ベイビーと呼ばないで | ナノ


実らない恋でもいいと思っていた


 夏フェスは盛況のうちに幕を閉じた。
 ミックスナッツは廃棄されることが決まった。肩を落としたのは私達運営側の人間だけではない。ミックスナッツを求める観客が――マイクさんのリスナーが代わる代わる総合案内所に詰め寄せて、現場は大忙しだった。嬉しい悲鳴というのはまさにこのことらしい。
 閉会後、木椰子製菓の担当者は晴れやかな顔をしていた。「通販サイトへの注文が殺到してます」と言って笑い、「来年はゴールドスポンサーで。頑張って予算取ってきます」とガッツポーズをして、タクシーに乗り込んでいった。
 全てマイクさんのお陰だなんて言わないが、彼が居なければ木椰子製菓さんは、そして私はどうなっていたか。
 マイクさんにお礼がしたい。ただ頭を下げるだけでは足りない。どれほど感謝しているのか伝えたい。いったいどうすれば伝わるのだろうか――

 マイクさんと顔を合わせたのは夏フェスから三日後、ぷちゃらじの収録日。スタジオ入りをする彼とエレベーターホールですれ違った。
 というのは事実だが、偶然鉢合わせたわけではない。マイクさんが出勤する時間帯まで社に残って、彼に伝えたい言葉を頭の中で暗唱したり、用意した差し入れに猫の顔を描き込んだりしてこの時を待っていた。
「マイクさん! お疲れ様です」
「おーベイビーちゃん。遅くまでご苦労さんだなァ」
 両目がマイクさんの姿を捉えただけで舞い上がってしまう。頭の中ではいつかの黄金色のハイビスカスが花開いた。
「あの、マイクさん、今少しお時間――」
 ところがマイクさんは私の言葉を遮るように、
「ゴメン。今日すぐ打ち合わせでさ」
そう言って顔の前で両手を合わせた。
「また今度ね」
廊下の向こうに消えていく彼の背中を目で追いかけながら、私は鞄の持ち手を握り締めた。出番を失った差し入れがずっしり重い。
「また今度……か」
 今生の別れではない。彼と会う機会はいくらでもある。差し入れはまた今度渡せばいい。そう分かっているのに、小さな空回りは心に大きな穴を開けた。身体の中には夏らしからぬ冷たい風が吹き込んで、ハイビスカスはどんどんしおれていく。


 翌日に開催された夏フェスお疲れ様会で、私は酒に呑まれてしまった。飲み過ぎているという自覚はあったが、どうして手を止められなかったのかは分からない。
 ふと気が付くと私はタクシーの後部座席に居て、隣には重岡さんが座っていた。
「重岡さん……?」
「おー。起きたか」
 ん、と彼は清涼飲料水のペットボトルを差し出した。
「悪いな。一人で帰らせるのは危なくて」
「すみません……」
 心臓が暴れ狂っている。吐き気を催すほどではないが、胃は不快感を訴えている。私は清涼飲料水をごくごくと飲み下した。
「お前さー、なんかあったの?」
 重岡さんは私よりもうんと速いペースで生ビールのジョッキを空にしていたはずなのにけろりとしている。
「ごめんなさい。飲みすぎちゃって」
「本当だよ。皆夏フェス会場みたいなノリだったのにお前一人だけヤケ酒だー! ってオーラ出してたぞ」
 ヤケ酒と言われて、私は妙に納得してしまった。脳がアルコールを求めたのは、マイクさんに差し入れを渡すことができなかったことや、一人で浮かれていたことへの憂さ晴らしがしたかったのかもしれない。
「そんなつもりじゃ……ちょっと楽しくなっちゃっただけです。本当にすみません。今後気を付けます」
 タクシーが停車するまで、重岡さんとは仕事の話をした。明後日のアポがどうとか。彼の新規クライアントが来週のぷちゃらじでスポットCMを打つとか。私はそろそろ新規案件を取らないと人事評価がまずいことになるとか。
「――帰れるか? 大丈夫か?」
「大丈夫です。あと階段上るだけですから」
「それが心配なんだよ。またズッコケそうで」
「今日は段ボール持ってませんよ」
 清涼飲料水のお陰か動悸はすっかり治まっている。相変わらず胃は気持ち悪いけど、なんとか真っすぐに歩けそうだ。
「分かった。無事家に着いたら連絡しろよ」
タクシーが見えなくなり、エンジン音が聞こえなくなるまで私は頭を下げ続けた。
 重岡さんに連絡すると即座に『既読』がついた。トークルームを開いたまま私からのメッセージを待っていたのか。
『お疲れ』
 ご迷惑をおかけして――返信を打ちかけていた私の親指は、突如、石のように固まった。
『本当は部屋まで送りたかった』
『悪い。酔ってる。忘れてくれ』
 続けて届いた二通のメッセージに面を食らってしまった。
 彼の言葉の真意が分からぬほど私は子供じゃない。だけど――重岡さんは私の上司であり、頼れる先輩だ。それ以上の存在になってほしいと求めたことはたった一度だってない。
 返信を打つ気にはなれなかった。スマートフォンを握り締めたままその場にへたり込み、深く息を吐いた。
「マイクさんに会いたいな……」
 誰でもいいわけじゃないのだと、改めて思い知った。
 マイクさんがいい。
 マイクさんが好き。
 マイクさんとどうにかなりたい。重岡さんではなく、マイクさんと二人でタクシーに乗って、部屋まで送ってもらって。玄関の扉が閉まったら、彼の身体に包まれて。甘いカクテルのような声で囁かれて、キスをされて、身体を触られて、それから――
「やめよ」
 いつの間にか下着に吸い寄せられていた手を、もう片方の手で捕らえた。
 実らない恋でもいいと思っていた。
 でも、もうやめたい。
 私が『ラジオ局の若手社員』や『冠番組のスポンサーの営業担当者』や『泣き虫のベイビー』以上の存在に成り得ないならば、マイクさんのことは諦めよう。諦めるべきだ。さもなければこんな苦しみがずっと続くだけだ。
「会いたい……」
 マイクさんに会いたいのに、私は彼の連絡先すら知らない。彼へメッセージを送る唯一の方法は、彼のリスナー達と同じくSNSのDMだけ。
 私はマイクさんの公式アカウントを開き、DM送信ボタンをタップした。毎日何通ものDMが届いているだろうけど、きっと読んでくれる。そう信じて文面を打った。

 マイクさんが好きです――削除。
 マイクさんにお話があります――削除。
 マイクさんに会いたいです。送信。

 翌朝、DMに『既読』が付いていた。
 しかし返信はなかった。それから数日間、局で彼と顔を合わせることも、何かしらのアクションを受け取ることもなく時は流れ――今日、ようやくメッセージが届いた。店の名前と待ち合わせの時間に『大丈夫そう?』の短い一言が添えられて。

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