そしてすべてがとけていく | ナノ


田中消太という男

 私の部屋は観光案内所の二階にある。古くて狭い六畳一間、浴室に至ってはユニットバス。けれども家主であるおじさん――血は繋がっていないが、親戚のような存在だ。亡くなった私の両親も若い頃から世話になっていたそうだ――の好意で、家賃も光熱費もタダで住まわせてもらっている。少しでも貯金を増やしたい私にとってはこの上なく都合がいい。
 それに最近は、窓の外を眺めるのが結構好きだったりする。
「あ、帰って来た」
 部屋から勤務先のホテルが見える。
 四階の角部屋に明かりが灯った。消太が泊っている部屋だ。セミダブルのベッドと最低限の設備があるだけの、リゾートホテルとは比べ物にならぬほど質素な客室。

 ジャバリゾートホテルに潜入したのは数日前のこと。
 あれから毎日、私は左肩を撫でている。彼の手のかたちを、質感を思い返しながら。大きな手。ごつごつとした指。硬い皮膚と、ずっと触れていたくなるようなぬくもり。全てが恋しくてたまらない。
 
 ――でも……なんだか寂しくなっちゃった。

 私がそう言った時、消太は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。いたたまれなくなって部屋から飛び出したけれど、本当は帰りたくなかった。消太と一緒に居たかったし、その気持ちは今この瞬間まで続いている。
 田中消太と出会ってから一週間と少し。瞼の裏にぼんやりと浮かんでいた何かが、あの夜、はっきりと見えるようになった。私は彼が好きだ。この町に活気も娯楽も出会いの場もないということは最早関係ない。田中消太という男を好きになってしまった。
「消太は……どうなの?」
 この声は、想いは、客室の明かりの中までは届かない。手を伸ばせば届きそうなのに。
 私は窓枠の上に肘を突き、無料通話アプリのトークルームを開いた。
『ありがとう。気をつけて帰れよ』
『こちらこそありがとう』
 リゾートホテルからの帰りに交わした、味気ないメッセージを読み返す。『やっぱり帰りたくない』と送っていたら何かが変わっていたのかもしれない。
「……会いたい」
 夏の夜の、生ぬるい空気に私の呟きはとけ込んでいく。
 行動を起こさなければ何も変わらない。私は意を決して通話ボタンを押した。コール音が何回か鳴った後、スピーカーは「どうした」と、気怠そうな声を再生した。
「どうもしてないけど。取り込み中だった?」
「いや。さっき部屋に戻って来たところだ」
「知ってる」
「ホテルに居るのか?」
「ううん。家からホテルが見えるの」
「覗きが趣味とは意外だな」
「違いますー。窓の外を見たら嫌でも視界に入って来るの」
「俺のことも見えてるのか」
「まさか」
 姿が見たいとは思っているけど。
「……ねえ。なんか合図して」
「合図?」
「なんでもいいから」
 はぁ、と消太は溜息を吐いた。「面倒臭い」というぼやきまで聞こえてきそうだ。
 程なくして部屋の明かりは消え、すぐに灯った。もう一度消えて、灯る。
「これで満足か」
「満足です」
 もしカップルだったら毎晩こんなふうに――と思いかけて、やめた。私達はたった一晩、カップルのふりをしただけだ。舞い上がるのはまだ早い。
「消太はあれから忙しいの? 全然見かけないけど」
「ずっとリゾートホテル周辺を調べてる。こっちには寝に帰って来るぐらいだ」
「どう? 何か掴めたの?」
「いや、これと言った決定打は。あちこち行ってみてるんだが」
「へぇ、例えばどこ行ったの?」
「今日は水族館」
「え、一人で?」
「悪いか」
 一緒に行きたかった。なんて言ったら「遊びじゃない」と叱られただろうけど、やっぱり私は消太と水族館に行きたかった。今度誘ってみたら……どんな反応をするだろうか。
「こっちにも水族館があったらなあ」
「たいしたことなかったぞ」
「でも水族館があるだけマシだって。ジャバさんの周りってだいたい何でもあるから羨ましいよ。ジャバさんの後にうちのホテル見たらジョボくてがっかりするでしょ」
「そんなことはない。俺には丁度いい」
 みちしお食堂も、ショボくてがっかりするホテルも、消太に褒められるとまるで五つ星を与えられたかのように輝きを増す。
「だいたいお前は地元のことを貶しすぎだ。そんなに嫌いなら町を出ればいい」
「嫌いじゃないよ。嫌いになれないから住んでるんだし」
「だったら悪く言うな」
「だって何もないのは事実だもん。友達だってほとんど都会に出て行っちゃったし……でも、町の人達は好きだな。皆いい人でしょ?」
「あぁ。そうだな」
「それにさ、町の人達は私の個性のこと知ってるから、ここに居たら無駄に傷付かなくて済むんだよね」
 私は左肩に手を添えた。町の人達は誰も私に触れようとしない。個性のことを予め伝えていたら、消太だって触れてはくれなかっただろう。
「だからこんなところでも嫌いにはなれないんだ。今は何もないけど、いつかお金が溜まったら観光客を呼べるような何かを作れたらいいな」
「お前、そんなことを考えてたのか」
「うん。おじさんは牡蠣小屋なんてどうだって言うんだけど」
「おじさんって……釣り堀の?」
「そうそう。係員のおじさんね。でも牡蠣の養殖のノウハウなんてないし、写真映えもしないし。私はカフェみたいなお洒落な場所がいいなって思ってる」
「俺はみちしおの方がいいと思うぞ」
「でも消太はさ……消太はうちのホテルやみちしおが好きだって言ってくれるけど、取材が終わったらどうせ都会に帰っちゃうんでしょ?」
 消太はジャバリゾートホテルのスキャンダルを暴くためにここに居る。仕事が終われば帰るべき場所へ帰っていく。そんなの分かり切っていたことなのに――消太がこの町を去る日のことを考えるだけで心が壊れてしまいそうだ。
「もうしばらくは世話になりそうだ」
 もうしばらくと言わず、ずっとここに居て。生憎、そう伝えられる勇気は持ち合わせてない。



