で自分を咎めた。今伝えるべきは、そんな言葉じゃない。躊躇うな。尻込むな。
「渚」
 腹筋に力を込めて声を出し、一歩、彼女に近付いた。
「俺はお前が好きだ」
 もう一歩、彼女との距離を詰める。
「私も……消太が好き」
 その言葉が放たれた瞬間、俺は衝動的に彼女を抱き締めた。俺が好きだと告げた声が、月明かりを浮かべて輝く瞳が愛しくてたまらなかった。
「だめ、離れて」
「嫌だ」
「本当に待って。私、汗かいてる」
「待たない」
「お願い。消太を傷付けたくないの」
「安心しろ。俺の個性は抹消だ」
「抹消? え、私消されちゃうの?」
「そんなわけあるか。渚の個性を無効にするだけだ」
「でもさ……こういう時に個性使うのって変じゃない?」
「うるさいな」
 片方の手はTシャツの布越しに彼女の腰に添え、もう片方の手では彼女の頬を包み込んだ。ファンデーションに守られた肌は汗ばんでこそいなかったが、熱を帯びている。
「消太あのさ、」
「もう黙ってくれ」
 彼女の口から次の言葉が出てくる前に、俺は唇を塞いだ。
 唇を重ねるだけのキスをして、一旦離れる。「好き」の二文字を囁き合って、今度はどちらからともなく舌を差し出した。
 舌も、唾液も熱かった。まさか唾液にも皮膚を溶かす作用があるわけじゃないだろうな、なんてことをぼんやり考える。
「……消太」
「ん」
「離れて。あつい」
「嫌だ。離さないよ」
 俺を押しやろうとする彼女を、一層きつく抱き締めて、もう一度キスをする。止まらない。止めたくない。
「ねえ、これ以上はだめ」
「したくないのか?」
「分かり切ったこと聞かないで」
「分からないから聞いてる」
「消太ってほんとずるいよね」
「ずるくて結構。で?」
「……したい、けど……っ、」
 遠慮がちにそう言った、可愛らしい唇を貪るようにキスを続けた。二人分の舌が絡み合い、唾液が混ざり合い、一つになる。たった今繋がったばかりなのに、腹の内側では更なる欲望が疼いていた。もっと、欲しい。唇だけでは物足りない。
「――場所、変えるか」
 腕の中でこくりと頷いた彼女が、全部欲しい。
 最後に一度、唇を触れ合わせて、彼女の身体を解放した。キスに没入していて気付かなかったが――指の腹がひりひりと痺れていた。俺は溶かされ始めている。身体だけじゃなく、心までも。


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