ベイビーと呼ばないで | ナノ


好きになりたくなかったんだ


「――本当にごめんね、うちで会おうって私が言ったばっかりに」
 彼女を包み込むどんよりとした空気が、スピーカーを通してこちらにも漂ってくる。
「だーかーらーもう謝んな。そっちは巻き込まれた側ダロ?」
「発端は私でしょ。こんなことになるなんて……それにタイミングも最悪だし。申し訳ない」
 先程からずっとこの調子だ。謝るべきは俺なのに、彼女は繰り返し謝罪の弁を述べている。
「こんなの有名税のうちだって。悪いな、迷惑かけちまって」
「私こそ迷惑かけてごめんなさい。とりあえず私のところに記者が来ても何も言わないから」
「頼むよ。リスナーには俺の口から話したいんだ」
「うん。分かってる。私はひざしくんのそういうところ嫌いじゃないよ」
「サンキュー。なんかあったら連絡しろよ」
 通話を切ったのと同時に、重いものがどっしりと肩にのしかかった。背もたれに全体重を預けて、鼻から息を吐き出す。
 週刊誌に追われていると分かっていたらもっと上手くやれたはずだ。第六感の衰えは平和な世の中になった証拠か、或いは俺が歳を取ったせいか。
「ベイビー……」
 あいつはこの記事を読んでどう思ったのだろうか。泣いているのだろうか。ぐしゃぐしゃの泣き顔を思い浮かべながら、俺はもう一度スマートフォンに目を落とす。

『プレゼント・マイク 裏切りの二股愛!』
 書かれている内容は殆どがデタラメだった。
 ベイビーとホテルでセックスしたことと、その翌日に彼女の自宅マンションへ行ったことは事実だが、他は三流小説レベルの妄言ばかり。彼女とは付き合っているわけでも、同棲しているわけでもない。ラジオ関係者に手を出しまくっていないし、公開生放送を観に来てくれたリスナーをヤリ捨てした覚えもない。それからベイビーは浮気相手なんかじゃない。
『人気ヒーローの夜の顔はヴィランにも匹敵するバッドボーイ≠ネのかもしれない――』
 なにがバッドボーイだ。面白くもなんともない。キャッチーなフレーズを残したいならせめて韻ぐらい踏んでくれ。

「あ゛あ゛あ゛あ゛サイアク」
 ここがタクシーの中でよかった。さもなければこのむしゃくしゃを全部声に乗せてシャウトしていただろう。出版社をビルごと吹っ飛ばしていたかもしれない。
「有名人は大変ですねえ」
 バックミラーの中の運転手と目が合った。例の二股愛について聞かせてくれと顔に書いてあるが、こんなところで話すつもりは毛ほどもない。
「こんなもんっすよ」
 俺は素っ気なく返事をすると、WEBのブラウザを落として無料通話アプリを立ち上げた。
 ありとあらゆる知り合いからメッセージが届いている。ラジオ関係者、ヒーロー、雄英の教員達(相澤まで連絡を寄越してくるなんて意外だった)。俺はそれらのメッセージにプレゼント・マイクの公式スタンプを返信し続けた。若い頃の俺がYEEAAHHHHとシャウトしているものを。
 そんな流れ作業を続けていると――あるメッセージが目に留まった。トークルームの名前は『HERO FM 重岡』だ。
『ちゃんとしてください。あいつ泣いてますよ』
 気が付けば俺は通話ボタンを押していた。
「よお」
「なんなんですかアレ」
 話を始めるや否や重岡は尖った声を出した。こんなふうに怒りを露にする彼は初めてだ。
「アレなァ〜、九割はデタラメ」
「どこまでが本当ですか?」
「シゲなら分かんだろ?」
 重岡は知っている。戦争に――空から降って来たビルの瓦礫に婚約者の命を奪われて、正気ではなくなった俺を。人目をはばからず泣いて、商売道具の声が枯れるまで叫び続けた俺を。
 だから彼なら分かるはずだ。記事の通り俺が『同棲愛』をしているならば、二股をかけるなんてありえない。恋人の心を殺すような真似をするはずがないと。
「あの人に関係ある方ですよね?」
「そーそー。妹な」
「妹か……だったらそうやって、早くあいつに教えてやってくださいよ」
 俺の気持ちなんて全てお見通しだと、まるでなじられているようだ。
「あと十五分ぐらいでそっち。まだ局に居る?」
「仮眠室で泣いてますよ」
「ひとりで?」
「……俺はお呼びじゃあなかったみたいなので」