「――なんか久しぶりだね」
「そうか?」
 昼下がりの観光案内所に、缶コーヒーを持った消太が現れた。いつも通り髪はぼさぼさで、顎にはもう髭が生えている。ラウンジに潜入した時の、身なりを整えた姿は確かに格好良かったけれど、こっちのほうが消太らしくていい。
「パイプ椅子でいい?」
「俺は別に」
「いいよ。座って」
 私はカウンターの前にパイプ椅子を置いた。ここがお洒落なカフェでなくとも、消太と向かい合って一服できるだけで幸せだ。
「仕事にありつけた」
「え、ジャバさんで?」
 彼は頷いて、プシュ、と缶を開けた。
「清掃かボーイを希望したんだが、人手不足の厨房に回されちまった」
「厨房か……VIPルームはちょっと遠いね」
「いや、VIP一本に絞るのはやめた。もう少しホテル内を探ってみる」
「なるほど。じゃあ厨房ならいろんな人が出入りしそうだし、かえってラッキーだったね」
「すぐに乱交パーティーの関係者と接触できるといいんだが」
「え、待って。ってことは、乱交パーティーに参加するつもりなの?」
「まぁ、現場はきっちり押さえねぇと」
「そっか……そうだよね。特大スクープだもんね……」
 私は缶のタブを引いて、コーヒーを喉に流し込んだ。
 クスリ漬けになったホテル従業員達による乱交パーティー。証拠写真を撮ることができたら、センセーショナルな記事が出せるだろう。
 でも、乱交には参加してほしくない。たとえ仕事とはいえ消太が女の人とラブホテルに入ってそういう≠アとをするなんて、想像するのも嫌だ。
「なんだ。嫌なのか」
 感情が顔に出てしまっていたのだろうか。消太は私の顔を見つめながら、にやりと口角を上げた。
「別に」
「俺がプレイに参加するとは言ってないぞ」
 揶揄われているみたいだった。
 多分、彼は気付いているのだ。私の中で、炎のようにぱちぱちと燃えているものの存在に。

「聞いてないけど」
「そうか。聞かれてなかったか」
 消太は鼻で笑うように呟いて、缶コーヒーを飲み干した。
「ところで、今晩空いてるか?」
「今晩?」
 今日の夜はだめだ。おじさんとの約束がある。
 NOと即答したくはなくて、カレンダーを確認するふりをした。日付に丸がついている。やっぱり、だめだ。
「ごめん。今日は予定が」
「残念だな」
「協力できなくてごめんね」
「……いや違うよ」
「え?」
「仕事じゃない。ただ俺が渚と一緒に居たいだけだ」
 さらりと、「今日は暑いな」とひとり言ちるようなトーンで放たれた一言。それは一瞬のうちに私から声を奪った。

 俺が渚と一緒に居たいだけだ。

 聞き間違いではない。彼は確かにそう言った。私と一緒に居たいと。仕事への協力要請ではなく、ただ一緒に居たいだけなのだと。
 うれしいはずなのに声が出ない。何も反応が出来なくて黙り込んでいると――自動ドアが開いた。現れたのはおじさんだった。重そうな買い物袋を手にぶら下げている。
「ああ、田中君。いらっしゃい」
 どうも、と消太は一礼する。
「やっぱり釣りはしないのか?」
「えぇ。向いてないみたいで」
「一度ぐらいは本気で挑戦してみなよ。アジと一緒にいいアイディアが釣れるかもしれないよ?」
 おじさんは片手で釣り竿を振る真似をして、にこりと笑った。そして今度は私と向き合って、
「今晩、よろしくね」
買い物袋いっぱいのスポーツドリンクをカウンターに置いた。
「差し入れ。冷やしときなよ」
「はあい」
「じゃ、お二人さん。ごゆっくり」
 おじさんが出て行った後、消太は首を傾げた。
「……アイディア?」
「あ、消太のことは小説家って言ってあるの。歴史小説専門の」
「歴史……小説」
「なかなかいいチョイスじゃない? 流石に青春ものとか恋愛もの書いてるようには見えないし」
「待て。小説家にだって見えねえだろ」
「見える見える。ライターも小説家も同じ物書きだし」
「お前なぁ、」
「だって取材のことは黙ってて欲しいでしょ?」
「それは、そうだが……そもそもあの人と俺の話をするのか」
「するよ。おじさん、色々うるさいし」
「話の脈絡が分からん」
「おじさんは私を娘みたいに思ってくれてるから。私に対してはちょっと過保護、っていうか……まぁ私も態度に出しちゃうから悪いんだけど」
「だから何だ」
「……どうせ分かってるくせに」
 私は恥ずかしくなって、消太の顔を見ていられなくなって、おじさんからの差し入れを持ってカウンターから離れた。
 冷蔵庫の扉を開けて、スポーツドリンクを並べ、扉を閉める。五秒もあれば済むはずの単純な動作に、何倍もの時間を費やす。
「明日の夜は空いてるか?」
 カウンターのほうから声が飛んできた。
 答えはYESだ。でも、即答はしたくない。
 もう一度消太の顔と向き合う前に、熱を帯びている身体を冷まさないと。燃え立っているものを静めないと。私は冷蔵庫の中の冷たい空気を、鼻から思いきり吸い込んだ。


back



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -