そしてすべてがとけていく | ナノ


触れられざるもの

 無地のシャツと、軽い素材のスラックスを身に纏う。足元は履きなれていない革靴。どれも予め用意していた、高級リゾートホテル潜入用の『装備』だ。「ラウンジに行くんだから小奇麗にしないと」と念入りに化粧直しをする彼女に倣い、髪を結って髭を剃った。
「ねえ……」
「なんだ」
「普段からそういう感じにすればいいのに。別人みたいだよ」
「ご生憎。別人になりたいなんて思ったことはない」
「そう言わずにさ、鏡見てみなよ」
 ほら、と手招きをする彼女の隣に渋々並んだ。
 小奇麗かどうかはさておき、俺らしくない俺が映っていた。ラウンジでも変に浮いたりはしないだろう。彼女と肩を並べると、カップルに見え……なくはない。
 ヤシの木柄のワンピース(つい先程ホテル併設のアウトレットショップで買ったものだ)に身を包んだ彼女は、彼女の言葉を借りるならば、まるで別人だった。観光案内所でもホテルの朝食会場でもTシャツにパンツというラフな装いだったせいか、着飾った彼女は普段よりもうんと大人びて見える。そういえば、彼女はいったいいくつなんだ。
「ね? こっちのほうが絶対いいって」
 鏡の中の、愛嬌したたる笑顔と目が合った。薄いピンク色に染まった、艶のある唇はすばしっこい子供のようによく動く。
「うーん。田中さんがシックな感じなら、私も無地にすればよかったなぁ」
「そもそも何故そんな柄にしたんだ」
「だってリゾートホテルだし……って思ったんだけど、ちょっと失敗。私ひとりで浮かれてるみたい」
「それは事実だろ」
「……田中さんって結構キツイこと言うよね」
 今度はツンと唇を尖らせて、彼女は言った。
「ひとりで浮かれてる彼女と無理矢理連れてこられた彼氏、って感じか。まぁでも、ちゃんとカップルには見えるかな」
 カップルに見えるという点については全くもって同意だ。俺は小さく頷いた。
「ラウンジでもそれっぽく振る舞ってね」
「それっぽくって、例えば」
「んー。親しげに話す、とか? まず呼び方変えようよ。カップルなのに苗字にさん付けってよそよそしくない?」
「好きにしてくれ」
「じゃあ消太……くん? 消太さん? どっちがいい?」
 初めて、本当の名を呼ばれた。ただそれだけのことなのにシャツの下がむず痒くなる。
「消太でいい」
「分かった。消太ね。あ、カップルのふりとはいえ手繋ぐとかそういうボディタッチ系はナシでお願いします」
「……当たり前だ」
「他に何か決めておくことはある?」
「特にはないな。俺は俺のやり方で取材を進める。お前は浮かれた女らしく、ラウンジを楽しんでくれ」
「ねぇ。その言い方」
 憎まれ口を叩きたいわけではないのに。ガキのような物言いには自分でも呆れてしまう。
 ――どうも調子が狂うな。
「とにかくホテルの従業員に怪しまれたくはない」
「分かってます」
「ヘマはするなよ」
 これは彼女に対してというよりは、俺自身に向けて。仕事に集中しろと警鐘を鳴らした。


 このお席は特に、女性のお客様にご好評をいただいております。
 情報番組のアナウンサーのように語るウェイターに、窓際のカウンターテーブルへと案内された。船のライトが点々と浮かぶ海と、その向こうの街の明かりが見渡せる。確かに眺めは良いし、デートには打って付けだろうが、俺にとってはいい迷惑だ。窓の外を向いていたらラウンジの中が見られない。
「どうする? 席移動する?」
「いや……とりあえずはここでいい」
「そう。じゃあとりあえず、乾杯」
 カチンとグラスを鳴らして乾杯をする。お任せのカクテルを二杯、俺のものはノンアルコールでオーダーした。仮にも任務中だ。酒なんて飲んでいられない。
「――ねえ、消太。芸能人きた」
 彼女が目配せをした。若い女がひとり、ウェイターに連れられてラウンジ内を横切っていく。必要以上に肌を露出させている、派手な見た目の女が。
 二人は一体どこへ向かうのか。見届けたいが、振り返ってまじまじと観察するわけにもいかない。――仕方ない。俺は「すまない」と断りを入れて、彼女の椅子の座面に手を付いた。こそこそと耳打ちをするかのように、彼女の耳元に顔を寄せる。これで少しはラウンジ内の様子が窺える。
「見える?」
「あぁ。あの女、有名なのか?」
「え、知らないの? この前まで連ドラ出てたよ」
「知らんな。興味ない」
 ウェイターと女は『TOILET』と表示された扉に入っていった。ただ手洗いを案内するだけならば、ウェイターまで中へ入る必要はないのに。
 そこ、だな。
 予想通り、戻って来たのはウェイターだけだった。本当に用を足しているのかもしれないと監視を続けたが、待てど暮らせど女は現れない。女が消えてからしばらくすると、今度は恰幅の良い中年の男が扉の中へ入っていった。勿論、この男もラウンジには戻って来なかった。
「どんな感じ?」
「VIPルームは多分トイレの中だ」
「トイレ?」
「あぁ。恐らくは」
 そう囁いた瞬間、ふと誰かの視線を感じた。ウェイターなのか、或は他の客かは分からないが――確かに見られている。俺は咄嗟に彼女の肩を抱いた。違法薬物の取引現場を探ろうとなんてしていない、恋人とのデートの真っ最中なんだと訴えるように。
「消太……あの……」
 彼女の肩には力が入っている。
「悪い。誰かに見られている気がした」
 力を抜けと訴えるように、彼女の肩をとんとんと叩いた。
 パウダーか何かを塗ってきたのだろう。彼女の肌はさらさらとした手触りだった。
「バレたってこと?」
「そんなはずはないが……少し我慢できるか?」
「……分かった」
 消え入りそうな声で返事をした彼女は、カクテルをごくごくと飲み下し、あっという間にグラスを空けた。
「いい飲みっぷりだな」
「だって緊張しちゃって」
 俺は彼女の肩を抱いたまま、ノンアルコールカクテルという名のジュースに手を付けた。……甘い。ジュースなんて滅多に口にしないせいか、飲めば飲むほど口の中が渇いて不快だった。
 俺のグラスも空になると、ウェイターに二杯目を注文して席を立った。

