ベイビーと呼ばないで | ナノ


幸せですね


『家出た』
『今日は車にする』
『ついた』
『さっきイイ感じの喫茶店見つけた。後で行きてえな』
『ケーキセット八百円』
『俺はティラミスがいいな。チーズケーキも美味そうだったケド』
『今日暑いなー』
『今ミーティングルーム入ったよ』
『コーヒー飲むよな?』
『早く会いてえ』
 スマートフォンから目を離していた小一時間で、ひざしさんからの新着メッセージは十通。最後に添えられたハートマークも含めると十一。
『行きます』
 私は短く返信をして、書類の束を抱えて営業部のオフィスを飛び出した。

 週刊誌の『二股愛』報道から半月が過ぎようとしている。
 ひざしさんの恋人としての生活にはようやく慣れてきた。彼に「好きだ」と言ってもらえることにも、モデルルームのようなマンションに住むことにも、朝から晩までメッセージを受け取り続けることにも。初めこそ全てのメッセージにレスポンスを返していたが、「生存確認のつもりだから」「既読さえつけてくれりゃいい」「いちいち返信すんな」ときつく釘を刺されてしまった。
――次に誰かと付き合う時には……相当メンドクサイ男になっちまうと思うワケよ。
 いつかの言葉の通り、ひざしさんは私の安否が心配で仕方ないようだ。この二週間、彼は毎日マンションに帰ってきているし、私とのトークルームは最早彼のひとり言のタイムラインと化している。
 面倒臭いと思わないのは、私がひざしさんに心底惚れているからと――私の行動を制限することは一切ないから。私が生きてさえすればいいのだ。だから私が飲みの場に顔を出そうが、仕事で異性と二人きりになろうが彼は関与してこない(それはそれで、ちょっと寂しいけど)。
「幸せだなあ。生きてるっていいよな」
 お酒に酔った時や寝ぼけている時に、ひざしさんはそんな言葉を口にする。
 亡くなった婚約者は今でも彼の中に生き続けている。私は会ったこともない彼女に思いを馳せながら、ひざしさんのブロンドを撫でて、こう呟く。幸せですね、と。

「――待たせてごめんなさい」
 ミーティングルームに入ると、ひざしさんは丁度コーヒーを啜っているところだった。テーブルにはペーパーカップがもう一つ。
「待ってねえよ。まったりコーヒーブレイクしてたとこ」
「さっき思ったんですけど、わざわざ来てもらわなくても家で話せば済みましたね」
「そおだけど、仕事中にも会いてえじゃん?」
 彼の目尻に皺が刻まれる。若々しい見た目や言動はもちろん、年相応な部分まで、皺の一本までも全部が愛しい。
「仕事頑張ってるお前をちょっとでも見ておかねえと。来週から新学期だしさ」
「そっか……ってことはこっちに来られない日も?」
「MAYBE。でも極力帰って来てえな。何日もお前に会えないなんて考えらんねえし」
「……私も。できれば毎日会いたいな」
 湿っぽい空気がミーティングルームを満たしていく。
 私は咳払いをして、今日の打ち合わせ書類を差し出した。今は仕事中だ。この打ち合わせが終わったら商談が一件と、カウントダウンイベントに向けた営業会議が待っている。この続きは家に帰ってからにしなければ。
「えっと、来週の生読みですけど、」
「お」
「はい?」
「今日もラブリーだな」
「ああ、これ。アルパカです」
「いやいや、見りゃ分かるって」
 ひざしさんはアルパカ型の付箋を指で弾き、
「ベイビーっぽいねえ」
いつもと同じやさしい声で言った。
 夏が始まる頃、私は泣き虫のベイビーだった。
 夏が終わろうとしている今、私は相変わらず泣き虫だけど、子供でも妹でもなくなった。
「ひざしさん。もうベイビーじゃありません」
 彼はふっと笑うと、椅子から立ち上がって――私の隣に座り直した。
「るい」
 額のあたりにキスされる。
 心がときめいている。毎日何度も、何度もキスされているのにこればかりはまだ身体が慣れてくれない。
「こんなところで……職場ですよ」
「あーあ、仮眠室が懐かしいなァ〜」
「ひざしさん!」
「そうやって照れてる顔もベイビーって感じ。可愛いよ」
 ひざしさんはテーブルの下で私の手を握った。
 仮眠室で抱き合って無我夢中でキスをしたあの日を思えば、額へのキスも、テーブルの下で手を繋ぐことも可愛いものだ。
「泣き虫のベイビーとか、子供のベイビーとかって意味じゃねえよ。ま、泣き虫は治ってねーけどサ」
 ひざしさんは声をひそめる。扉の向こう、廊下からは人の声が聞こえてくる。
「お前は俺の愛しい人ベイビーなの」
 今は仕事中だ。のんびりと愛を囁き合っている時間はない。それに、扉には『使用中』のプレートを掲げているけれど、誰かが誤ってミーティングルームに入って来るかもしれない。
 でも、我慢なんてできなかった。
「ひざしさん」
「ン?」
「幸せですね」
「そうだな」
 一度だけ。たった一度だけキスをしたら、今度こそ打ち合わせに入ろう。続きは家に帰ってからにしよう。
 私はそう心に誓って――ひざしさんを見上げた。
「大好き」
「俺も。好きだぜ、ベイビー」
 手と手をぎゅっと握り合わせて、瞼を閉じて、唇を重ねながら私は思う。
 やっぱりベイビーと呼ばれるのは嫌いじゃない。


〈完〉

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