 ――大丈夫だって。手え出したりしねえから安心してよ。

 そう、重岡に言ったのは確か夏フェスの時だった。
「シゲちゃん」
「はい」
「ゴメンな」
 可愛い弟の恋路を応援してやれなかった。それどころか可愛い妹に手を出してしまった。俺を諦めると言った彼女に、惹かれてしまった。大人げなくて、情けなくて反吐が出る。
「そうですね……じゃあ今度俺のクライアントとコラボ配信してください。勿論マイクさんの出演料は無料で。それでチャラです」
「流石スーパー営業マンだなァ。コラボ配信ぐらいいくらだってしてやるからシゲのクライアント全部持ってこい。その代わり」
「その代わり?」
「この電話切ったらベイビーの連絡先送ってくれねえか?」
「ハァ!? 連絡先交換してないんですか!?」
「そーなの」
「なんで……ホテルまで行ったのに?」
 重岡は声を荒げた。ごもっともなツッコミだ。
「マイクさん、どういうことですか? あいつのことどう思ってるんですか?」
「ンー? 好きだよ」
「だったら……」
「好きになりたくなかったんだ」
 強がりでもなんでもない。これが俺の本心だった。
 ベイビーを好きになるつもりなんてなかった。なりたくなかった。
「ベイビーと俺ってさ、一回り以上も歳離れてんの。干支一周しちゃってんのよ? 死んじまった彼女よりも若いんだぜ? そんな若くて未来ある子を縛り付けちまうのは可哀想だろ。あの子が頑張って仕事してる時に、生きてるか? 無事か? 頼むから死なないでくれよ? ってメッセージ送り付けるのやだもん俺。だから好きになりたくなかったんだよ。確かにホテルには行ったけどワンナイトのつもりだったし、連絡先だって交換しなかった。でもサ……なっちまったんだ」
 ベイビーを抱いた夜を思い返す。
 あの晩俺の心を捉えたのは泣き虫のベイビーでも、可愛い妹でもない。ひとりの女だった。
 「抱いてくれ」とせがんだ眼差し。服の下に隠し持っていた、夏の夜のような官能的な身体。彼女の名を呼ぶ度に俺のモノをぎゅっと締め付けた生温かい膣。可愛らしい声。一生懸命キスに応じてくれた唇。
 彼女を手放したくないと脳が訴える前に、俺は彼女から逃げた。何の約束も交わさず、連絡先すら交換せず。「マイクさんのことは諦めます」と言った彼女に甘えて、ひとつの恋を終わらせようとした。――それなのに。
「ホテルから帰ってる時にさ、あーベイビーは今頃泣いてんだろうなって考えてたらしんどくなっちまって。勝手だよなァ? 突き放したのは俺なのに、もう一回抱き締めてえなって。会いたいって思っちまった。大人げねえだろ」
 ベイビーに会いたい。今すぐに。会って、抱き締めて、謝りたい。
「俺はマイクさんのこと応援してますよ」
「センキューリスナー。お前には頭上がんねえよ」
 彼女は俺を許してくれるだろうか。
 瞼を閉じると、彼女の潤んだ瞳が脳裏に浮かぶ。俺の腕の中で「好きです」と呟いた時の、愛おしい瞳が。

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