 『TOILET』の扉の向こうには、更に扉が三つ。『MEN』と『WOMEN』、そして一番右端には『PRIVATE』が並んでいる。
 明らかに怪しい。だが……どうも引っ掛かる。
 俺はその場で立ち止まり、少しの間考えた。そして最終的に手を伸ばしたのは――『MEN』のドアノブ。個室で用を足し、パウダーが付着した手を綺麗に洗い、彼女が待つテーブルへと戻った。俺のグラスには並々のジュースが注がれているが、彼女のものは既に空だった。
「もう飲んだのか」
「うん。三杯目頼んじゃった。ごめん、お金は自分で払うから」
「金なんて気にするな」
「太っ腹だね」
「俺の金じゃない。だがお前は飲み過ぎるなよ」
 そう言うと、タイミングを見計らったかのようにウェイターがドリンクを持って来た。モヒートだろうか。透明な液体にミントの葉が浮いている。
「どうだった?」
「それらしい部屋は確認したが……」
「なに?」
「俺がホテル側の人間ならVIP客をわざわざトイレの横まで歩かせたりしない。建物の構造上そこにしか部屋を作れなかったとしても、そんな場所で危ない取引はしない」
「どうして?」
「宿泊客にクスリを売るだけならルームサービスで事足りる。こんなところまで足を運ばせるメリットはない」
「あー、確かに。消太の言う通りかも」
 俺は再び彼女の椅子に手を置いて、状況を整理した。

 派手な女も中年の男も、金を持っていそうな身なりだった。二人はまだ『PRIVATE』の中に居ると見てほぼ間違いないだろう。ただ、分かっているのはそれだけだ。ここは違法薬物の取引現場としてはあまりにも都合が悪い。
 ジャバリゾートホテルの母体は総合商社だ。自社の物流ルートで違法薬物を輸入し、ホテルの宿泊客に高額で売り捌いている。従業員達はそのおこぼれにあずかり、クスリ漬けの乱交パーティーを開催している。そんなストーリーを立てていたが、見込みが甘かったのかもしれない。俺はきっと何か大切なことを見落としている。……いったい何を?

「ねぇ消太、もう一杯飲んでもいい?」
 妙に甘えた声だった。俺は考察を一旦止め、隣を振り返る。
 彼女の肌の、ワンピースに隠れていないあらゆるところが赤く染まっていた。顔も、首筋も、胸元も、腕も。
「お前、酒弱いのか!?」
「んー」
「部屋に戻れ。飲み過ぎだ」
 すっかり目が据わっている彼女は、窓の外をじっと見つめて動かない。
「聞いてるのか」
「家に帰る」
「馬鹿言え。そんな状態で帰れるわけないだろ」
「帰れる。足引っ張りたくないもん」
「俺はもう少しだけここを調べる。部屋に戻って酔いを醒ましておいてくれ。後で家まで送る」
「やだ。送ってくれなくていい。足引っ張りたくない」
「足を引っ張りたくないなら部屋に戻ってろ。……一人で戻れるか?」
 こくりと頷いた彼女は、「ごめんなさい」と言い残して、千鳥足でラウンジから去っていった。
 なにやってんだ。そう、誰にも聞こえぬように呟く。
 彼女の好意に甘えてしまったが――そもそも任務に一般人を巻き込むべきじゃなかったし、(彼女が勝手に飲み過ぎたとはいえ)あんな状態になる前に気付いて止めてやるべきだった。
「お連れ様は大丈夫ですか?」
 空のグラスを下げに来たウェイターには、「大丈夫です。ちょっと喧嘩しまして」と苦笑いをしてみせた。酔った恋人を一人で歩かせるような、薄情な男ともで思われているのだろう。
「大丈夫……か?」
 部屋まで戻れただろうか。エレベーターや廊下で倒れていないだろうか。任務のためにこの場に残ったはずなのに、頭の中は彼女でいっぱいだった。一千万円や違法薬物が入り込む隙間なんて、どこにもない。



