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消えた一千万円の行方


『XX町観光案内所』

 お世辞にも立派や綺麗とは形容し難い、まさにこの町の財政難を具現化している建物と向き合う。観光案内所と銘打っているが、いったいどれほどの観光客がここを訪れるというのだろうか。両隣の店舗も、その隣も、さらに隣までシャッターは閉まっている。
 俺はもう一度、ヒーローネットワークから届いた『情報』を頭の中で復唱する。バブルの時代には観光地だった、とある半島に在る海辺の町。バブルが弾けると活気は衰え、半島の先端に複合型リゾートホテルがオープンしてから町はすっかり寂れている。唯一集客力のある――と言っても高が知れているが――アトラクションは海上釣り堀で、料金は一日一万二千円。受付や道具の貸し出し窓口は観光案内所内にある。
「釣り……か」
 釣り客には見えないだろうな。
 自動ドアのガラスに映りこむ自分自身と目が合った。せめて服装だけでもそれらしくするべきだった、と後悔しても遅い。自動ドアは既に開き始めている。
「こんにちは」
「どうも」
 カウンターの向こうで係員らしき女性が立ち上がった。
 建物の中は、端的に言うならばがらんとしていた。俺を待ち受けていたのは『受付』の看板を掲げるカウンターと古びたベンチのみ。観光案内所らしいと言えば、壁に貼られた『アジのシーズン到来!』『ホテル宿泊者は二〇〇〇円オフ!』といった手書きのポスターぐらいだ。
「釣り堀ですね?」
 年齢は二十そこそこ……だろうか。少なくとも俺よりは若そうな係員の女性は声を弾ませる。客が来たことが余程うれしいのだろうか。
「はい。道具も借りられますか」
「大丈夫ですよ。何が必要ですか?」
「何も持っていません。必要なものを一式」
「分かりました。お待ちくださいね」
 彼女は喋りを続けながら、カウンターの向こうでいそいそと準備をした。
「釣りはよくされるんですか?」
「いえ。初めてです」
「初めて? へぇ、珍しいですね。初めての釣りでこんなところまで」
「どういう意味ですか?」
「だってこの町、何もないでしょ?」
 だからリゾートホテルに勝てなかったんだな。
 嘲笑うように話す彼女を見つめて、俺はそんなことを思った。仮にも観光客の窓口である彼女がこんなにも堂々と白旗を振っている。これじゃあリゾートホテルに客を奪われても仕方ないだろう。
「釣り以外には何があるんですか?」
「え? このあたりに、ですか?」
「はい」
「だから何もないですよ」
「って観光案内所の方が言うべきじゃないと思いますけど」
「厳しいですね。えーっと、じゃあ……何だろう。海の幸は何を食べても美味しいですけど、今もちゃんと営業してるお店は一軒しかないし……ここはもう観光地じゃないからなあ」
「自虐的ですね」
「本当のことですもん。お客さんもご存じでしょ? ジャバさんに全部持っていかれちゃって」
 『ジャバさん』と言った彼女の声には、明らかな嫌悪が乗っていた。
 半島の先端に一昨年オープンした複合型リゾートホテル。大手総合商社が母体の、ジャバリゾートホテル・はまべの丘。今回の任務の目的地だ。
「――お待たせしました。こちらが竿と、クーラーボックスの中には餌と必要な道具を入れてあります。現地に係員が居ますので、後はそちらでご説明します。行き方は分かりますか?」
「海に向かっていけばいいんですよね?」
「はい」
 俺は道具を受け取り、提携ホテル宿泊者割引価格の一万円を支払った。この価格が高いのか安いのかは分からない。どうせ俺の懐は痛まないのだから割引を辞退すればよかった――と、柄にもなく同情してしまった。カレンダーに彼女が書き込んだ『正』の字の一角目から察するに、俺は本日一人目の客だ。カレンダーによると昨日は五名、一昨日はたったの三名。儲かっていないどころか赤字経営だろうな。
「一日どれくらいのお客が?」
「んー。今日みたいな平日は五人ぐらいです。学校の夏休みに入るともう少し増えますけど」
「五人、ですか」
「はい。だから初心者でも沢山釣れますよ。なんてったってお客さんより魚の方が多いし」
「そりゃ楽しみだ」
 心にもないことを口にしている。『適当に』嘘を吐くことも仕事の一環だと認識しているし、普段ならばどうってことないはずなのに、今日はいささか申し訳ない気持ちになった。きっと彼女の、屈託のない笑顔のせいだ。
「釣れた魚はホテルや地元の居酒屋で調理できますので、ご希望でしたら係員にお伝えください」
「ありがとうございます。今は何が美味いんですか」
「やっぱりアジかな。旬ですから」
 熱々のアジフライを想像するだけで舌の上に涎が溜まったが、俺の晩飯にアジフライが並ぶことはないだろう。俺が追いかけてきたのは旬のアジではない。この半島のどこかで忽然と姿を消した一千万円だ。

