そしてすべてがとけていく | ナノ


知らない香りの風

 午前八時三十分。そろそろだ。
 窓際の席が空いていることを確認する。五分前に拭いたばかりのテーブルに埃や汚れが付いていないかも。
 よし、大丈夫。そう胸の中で唱えて入口を振り返ると、廊下の向こうから黒のウェーブヘアが近付いてくるのが見えた。

 今日は田中さんが――田中消太がこの町にやってきてから五度目の朝だ。
 最初の朝はコーヒーのみ。翌日には味噌汁、その翌日には白米と、彼のテーブル上に並ぶ食事は少しずつ増えていった。今日はとうとうアジの塩焼きをトレーに乗せている。
「田中さん、おはようございます」
「おはようございます」
「今日はアジですか」
「はい。昨日みちしおで食べたのが美味かったので」
「昨日も行かれたんだ。えー、私も行けばよかったな」
 『みちしお食堂』はこの町ナンバーワンの、そしてオンリーワンの居酒屋だ。観光客にとっては唯一の料理屋で、私達住人にとっては憩いの場。
「今度行かれるときは誘ってくださいよ。メニューに載ってないのも食べてほしいし」
「是非」
「絶対、ですよ?」
 田中さんとどうにかなろうなんて微塵も思っていない――と言えばになる。私は確かに、田中消太という男に興味がある。どこにでも居そうなのに、私が生きてきた二十数年にはどこにも居なかった。特段ルックスが良いわけではないし、いつも猫背で怠そうで、愛想だって人並み以下なのに、どういうわけか田中さんが気になって仕方ない。
 しかし、彼が特別だと感じるのはきっと、私が活気も娯楽も出会いの場もないつまらない町に住んでいるからだ。他にたいして考えることがないせいか、私は毎日、ふと気が付けば彼のことを考えている。今何しているんだろうな、とか。仕事じゃなかったらこんなところへ来たくなかっただろうな、とか。
「お仕事は順調ですか?」
「順調そうに見えますか?」
「んー。全然」
 田中さんは小さな出版社でライターをしているらしい。
 ただし「仕事に支障をきたすから」と箝口令が敷かれたため、この町で彼の素性を知っているのは私だけだ。どんな記事を書いているのかは教えてくれなかったけど(こっそり彼の名をネットで検索したが何もヒットしなかった)、言動から推測するに、彼は今ジャバリゾートホテルについて調べているようだ。
 リゾートホテルのスキャンダルが明るみになれば、この半島の知名度は一気に上がる。私達の町が何かしらの恩恵を受けるかもしれない。とすると、彼は私達の敵じゃない。むしろチャンスなのかもしれない。
「私にできることがあれば協力しますよ」
 私は彼のグラスにお冷を注ぎながら、声をひそめて言った。
 ――警戒、されたらしい。彼は怪訝そうな顔で私を見上げた。
「土地勘はあります。それに地元民しか知らないこともあるんですよ」
「……例えば?」
「例えば……あそこの料理長は隣町の市場に行けば簡単に会えます」
 窓の向こう、半島の先端に目を遣る。田中さんはふっと鼻で笑うように息を吐いた。
「知ってる」
「そうですか。じゃあ、あそこの従業員がX市のラブホで乱交パーティーしてるのは?」
 はあ、と今度は溜息を漏らして、彼は私から目を逸らした。
 やってしまった。
 求められたわけでもないのに、踏み込み過ぎてしまった。
「……ごめんなさい。忘れてください」
 胸の中で何かがぎゅっと締め付けられた。ほんの少しだけ息が苦しい。
 私は小さく会釈をして、田中さんに背を向ける。一歩、踏み出そうとしたまさにその瞬間、「待ってくれ」と彼は私を制した。
「協力してほしい」


 客としてホテルに宿泊する。俺のようなナリの男が一人きりでは不自然だから、カップルのデートというていで行きたい。あんたは俺と一緒に部屋に入ってくれさえすればいい。このことは他言無用で頼む。


 そんな依頼を引き受けた私は、田中さんと共にジャバリゾートホテルで最もグレードが低いツインルームにチェックインをした。
「これが一番安い部屋か……すごいなぁ。うちのホテルだったらスイートルームだ」
「スイートルームなんてあったか?」
「ないですけど」
 全室オーシャンビュー。内装や家具は海外のデザイナーが制作した特注品。アメニティは都会の百貨店に売っているような有名なコスメブランド。悔しいけど、私達のホテルじゃあ勝てっこない。
 昨日までの私も含めて、町の人間は皆、ジャバリゾートホテルに貴重な観光客を奪われたと思い込んでいる。でも現実はそうじゃない。雲泥の差とはまさにこのことで、私達は同じ土俵にすら立てていない。
 窓の外、バルコニーの向こうに広がる海はまるで、私達の町から見えるそれとは全く別の何かだった。
「……海、ってこんなにもきれいなんだ」
「毎日見てるんじゃないのか」
「そうだけど、私の町からは濁って見えるから」
「おかしなことを言うな。同じ海だろ」
 田中さんは館内マップに目を落としたまま、ぼそぼそと言った。
 同じ海かもしれないけど、景色は違うんだよ。
 なんて彼にぼやいても仕方ない。ただ、彼がこの場に居てくれてよかったと思う。もし今この瞬間にひとりぼっちだったら私はきっと泣いていた。
「部屋は好きに使ってくれ」
「え?」
「俺は向こうのホテルへ戻る」
「いやいやおかしいでしょ。田中さんの会社のお金なのに」
「この部屋、気に入ってるんだろ? 報酬の代わりだと思ってくれたらいい」
「報酬なんていいんです。好きで協力してるし。それに明日の朝もホテルのシフト入ってるから帰らないと」
「そうか。だったらせめて飯ぐらい奢らせてくれ」
 これは協力に対するお礼だ。それ以上でも以下でもないことは理解できるが――私の胸には喜びが通った。

