ベイビーと呼ばないで | ナノ


夏をエンジョイしようぜ



 本日は晴天。気温は暑すぎず寒すぎず。波は穏やか。フェス日和。
 ――夏をエンジョイしようぜ?
 マイクさんの言葉を頭の中で唱えながら、私は会場内を駆け回る。
 開演を待つ群衆はカラフルだ。水着姿の人、アーティストのロゴTシャツに身を包んだ人、ぷちゃらじの公式フェイスタオルを首から掛けた人――。それなのにフードトラックの車体に映り込んだ私は白のシャツに黒のパンツという地味な姿だ。勿論ここには遊びに来ているわけではない。だけど、全くもって夏フェスらしくはない。
「夏フェスにその恰好!?」
 控室で顔を合わせたマイクさんにも突っ込まれてしまった。
「仕事ですから」
「いや分かるけどさァ、せめてスタッフTシャツ着たらどうよ? 去年は着てたジャン」
「今年は担当のクライアントさんがいらっしゃってるので」
「担当のクライアントさん、かあ……なんか成長を感じるなー」
「って言っても部長のお客さんですけどね」
 営業部長から任された大切なクライアントだからこそ、身を引き締めていなければならない。夏フェス会場にそぐわない服は自分を大きく見せるための鎧だ。
「今日は泣いてらんねえなァ?」
「もう泣きませんって」
「ハイハイ。でも頑張りすぎんなよ。ちゃんと寝てるか?」
「はい。あの、この間の缶コーヒーって……」
「お前さあ、会社で寝るんじゃねえよ」
 そうであって欲しいと願った通りだ。缶コーヒーを差し入れてくれたのはマイクさんだ。私のためにわざわざ、落書きまで添えて。
 胸が線香花火のようにぱちぱちと弾けている。頭の中では夏のヒットソングが流れ始める。このまま波打ち際まで駆けて行って、海に飛び込んでしまいたい。そんな気分だ。
「やっぱりマイクさんでしたよね?」
「やっぱりってナニ」
「マイクさんだったらいいなーって思ってたので。すごく美味しかったです。ありがとうございます」
「大袈裟だなァ? 自販機で百十円だぜ?」
「でも今まで飲んだコーヒーの中で一番美味しかったです」
「そりゃあベイビーちゃんがまだお子様ってことよ。大人になったら美味いコーヒーなんていくらでも飲めるぜ」
 口の中はどういうわけかコーヒーの味がした。美味しいけれども、しっかりと苦い。マイクさんがコーヒーを差し入れてくれたと知って嬉しいけれど、『お子様』の一言が引っかかる。
「いつも言ってますけど、子供じゃありませんって」
「だったらまずはコーヒーの味を覚えようぜ? 美味い店知ってっから今度教えてやるよ」
 スタッフに呼ばれたマイクさんは「バーイ」と手を振って控室から出ていった。私の視線は彼のアロハシャツに釘付けになった。黄金色のハイビスカスが視界の中でゆらゆらと揺れている。彼の姿が見えなくなってからもずっと。
 脳内がお花畑、なんて情けない状態ではない。今は仕事中だ。恋愛にうつつを抜かしている場合ではない。それでも私の頭の中には一輪のハイビスカスが咲いていた。マイクさんのアロハシャツと同じ、黄金色に輝く花が。
 夏をエンジョイできるかもしれない。次にマイクさんと顔を合わせた時には美味しいコーヒーの店を教えてもらって、あわよくば一緒に――なんて呑気なことを考えて居られたのはこの時までだった。


 着信音で我に返る。
 ホテルの部屋に戻ってからずっと、今日の番組のアーカイブを再生しながら天井を眺めていた。ベッドに倒れ込んでからどれほどの時間が経ったのか分からない。番組の内容は何一つ頭に入っていないし、これまで自分が何を考えていたのかも覚えていない。
「――生きてる?」
 通話の相手は三つ年上の先輩だ。嫌味っぽい口調で私をなじる人。
「生きてます。すみません。先方は?」
「部長が送ってったよ」
「そうですか……」
「ショックなのは分からなくもないけどさー、こっちはなんにも悪くないじゃん? お前が泣く必要なんてないだろ。なんで泣くんだよ、おかしいだろ」
 今、私は泣いていなかった。目元を濡らしていた涙はいつの間にか乾いている。
 蒸し返さないでほしかった。もう泣きたくないのに。
「お前もう二年目だぞ。いい加減仕事中に泣くのやめろよ」
「……すみません」
「だいたい部長のお客だろ? お前はただ担当引き継いだってだけなんだから。後はお偉いさん達がなんとかするって」
「なんとかなるといいんですけど」
「なるなる。それより今からこっち来れる? 重岡さんの部屋でメシ食うんだけど」
「行きます。何も食べてないんです」
「だと思った。六〇一号室な」
 通話が切れると、私は両手で顔を覆って息を吐いた。涙が零れ落ちないように、指先で目頭をしっかりと押さえながら。

