ベイビーと呼ばないで | ナノ


恋とはそういうものだから


「ラブリーだなァ」
「はい。猫です」
「見りゃ分かるよ」
 そう言って猫型の付箋を指で弾いた人は、
「ベイビーっぽいねえ」
やさしい声で私の名を呼んだ。小さな子供に語りかける父親のような、或いは幼稚園の先生のような、そんな声で。
 泣き虫、クライベイビー。泣いてばかりいた私をそんなふうに呼び始めたのは彼、プレゼント・マイクさんだった。
 ベイビーと呼ばれるのは嫌いじゃないけれど、子供のように扱われるのは不本意だ。
「どういう意味ですか」
「ンー? 若いなあって思ってサ。ベイビーちゃんって感じ」
「私、社会人二年目ですよ? 子供じゃありません」
「でも子供みたいにめそめそ泣くジャン?」
「最近は泣いてないのに。マイクさんだって見てませんよね?」
「そおだっけ?」
 HERO FMに入社したばかりの頃はよく泣いていた。新入社員研修でも、営業部に配属されてからも、毎日のように。涙を流す度に「泣くなら帰れ」と上司に叱られ、「簡単になけるヤツはいいよな」と先輩社員から嫌味を言われて――厳しい言葉を受け流すことが出来ずにまた涙を流す。
 マイクさんはそんな泣き虫な私の拠り所だった。
 ――泣くんじゃねえよ、ベイビー。
 上司や先輩社員達とは違い、彼の言葉は毒でも棘でもない。私を励まし、涙を止めてくれる魔法の言葉だった。

 いつしか私は恋に落ちていた。

 マイクはやめておけ。そんなふうに局の大先輩達から諭されたのは一度や二度のことではない。『私はプレゼント・マイクさんが好きです』なんて看板をぶら下げて歩いているつもりはないが、言動の端々に恋心が滲み出てしまっているのだろう。周囲にも伝わるぐらいだから、私の気持ちはマイクさん本人にも届いているに違いない。
 それでも私の立場はマイクさんと出会った頃から何一つ変わっていない。つまりはそういうことなのだ。彼にとって私は『ラジオ局の若手社員』であり『スポンサーの営業担当者』であり『泣き虫のベイビー』だ。きっとそれ以上の存在には成り得ない。それでも私はマイクさんが好きだ。一度抱いた気持ちは紙くずのように簡単には捨てられない。恋とはそういうものだから。

「――とのことです。大丈夫そうですか?」
「ノープロブレム」
「では明日の収録、宜しくお願いします」
「こちらこそ。で、これでベイビーにはどんだけバック入んの?」
「このお客さんは重岡課長の案件なので……私には特に何も」
「たった三分で五十万も取んのに!?」
 マイクさんの冠番組、プレゼント・マイクのぷちゃへんざレディオはラジオ関係者からは『ドル箱』と呼ばれている。月額数百万円のレギュラースポンサーは常に万枠で空き待ちが出るほど。二十秒六万円のスポットCMも、百八十秒五十万円の生読みCMも飛ぶように売れる。放送開始から十年近くが経ってもぷちゃらじの人気は衰えるどころか右肩上がりだ。
 とはいえ、たとえ『ドル箱』という切り札を持っていても、私の新規クライアント開拓活動は難航している。現在担当している案件は全て、上司から回してもらった既存クライアントのものだ。
「ケチくせえなー。お前さ、悔しくねえの?」
「悔しいです!」
「ダロ? 早く自分のお客取って来てガッツリ稼がねえと」
「頑張ってはいるんですけど……なかなか……そろそろ一人前になりたい」
「頑張れよー。お前ならできるって。ああそうだ、この原稿データで貰える?」
「そう仰ると思ってもう送ってあります」
「ワーオ。気が利くようになったなァ。偉い偉い」
 好きな人に褒められて嬉しくないわけがない。でも、いつまでも子供のままは嫌だ。
「そんな大袈裟に言わないでください。子供じゃないんですから」
「ってのは一人前の営業になってから言ってくれよ、ベイビー」

 打ち合わせブースを後にして、エレベーターに向かって歩みを進める。
「夏フェスはどう? 順調?」
 HERO FM主催の夏フェスはビーチサイドで開催される上半期の一大イベントだ。人気アーティストによるライブステージ、各番組の公開生放送、フリーマーケット、マリンアトラクション――夏の熱気を求めて毎年多くの観客が訪れる。イベントのメインMCはもちろんこの人。
「全然順調じゃないです。緊張してます」
「HAHA、韻踏んできたな」
「踏んでません!」
「踏んでたぞ」
「たまたま踏んじゃっただけです……本当に緊張してるんですから」
「キンチョ〜? なんで」
「だって去年はバイトの子と一緒にただ雑用をこなしてただけですから。今年はちゃんと仕事しに行くって感じです。緊張する……」
「仕事はモチロン大事だろうけどさ、ビーチでフェスだぜ? 夏をエンジョイしようぜ?」
「エンジョイできるかなあ」
「YOU CAN、お前は若いんだから」
「私のこと若い若いって仰いますけど、マイクさんだって十分お若いじゃないですか」
「ベイビー、おじさんのこといくつだと思ってんの?」
「それ言っちゃうと世の中のおじさんに失礼ですよ」
 楽しい時は瞬く間に過ぎ去ってしまう。マイクさんは「お疲れ」と言って、エレベーターの扉の向こうに消えていった。
「アラフォーには見えないんだよな……」
 マイクさんは(少なくとも私の前では)自身をおじさんと呼ぶ。確かに彼とは年齢が一回り以上離れているが、おじさんだなんて思ったことは一度たりともない。彼ほど格好良くて、若々しくて、夏の太陽のように輝いている男性に出会ったことだって。