 違法薬物の密売、投資詐欺、売春斡旋――とある凶悪犯罪グループの中心人物と見られる男を逮捕すべく、警察は捜査を進めている。
 ホシが一千万円の入った旅行バックと共にこの半島を訪れたのは、ほんの数日前のこと。午前中は海上釣り堀で過ごし、昼過ぎにジャバリゾートホテルにチェックイン。ホテルには所謂『プロの女』を呼んで一泊した。そして翌朝、手荷物を何一つ持たずに「東京へ向かってくれ」とホテルからタクシーに乗り込んだ。
 何の証拠も情報もないが、警察は消えた一千万円に何らかの犯罪が絡んでいると見込んでいる。そこで秘密裏に情報を集めつつ、万が一の事態にも対応できる人物が現地へ送られることになった。広く顔を知られておらず、フレキシブルに動け、一人でも戦えるヒーローが。
 そんなわけで俺に白羽の矢が立った。俺の任務はホシの足取りを辿り、どんな些細な情報も漏れなく掴むこと。呑気にアジなんて釣っている暇はない。


「――あれ、昨日の」
 宿泊先ホテルの朝食会場にて。窓際のテーブルに着いた途端、隣から声をかけられた。
 昨日は観光案内所の受付だった、あの女性だ。今日は海のように青いエプロンをして、テーブルに残された食器を片付けている。ここでも働いているのか。
「どうでした? 釣れました?」
 俺は肩をすくめるふりをした。
「え、坊主ですか!? うちの釣り堀で?」
「残念ながら。センスがないみたいで」
 無論、釣りを楽しむつもりなんて毛頭なかった。俺は釣り堀に腰掛け、半島の最先端を――ジャバリゾートホテルを眺めながら、どんなふうに潜入しようかと策を練っていただけだ。
「折角ならアジを食べて欲しかったです」
「同じことを係員の方にも言われましたし、美味いアジが食べられる居酒屋を教えてもらいました。今晩行ってみようと思います」
「今日もお泊りで?」
「ええ。しばらくはこの辺りを回ろうかと」
「だから、この辺りは何もないですってば」
 彼女はまたしても笑いながら言う。もはや自虐なのだろうか。
「ジャバさんの近くまで行けばお洒落なカフェとか、小さいけど水族館とかありますよ。それにマリンスポーツもできます、バナナボートとか」
 俺が一人でお洒落なカフェや水族館に行ったり、マリンスポーツをしたりするような男に見えるのだろうか。バナナボートに跨っている自分を想像するだけで蕁麻疹が出そうだ。
「ジャバリゾートか。一度ぐらい行ってみようと思ってます」
「ウチと違ってそう何度も泊まれるようなお値段じゃないですよね」
「そうですね。自分の金では行こうと思いません」
「あ、ってことはお仕事か何かでいらっしゃってるの?」
 しまった。俺は太腿の上で拳を握る。
 ホシは釣り堀を訪れている。彼女が潔白であると決まったわけでもないのに、話し過ぎだ。もっと慎重になれと、自分を戒めるように太腿を叩いた。
「そんなところです」
 そろそろ去ってくれの意を込めて、俺はあえて低い声を出した。
 それと同時に厨房から、「渚ちゃん」と、誰かを呼ぶ声が飛んできた。「はあい」と歌うように返事をしたのは、俺の目の前の彼女だ。
「じゃあ、ごゆっくり」
「どうも」
「また気が向いたら釣りに来てくださいね」
 彼女の姿が厨房に消えていくのを見届けて、ようやく拳を解く。手のひらは汗で湿っていた。
「渚、か……」
 初めて顔と名前を覚えた、この半島の住人。もしも彼女が信用できる人間ならば、何らかの突破口になるかもしれない。恐らくホシと接触しているし、地元の人間しか知り得ない情報だってあるはずだ。適度に付き合っておいて損はないだろう。


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