ベイビーと呼ばないで | ナノ


大丈夫じゃないかも


 会議を終え、ミーティングルームを後にした。営業部のオフィスに向かう足取りは重い。
 再来週のぷちゃらじで私の担当企業が生読みCMを打つことになった。つまり今日、ぷちゃらじのオンエア前にひざしさんを交えた打ち合わせの場が設けられる。
「仕事は仕事……」
 まじないを唱えるように、私は言葉を繰り返した。

 ――最初で最後でいいから抱いてください。それでマイクさんのことは諦めます。

 そう言ったのはほんの数日前のこと。
 一年以上も前から思い続けてきた人を、たった数日で忘れられるはずがなく。ひざしさんに抱かれた日を思い返すだけで下半身は疼き出すし、もう二度と抱かれることはないのだと考えるとどうしようもないほど胸が苦しくなる。
 それでもひざしさんには会いたい。彼女になることはできなかったけれど、彼が私の拠り所であることに変わりはない。今すぐでなくてもいい、いつか彼を兄と思えるようになれたら。
「……よし」
 心を奮い立たせるように、私は声を出した。
 打ち合わせ前に残務を全て片付けて、きちんとメイク直しをしよう。めそめそしている姿を見られないように。もう泣き虫と揶揄われないように、胸を張ろう。

 営業部のオフィス足を踏み入れた途端、四方からの視線が私を貫いた。
「――ちょっといいか」
 オフィスの一番奥では部長が手招きをしている。
 何の心当たりもないけれど……もしかしてとんでもないミスを犯してしまったのだろうか。
 胸騒ぎがして落ち着かない。額にはもう汗が滲んでいる。
「あの……」
 部長は怒っているような、悩んでいるような表情だった。
「ネットニュース見たか?」
「ニュースですか……? すみません。ついさっきまで会議だったので」
「だよなあ」
 部長はデスクに手を付いて、深く溜息を吐いた。
 何が起こっているのだろうか。私は周囲に視線を送ったが、誰も目を合わせてくれなかった。
「とりあえず読んでみろ。そのほうが話は早い――ほら」
 部長のスマートフォンにはスキャンダル報道を得意とする週刊誌のWEBサイトが表示されていた。

『プレゼント・マイク 裏切りの二股愛!』

 私は目を疑った。が、何度瞬きをしても記事のタイトルは変わらない。
「え……これ……」
「いいから読め」
 スマートフォンを持つ手が震えている。
 タイトルの直下にはひざしさんと女性が肩を寄せ合っている写真。キャプションには『都内某所、女性のマンションに消えていく二人』とある。
「早く読んでくれ」
 部長の声には苛立ちが表れている。
 読もうとはしている。けれども目が滑ってしまって何も頭に入ってこない。なかなかスクロールしない私を見かねたのか、部長は私からスマートフォンを奪い取った。
「あのー、俺雑誌持ってます……よ……」
 先輩社員が忍者のようにそろりそろりと近寄ってきて、部長のデスクに誌面を広げた。
「あるなら早く言え! 遅い!」
 部長の怒号が飛ぶ。完全なる八つ当たりなのに、先輩は逃げるようにデスクから離れていった。
 張り詰めた空気の中、私は誌面に目を落とした。
 ゴシック体で印字されたタイトルはWEBサイトと同じもの。見開きページの右側には先程WEBで見たひざしさんと女性の写真。女性の顔にはモザイク処理がされていて、どんな人なのか窺うことはできない。
 そして左側には――私とラブホテルから出てきた瞬間の写真だ。こちらも顔にモザイクが掛けられているが、間違いなく私だ。『お相手はHERO FMの美人営業』とまで書かれている。
 足元の床がぼろぼろと崩れていき、底無しの暗闇に落ちていく。そんな感じがした。
「――というわけだから、お前はとりあえず仮眠室で休んでろ。ったく、今日の生放送どうすんだよ……俺のクライアントの生読みあんだぞ……」
 床を踏んでいる感覚はなく、デスクの前から動くことができない。言葉を発することも、週刊誌から目を逸らすことも。
「部長。家に帰した方が良いんじゃ……?」
 幸いにも聴覚は正常に機能している。声を掛けてきたのは重岡さんだ。
「今頃下はマスコミだらけだぞ。それにマイクがどう対応するつもりか聞いてないし、とりあえず今は社内に居てもらう」
「でも……」
「ちょうどいい。重岡、仮眠室まで着いてってやれ」
「本当に帰さなくていいんですか?」
「いい。俺は今から会議で外すから、後は任せる」
「分かりました――行くぞ」
「はい。あの……雑誌、お借りしてもいいですか?」
 部長は「好きにしろ」とぶっきらぼうに言った。

「――なあ、俺はここに居ない方がいいんだよな?」
 私は簡易ベッドに、重岡さんは丸椅子に腰掛けた。
「あ、漬け込もうだなんて思ってないから安心してくれ」
 彼は週刊誌をぱらぱらと捲りながら言う。敢えて私の顔を見ないようにしているのかもしれない。
「この間は悪かった。もしお前がハラスメントみたいに感じたなら、然るべき部署に相談してくれていい」
「ハラスメントだなんて、私はそんな……」
 飲み会で羽目を外し、重岡さんにタクシーで送ってもらったあの日が――マイクさんにDMを送ったあの日が遠い昔のように感じる。
「お前の気持ちはよく分かったから。今はただ上司として心配なんだ。一人で居るのが辛いなら話し相手になるぞ」
「ありがとうございます。でも……まずはじっくりそれを読んでみます」
「お前がそうしたいなら止めはしないけど。余計に辛くなるだけだぞ?」
「辛いとは思いますけど、読みたいんです。少なくとも半分はデマだって分かってるので、どんなふうに書かれてるのかも興味ありますし」
「デマ?」
 重岡さんはようやく顔を上げた。目を真ん丸にしている。
「私、マイクさんにフられてるんです。だから二股愛じゃありません」
「なあ……大丈夫か?」
「分かりません。大丈夫じゃないかも」
 目頭が熱い。だめだ、泣きそう――下唇を噛んだが遅かった。涙の筋が頬の上を走る。
 涙の理由が何なのか自分でも分からない。
 ひざしさんがこの女性のことを一言も話してくれなかったから?
 それとも私が抱いてと迫ったせいで大事になってしまったから?
「重岡さん。私……マイクさんに抱いてもらいました。マイクさんのことは諦めるから、一回だけ抱いてってお願いしたんです。でもずっと好きだった人のことをそんな簡単に諦められるわけないじゃないですか? だからこの記事を読んだら、スパッと諦められるかもしれないなって……思ってるのに……ちゃんと、思ってるんですけど……ごめんなさい。うまく言えない」
 私はひざしさんを諦める。記事を読んで、涙が枯れるまで泣いて、ちゃんと諦める。そう自分自身に言い聞かせていると、余計に泣けてきてしまう。
「じゃあ俺は行くから。好きなだけ泣けよ」
 重岡さんは去り際に、
「俺はもう一人のほうもデマだと思ってるよ」
私に背を向けたまま言った。
「だってマイクさんが……あの人が大事な女性を裏切るわけないだろ」
 その言葉はすうっと胸に落ちた。

 ――俺はもう二度と好きな女を失いたくねえ。

 確かにそうだ。重岡さんの言う通り、ひざしさんが恋人を裏切ってまで私を抱くはずがない。 
 それでもやっぱり私は泣き続ける。泣くんじゃねえよ、ベイビーと、聞こえるはずのない声を求めながら。



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