ベイビーと呼ばないで | ナノ


まだまだ泣き虫な妹って感じ


 久しぶりにベイビーの涙を見た。
 抱えていた段ボールごと地面に倒れ込み、泣いている彼女を。

 子供みたいに泣くんじゃねえよ――そう茶化してやると、まるで強がる子供のように「もう泣きません」と返ってくる。だから泣いている彼女はつい揶揄いたくなってしまう。涙を拭って、肩に力を入れて一歩踏み出す彼女が見たいから。
 仕事が上手くいかなくて泣いて、上司に叱られて泣いて、悪い事ばかりではなく褒められても泣いていた泣き虫ちゃんの涙を最後に見たのはいったいいつだったか。

 真っ青な顔でバックヤードを駆け回っているベイビーをなんとかしてやりたかった。MCが終わったら声をかけるつもりだったのに、ステージから戻るとベイビーはもう泣いていた。その時に感じた、切り傷に塩水をかけられたかのような痛みは今でも俺の胸に残っている。


 自動販売機のボタンを押した時、廊下から人の声が聞こえてきた。
「お邪魔しました」
 ベイビーの声だ。
 隠れる必要なんてないのに、廊下に出て行って「大丈夫か?」と声を掛けてやればいいのに、俺は自販機にもたれ掛かった。ベイビーの部屋はこの階ではないはずだ。あの辺りには確か――彼女の直属の上司、重岡の部屋がある。
 だからなんだ、と心の中で笑い声を出す。二人が同じ部屋で同じ時を過ごしていたところで俺には関係のない話だ。
「すんませんこんな時間まで」
「失礼しまーす」
 彼女に続いて聞き覚えのある声が続々と廊下に響き渡る。営業部の若手社員達だ。重岡の部屋でご苦労さん会、といったところか。
 肩の力がすうっと抜けていくのを感じて、俺はいよいよ笑ってしまった。
「なに安心しちまってんの」
 俺の声は誰にも届いていないだろう。それでいい。こんな格好悪い声は誰にも聞かれたくない。

 部屋に戻り、買ったばかりの緑茶で喉を潤した。ライブ配信中にウイスキーのエナジードリンク割りを三杯、ホテル付近の飲み屋でラムコークを二杯飲んで、全身にアルコールがどっぷりと染み込んでいる。酔ってはいないが身体が熱い。
 風呂に入ろう。そう思ったのと同時にスマートフォンが震え出した。『HERO FM営業 重岡 さんからの着信』
「シゲちゃーん! ワッツァーップ?」
「こんな時間なのにテンション高いですね」
「そお? 俺のスタンダードはコレだぜ」
「飲んでました?」
「YES。今戻って来たところ」
「やっぱり。お酒入ってる時の声だ」
「なあ……シゲって俺のカノジョだっけ?」
 重岡とは冠番組ぷちゃらじが始まる前からの付き合いだ。俺は音楽番組の曜日担当DJで、重岡は新卒一年目のフレッシュマン。片手の指ほども歳が離れていない、弟のような存在だった。青臭くて、そそっかしくて、上司に叱られては俺の前でめそめそ泣いていた青年は――今ではHERO FMで一、二を争う敏腕営業マンだ。
 俺がベイビーを放っておけないのは、若い頃の重岡にどこか似ているからなのかもしれない。
「木椰子製菓さんの件はありがとうございました」
「なんのこと?」
「ライブ見ましたよ。ナイスフォローでした」
「ああーアレね? 酒のつまみが欲しくてさ。丁度よかったぜ」
 テーブルには未開封のナッツが数袋。そのうち一つを手に取り、プラスチックのパッケージ越しにナッツの形を指でなぞる。勿論虫なんて入っちゃいない。
「すみません。マイクさんにあんなことさせちゃって」
「別にいいって。ナッツ美味かったし」
「そう言ってもらえるとあいつは嬉しいだろうな」
「あいつって誰よ」
「またまたー。木椰子製菓さんの担当が誰か分かってるんでしょ?」
 俺は何も答えなかった。
 木椰子製菓は営業部長が他社から掻っ攫ってきたHERO FMの大口顧客。昼の番組のレギュラースポンサーだが、俺の番組でも何度かCMを打っている。実務上の担当者はナッツを抱えてすっ転んだ彼女だ。
「さっきまで一緒に居たんですけど、いい顔してましたよ。やっぱりマイクさんの力はすごいなあ」
 含みのある言い方だと感じたのは気のせいでも、アルコールのせいでもない。
「――なあ、シゲちゃん。コレって牽制?」
「牽制って……どういう……」
「大丈夫だって。手え出したりしねえから安心してよ」
「マイクさん、俺は、その……そんな話はしてませんよ」
 重岡はしどろもどろに言う。これが映像ならば『※彼は動揺しています』なんてテロップが流れただろう。
「んじゃ、牽制じゃなかったらナニ? シゲのお気持ち表明のお便り?」
「お気持ちって……やだなあ。マイクさん酔ってます?」
「飲んでるけど酔ってねえよ」
 手元には緑茶のペットボトル。これが緑茶ハイだったら盛り上がるのにと思いながら、俺は緑茶を食道に流し込んだ。
「シゲがあの子を気に入ってるのも、あの子の目に俺がどんなふうに映ってるかも分かってるんだけど」
 スピーカーは何の音も再生しない。彼の声も、溜息の一つも。

 重岡はベイビーをただの部下だと思っていない。
 しかし、ベイビーの意中にいるのは重岡ではなく、俺だ。
 
 俺にとって二人は他の社員とは一線を画した存在だ。二人の想いには随分と前から気付いていた。
「シゲ、あのなあ……俺はシゲのことが可愛くて仕方ねえの。だって男の癖にしょっちゅう泣いてたお前がさ、部下抱えるようになるまで成長したんだぜ? うちの局内では最年少課長だよなァ? すげー頑張ったじゃん。頑張ったデショ? 可愛い可愛い弟が立派になってくれて兄貴は嬉しいぜ」
「マイクさんにそう言ってもらえて俺も嬉しいですけど……」
「リッスン、マイブラザー。お前もベイビーも俺にとっちゃおんなじ。泣き虫だった弟と、まだまだ泣き虫な妹って感じ」
「……その言葉、あいつにも聞かせてやりたいです」
「だったらお前が聞かせてやれよ。んじゃ、進展あったら報告しろよ〜」
 重岡があたふたと言い訳をし始めたので、俺は通話を切った。
 これでいい。重岡への言葉には嘘も偽りもない。
 でも――話していないこともある。
 
 俺は椅子に腰掛けて、とあるメッセージアプリを開いた。ほんの数年前までは誰しもがスマートフォンにインストールしていた緑色のアイコン。いつ間にか別の無料通話アプリが取って代わり、今ではこのアプリ上で新着メッセージを受信することはほとんど無い。
 一番上のトークルームに入って、メッセージを打ち込む。
『相談したいんだけどさ』
『電話していい?』
 送信ボタンを押す。しかし返信はない。既読もつかない。何年も前からずっと。
「なァ……どう思う?」
 返事は聞こえない。当たり前だ。
 だが俺はDJだ。一人語りなんて朝飯前。どこかで誰かが俺のトークを聞いている限り、口を紡ぐ必要なんてない。
「WHAT? 悩んでる時点で答えは出てるって? リスナー、お前は簡単に言うけどさあ――」
 今宵のオンエアは長丁場になりそうだ。

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