 部屋の扉を開けた瞬間、冷気が頬をかすめ、廊下に逃げて行った。寒い。これはいったいどういうことだ。真夏だというのに寒すぎる。
 エアコンの設定温度は十八度、風量は強風。だが体感温度はもっと低く、ここが冷蔵庫の中だと言われたら頷けてしまう。シャツの下まで鳥肌が立ってしまうほどキンキンに冷えた室内で、彼女は眠っていた。ベッドに仰向けになり、まるで死んでいるかのように、静かに。
「おい。大丈夫か」
 急性アルコール中毒になっていないか。吐しゃ物が喉に詰まっていないか。無事なのか。
 彼女の身体を横向けようとした、まさにその瞬間。腕が勢いよく飛んできた。俺は反射的に『抹消』を発動して、彼女の手首を掴んだ。
「触らないで」
 泣きそうなのか、はたまた既に泣いているのか。彼女は自身の二の腕で目元を隠し、まるで懇願するかのように言った。俺はすかさず手首を放して個性を解除する。
「すまない」
「私こそごめん……でも、触られたくなくて」
 触られたくない。そう言われて、こめかみを殴られたかのような衝撃に襲われる。
 なんだ、これは。
 俺はもう一つのベッドに腰掛けて、太腿の上に肘をついた。本当に殴られたわけではないのに頭がふらついている。
「悪かった」
「あ……違うの。消太だから嫌、ってことじゃなくて……」
 彼女はのそりと起き上がり、深く、長く息を吐いた。
「私の汗に触ったら皮膚が溶けちゃうから」
「……そういう個性か」
「うん。先に言っておけば良かったね」
「だからこんなにもエアコンを」
 彼女は頷いた。
「昔、友達を怪我させちゃったことがあって。勿論悪気は無かったんだけど、結局その子は私から離れて行っちゃって……それ以来誰かに肌を触られるのが怖いんだよね」

 ――カップルのふりとはいえ手繋ぐとかそういうボディタッチ系はナシでお願いします。

 ラウンジへ向かう前の、彼女の言葉を思い出す。そしてラウンジで俺が取った行動も。
 知らなかったとはいえ彼女に近付き過ぎた。肌に触れられることを恐れている彼女に、断りもなく触れてしまった。
「本当にすまなかった」
「いいって。消太が怪我しなくて何より」
「汗だけなのか?」
「勝手に出ちゃうのはね。出そうと思えば自分でも出せるよ」
「便利だな」
「そう? 私はこんな個性要らないけど」
「使い道は色々とあるだろ。似たような個性のヒーローだって居る」
「ヒーローかぁ」
 ぼそりと放たれたその一言にどんな感情が込められているのか、俺には分からなかった。
「個性の使い道とかそんなことよりも、個性を気にせずに生きていきたいな……って、さっきラウンジでもずっと考えてた。で、考えてるうちに飲み過ぎちゃってました」
 自分の未熟さを、視野の狭さを思い知らされる。俺が任務にばかり気を取られていた間、彼女はじっと耐えていたのだ。俺の足を引っ張らぬようにと。
 ……でも、俺の為に、どうしてそこまで?
「悪かった」
「もういいよ」
「だが、」
「もういいって。それに正直ちょっとだけうれしかったし」
「うれしい?」
「うん。だって、肌に触られたの久しぶりだったから」
 彼女は胸の前で腕を交差させ、両肩を抱き、俺が触れたところを摩った。
「でも……なんだか寂しくなっちゃった。だからうれしかったけど、やっぱり触られたくなかったな」
 触れられたくなかったと言う彼女に、触れたくなった。パウダーに包まれた、汗なんて微塵も滲んでいない肌に。
 そんな衝動を誤魔化そうと、頬に爪を立てて痛みを生じさせた。肉をえぐるように皮膚を引っ掻いていく。指の腹は俺自身の、なだらかとは言い難い肌に触れている。俺の肌はざらざらで、彼女のものはさらさら。似ても似つかない。
「あー、恥ずかしくなってきた。なに言ってんだろ。帰るね」
 ベッドから下り、部屋から出て行こうとする彼女を
「渚」
俺は思わず呼び止めた。初めて、彼女の名を呼んだ。
「本当に帰るのか?」
 ここに居てもいいぞ、と言いかけて口を噤む。何を馬鹿なことを。ここに居て欲しいと思っているのは……俺じゃないか。
「明日も仕事だから」
「そうだったな」
「じゃあね。おやすみ」
「待て。家まで送る」
「いいよ。自分で帰れる」
 逃げるように部屋から去っていった彼女を、引き留めることも、追いかけることもしなかった。時間は有限。ホテルの内部を調べるなら今晩は絶好の機会だ。彼女を引き留めるべきではないし――たとえ俺が望んでも、彼女がここに残ってくれるとは限らない。
 彼女が寝転がっていたところの、ぐしゃりと乱れたシーツを眺めながら思う。ツインルームは一人で過ごすには広すぎる。


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