「――ありがとうございました。失礼します」
 生読みCMのコーナーは無事に終わり、スポンサー企業の担当者を見送った。
 百八十秒、定価は五十万円。決して安くはないけれど費用対効果は抜群にいい。ぷちゃらじの場合は特に、マイクさんが原稿以上のコメントで場を盛り上げてくれるためクライアントの満足度は高い。
 今日のクライアントも例外ではなく。「早速問い合わせが殺到してるみたいだよ」と嬉しそうに笑い、「マイクさんに改めてお礼を伝えておいて」と私に頭を下げていった。
「……会えるかな」
 私は社屋の高層階を――ぷちゃらじの収録スタジオを見上げた。
 今日は土曜日。営業の私は定休日で、何の予定もない。
「どうせ帰っても寝るだけだし、ね」
 ね、の矛先は自分自身に。社内に残ってマイクさんの収録終わりを待つことを肯定するために。
 営業部のオフィスに戻り、休憩スペースのソファで横になった。視聴アプリを立ち上げてウォッチリストの一番上をタップする。
 イヤフォンが再生したのは数年前にヒットチャートを総なめにした夏歌。リスナーからのリクエストコーナーだ。
「まだこんな時間か……」
 タイムスケジュール通りに番組が進行していればこれはまだ一曲目。ここからもう二曲、楽曲紹介の時間が続く。
 マイクさんの語りが聞きたいな。
 アップテンポな曲が頭の中に流れ込む。来週の夏フェスではこんな曲を聴きながら海辺を歩きたい。水平線の彼方に沈んでいく夕日や夜空で咲き誇る花火を眺めながら、マイクさんの語りを――彼の隣で聞くことができたらどんなに幸せだろうか。
 言うまでもなくこれは叶いもしない夢だ。だけど夢を見る権利は誰にだってある。

「――そろそろ起きろー」
 スイッチをONに切り替えたかのように、脳が突然意識を取り戻した。
 私は文字通り飛び起きた。午前十時。ぷちゃらじは何時間も前にオンエアを終えている。マイクさんの語りを聞くことも、マイクさんに会うこともなく朝を迎えてしまった。
「重岡さん……おはようございます……」
「おはよ。昨日はお疲れ」
 閑散としたオフィスにはスーツ姿の重岡課長がひとり。三十代半ばの若さで課長職を与えられた、所謂デキる男の彼は、休日にも関わらずキーボードを叩いている。
「なに、先方さん収録終わりまでいらっしゃったの?」
「いえ。生読みが終わったら帰られました」
「じゃあお前はなんで居るの?」
 理由を話したくなかった。もっとも、私が答えずとも重岡さんは察しているかもしれない。彼は私がマイクさんに惚れていると知っていて、「あの人はやめておいたほうがいい」と忠告してきたうちの一人だから。
「すごく眠かったんです。家に帰るのがめんどくさくなっちゃって」
「大丈夫かよ。今日はオフだろ?」
「はい」
「だったら早く帰って寝ろよ? 来週までにバテられちゃ困る」
「そうします。今日は半日寝ちゃおうかな」
 重岡さんに挨拶をしてオフィスを出た。
身体が重いな。ゆっくりお風呂に浸かって寝よう――そう考えていると、彼が追いかけてきた。
「おーい。コーヒー」
「コーヒー?」
「忘れてるぞ」
「私ですか?」
「だってテーブルに置いてあったぞ」
「うそ。気付きませんでした」
 重岡さんの手には缶コーヒー。私は買った覚えなんてないし、この様子だと重岡さんからの差し入れでもなさそうだ。
「誰だろう……」
 彼と別れてからも、エレベーターに乗り込んでからも私は考えていた。缶を手の中でくるくる回していると、ふと、表面に書き込みを見つけた。『お疲れ』の文字と、その脇でにっこり微笑む猫の顔。
「マイクさん……?」
 『お疲れ』だけなら全く見当が付かなかった。今日、猫が話題に上がったのはマイクさんとの打ち合わせだけだ。
 もしかしたらマイクさんじゃないかもしれない。でも他に思い当たる節がないのだから、今はマイクさんが差し入れてくれたのだと思い込むことにしよう。
 私は缶を両手で握り締めて、ちょっと不格好な猫の顔を撫でた。


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