『ナッツから虫出てきたんだけど』
 短い一言と、会場内で無料配布されていたミックスナッツの写真はSNS上で急速に拡散された。クルミとカシューナッツの間にハエのような小さな虫の死体が並んでいる写真が。その虫が本当にパッケージの中から出てきたものなのか、或いは投稿主による創作なのかは分からない。もっとも拡散ボタンを押した人々にとって何が本当かなんてどうでもいいのだろう。夏フェスの為に用意された数千ものナッツは、観客の腹を満たすという役目を果たせぬまま控室に戻された。既に観客の手に渡っていたパッケージはスタッフに返却されたり、ごみ箱に捨てられたり。
 その様を目の当たりにした製菓会社の担当者は、青白い顔で頭を下げ続けた。「こっちはなんにも悪くない」と先輩が言ったように、私達は何も悪くない。むしろ客観的に見れば飛び火を受けた側だ。
 それでも私は営業担当として、何とかしたかった。入社二年目の半人前に何が出来るのかと笑われても、焦って慌てることしかできなくても、どうにかしたかった。
「お前はホテルに戻ってろ。後は俺が対応する」
 ナッツの段ボール抱えたまま躓き、転んでしまった私を見下ろしながら部長は冷たく言い放った。
「クライアントの前で泣くな」
 泣いているつもりなんかなかったのに。泣きたくなんてなかったのに。私は自分の仕事を放り出して、ホテルの部屋へ逃げ帰り、泣き続けた。

「もうこんな時間……お腹空いたな……」
 時計は午後九時半を示している。今日の催しはとっくに終了していて、会場の後片付けも終わっている頃だ。
 メイクを直してから重岡さんの部屋へ行こう。まずは開けっ放しだったカーテンを閉めなければと、窓際まで足を運んだ時――私の視線は捉えてしまった。
 ホテルのエントランス付近で立ち話をする男女のグループ。長身のブロンド頭がマイクさんであるとすぐに分かった。彼の傍らには昼の人気番組を受け持つ女性DJと、どこの誰なのか知らない男女が数名。
「いいな……」
 昼間に着ていたアロハシャツはステージ衣装だったようだ。夜空の色をしたシンプルなシャツに身を包んだマイクさんは、スマートフォンの画面を見つめながら何かを話している。その脇に立っていた女性はマイクさんのスマートフォンを覗き込んだり、彼を見上げて嬉しそうに笑ったり。
 胸を掻き毟られる思いだ。目頭が再び熱くなる。
「私もエンジョイしたかったな……」
 誰も聞いてくれない呟きを窓ガラスにぶつけると、私はカーテンを閉めた。

 重岡さんの部屋にはソースと油の混じった匂いが充満していた。
「すごーい。部屋広いですね」
「ベッド二つもある。課長おー、誰か連れ込むんスか?」
「いやいや連れ込むなら一つで十分でしょー」
「お前らうるさいぞー。さっさと食え」
 重岡さんと先輩が二人、そして私の四名で小さなテーブルを囲んだ。焼きそば、ピザ、からあげ、焼き鳥、フランクフルト。どれもフェスの定番メニューだ。空っぽの胃袋には少々刺激が強いラインナップだが、私の箸は止まらない。
「なー、マイクさんの配信見た?」
 フランクフルトを齧りながら先輩が言った。
「ライブやってたの?」
「そう。一時間ぐらい前に。俺もさっきアーカイブで見たんだけど――あった。ちょっと見てよ」
 私達はマイクさんのライブ配信映像を見ながら食事を進めた。
 冒頭の挨拶は普段通りのテンションで。『短時間しかできねえけど付き合ってくれよ』と言いながらウイスキーのエナジードリンク割を作り、視聴者と乾杯する。このエナジードリンクはイベントのスポンサー企業のものだ。『美味い』『ラムでもいいな』『リスナーもやってみろよ』――そんなことを話しながらあっという間にグラスを空け、二杯目のドリンクを作った。
 彼はいつものハイテンションで語りを続けた。今日のフェス会場の様子から、リスナーのコメントへのレスポンスから、明日の催し物の紹介まで。二杯目のグラスが空になった頃、『つまみ欲しいな』と言って画面から一度消え、ミックスナッツと共に戻って来た。私達が控室に段ボールごと積み上げた、あのナッツだ。
『――虫!? WHY!? 俺虫無理なんだけどォ!?』
 どうやらリスナーが虫の混入について言及したらしい。
『あー会場で騒ぎになってたヤツ? そりゃ虫出てきたら怖いけどさァ、俺のには――ナッツしか入ってねえもん』
 マイクさんがナッツを口の中に放り投げたところで、先輩は映像を止めた。
「さすがだなー」
 感心したようにうなり声を出したのは重岡さんだ。
「木椰子製菓さんがシルバースポンサーって分かっててやってるよ、この人」
 エナジードリンクは最も出資額の多いゴールドスポンサー。ミックスナッツはその次に多く出資しているシルバースポンサー。エナジードリンクを立てつつも、ミックスナッツが安全であるアピールをしてくれている。決してわざとらしくなく、ごく自然な流れで。
「こんな影響力ある人にコレやってもらえるのはありがたいなー」
「部長がお願いしたんっすかね?」
「うーん、俺は何も聞いてないし……マイクさんの好意じゃないかなあ。頼んでもないのに何食わぬ顔でフォローしてくれるの、マイクさんあるあるって感じだろ。な?」
 重岡さんは私に目配せをして、エナジードリンクを口に運んだ。
 私は何度も頷いた。首がねじ切れるほど、何度も。
「よかったな」
「本当に……マイクさんには頭が上がりません。あ、もちろん皆さんにもですけど」
「俺らはおまけかよー」
 先輩が声を立てて笑った。
「今日は久々に泣き虫ベイビーだったな」
「本当にすみません……」
「俺らは身内だからいいけど、マイクさんにはちゃんとお礼言ったほうがよくね? 重岡さんからマイクさんに電話してもらえば?」
 先輩に言われなくとも同じことを考えていた。マイクさんにお礼が言いたい。言わなければ。
「今日はこんな時間だし、俺からメッセージだけ入れておくよ」
 マイクさんは今頃、女性DJ達と夏をエンジョイしているのだろうか。
 胸に沸いた寂しい気持ちを紛らわすために、私は勢いよく焼きそばを啜った。


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