 シーフードのアヒージョ、鮮魚のマリネ、貝柱のフリッター、フィッシュバーガー。食後のデザート代わりに、海のように真っ青なクリームソーダ。みちしお食堂のお品書きには載っていない、横文字だらけのメニューに舌鼓を打つ。
 リゾートホテルの高級レストランでご馳走になるのは申し訳なくて、私達は近くのカフェに入った。内装もメニューも今風で、若者がSNSに載せたくなるような素敵な店。海を一望できるテラス席で、潮風にあたりながら食事を楽しむことができる。私達の町にもこんな場所があったらいいのにと呟くと、田中さんは「俺はみちしおのほうがいい」とフォローしてくれた。
「そう言ってもらえるのは地元民としてうれしいけど……なめろうとか煮付けとかフライとか、全然SNS映えしないしなぁ」
「味が良けりゃいいだろ」
「アジだけに?」
「……帰るぞ」
「待って、まだクリームソーダ残ってる」
「会計は済ませておく。俺は先に戻る」
「あ、田中さんまだお腹いける? 私エッグタルトも食べたい。半分こしよ」
「……好きにしろ」
 彼は伝票に伸ばしかけた手を引っ込めて、胸のあたりで腕を組んだ。
 正直に言えば胃袋はパンク寸前だ。クリームソーダだってまだグラスの半分は残っている。でも、もう少しだけこの空間の中に居たい。素敵なカフェで、心地よい風を浴びながら、気になっている人と過ごす時間の中に。
 半分に切ったエッグタルトをちまちまと食べ進めながら、私達は田中さんの仕事の話をした。

 彼が追いかけているのは、ジャバリゾートホテルの裏の顔。違法薬物の取引現場になっているという噂だ(正直、そんな噂があったなんて知らなかった)。私が耳打ちした「ホテルの従業員がX市のラブホで乱交パーティーを行っている」の情報で、違法薬物の存在を確信したらしい。
「でも、乱交パーティーイコール違法薬物なの?」
「ラリってないと乱交なんてしないだろ」
「そうなの? 私は乱交したことないから分かんないな」
「俺だってしたことない」
 田中さんが複数の女を侍らせている様を想像してしまって、思わず噴き出した。これじゃあ乱交というよりはハーレムだ。
「なんだ」
「なんでもない」
 私の頭の中が見えたのだろうか。彼はむすっとしてしまった。
「……ゴメンナサイ。続けて」
「因みに乱交パーティーが行われてるのは確かなのか?」
「うん。うちのホテルのパートさんがそこのラブホでも働いてて、数か月に一回……ぐらいだったかな、一番広い部屋に大人数で入るんだって。部屋の清掃が大変だっていつも文句言ってる」
「大変って、例えば」
「そこまでは知らないけど……あー、薬のゴミとかが散乱してるかもってこと?」
「可能性はゼロじゃない」
「だよね。今度パートさんに聞いてみようか?」
「そうだな……次回乱交が開催された時でいい。ただし、」
「大丈夫。田中さんの仕事がバレないように、さりげなーく聞くから」
「すまない。助かる」
 彼のアシスタントにでもなった気分だ。私はただ取材の協力をしているだけなのに、妙に弾んだ気持ちを覚えてしまうのはどうしてだろう。
「ジャバの内部に知り合いが居たらなぁ」
「だから俺が入り込もうと思ってる」
「それで今回下見に来たんだ」
「時間は無駄にしたくない。目標地点を事前に定めておいたほうが合理的だろ」
「ってことは、取引現場の目星はついてるの?」
 田中さんはジャバリゾートホテルの建物を見上げた。
「ラウンジ」
「最上階の?」
「そうだ。ラウンジ自体は席料さえ払えば誰でも利用できるみたいだが、その奥にはVIPルームがあるらしい。会員限定の」
「会員限定かぁ。確かに怪しいけど、初めて宿泊した人間がVIPに入るのは流石に難しそう」
「分かってる」
「うーん……でもラウンジまでは入れるし、田中さん一人よりも私が居た方が自然じゃない? ほら、カップルならラウンジでデートするでしょ」
 ラウンジに行くならもう少しちゃんとした服装で来ればよかった。なんてことを考え始めた私は、不意に、田中さんが私の顔をまじまじと見つめていることに気付いた。
「随分と楽しそうだな」
「バレた?」
「これは遊びじゃない。仕事だぞ」
「分かってます」
 エッグタルトの最後のひと欠片を口の中に放り込んだ。太陽はとっくに沈んでいる。ラウンジへ向かうなら早いほうがいい。
「足は引っ張らないでくれよ」
 海風が田中さんの髪を揺らす。潮の香に混じって、何かが私の鼻をかすめた。知らない香りの風だった。生温かくて、いい匂いがする。
 田中さんの香り……なのかな。
 そう思った途端に恥ずかしくなって、私は慌てて残りのクリームソーダを全て吸い上げた。しかし炭酸の抜けた液体はただ甘ったるいだけで、喉はますます渇くばかりだった。


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