ベイビーと呼ばないで | ナノ


俺を信じてくれ


 手が汗でぐっしょりと濡れていた。
 両手は何かを掴んでいる。自分の肌ではない、別の誰かの手。大きくて、骨ばっていて、どこか懐かしい――ひざしさんの手だ。
「ぐっすり眠れたか、ベイビー?」
 ここが夢の中ではないと理解するまでに、少しばかり時間を要した。
 ひざしさんは床に跪いて私の手を握っている。
「ひざしさん……?」
「久しぶりにその顔見たぜ」
 その顔、とはきっとメイクが剥がれ落ちるまで泣いた顔のことだ。頬骨の上のあたりがほんのりの熱い。もしかしたら目元はぱんぱんに腫れているかもしれない。
「見ないでくださ――えっ」
 不意打ちのように顎を掴まれ、ぐいと持ち上げられた。
 ああ、キスされる。そう思った時にはもう、彼の唇は私のものに押し当てられていた。
 触れているだけのキス。ちゅ、とリップ音を立てて離れていった彼の唇は、
「嫌だったら止めてくれ」
僅かに息を吸い込むと、今度は私の唇に襲い掛かった。すかさず舌が口の中に入って来る。
 嫌なものか。脳は未だ寝ぼけているのか、キスをされている理由は分からない。それでも好きな人とキスができて嬉しくないわけがない。止めたくないし、止めてほしくない。
「ん……っ」
「なァ、そんな声」
 まるで夢をみているみたいだが――ひざしさんの長い睫毛も、汗の匂いも、唾液の味も、舌のざらざらとした質感も、唇から漏れる甘い息も現実だ。キスをしながら私の五感が喜んでいる。勿論、心だって。
「こんなトコでやらしい声出すなよ。止まんねえ」
 手と手を固く結んで、更に激しくキスをする。
 息継ぎをする度にひざしさんは「ごめんな」「許してくれ」と謝り続けた。どんな反応をすればいいか分からなくて、私は唇が離れていくまでずっと、彼の手を力いっぱい握り締めていた。

「……大人気ねえよ」
 いつの間にか私はひざしさんの腕に包まれていた。まるで子供をあやすように、彼は私の背中をとんとんと叩いている。どうやらキスをしながら泣いてしまったらしい。
「ごめんなさい。泣くつもりじゃあ……」
「お前じゃなくて俺のことな」
 ハアアア、と彼はビブラートのかかった息を吐き出した。
「本当に悪かった。嫌われたって文句は言えねえ」
「嫌いになると思いますか?」
「ンーどうかな。お前が大女優じゃないといいんだけど?」
「……ひざしさんごめんなさい」
「おおう……そうか……」
「ひざしさんのことは諦めるって言ったのに、諦められませんでした」
「HEY! そっちかよ!」
 ひざしさんは笑い出し、私もつられて笑った。
 泣き疲れて眠ったらひざしさんが居て。キスをされて、抱き締められて、今は二人で笑っている。週刊誌を読んでからこれまでの出来事はやはり夢のようだ。突然ぷつりと糸が切れて、夢から覚めてしまわないか不安になる。
 ひざしさんのシャツを両手で掴むと、彼の腕に力が籠った。二の腕にかかる力は本物だ。
「離れたくねえな」
「私もです」
「でも行かねえと。オンエアまでにお偉いさん達と打ち合わせだ」
 壁掛け時計に目を遣ると、ぷちゃらじの放送開始時刻まで一時間を切っていた。オンエアの準備よりも、お偉いさん達との打ち合わせよりも私を優先して、ずっと手を握っていてくれたなんて。
 私はやっぱりひざしさんが好きだ。好きすぎる。
「なあ、コレだけは言わせて」
「はい」
「るい。俺を信じてくれ」
 彼はパンツのポケットから何かを取り出して、私の手に握らせた。革製のキーケース。
「これ……」
「俺んちの鍵。オンエアの間ウチで待ってて。言っとくけどお前にしか渡してねえから」
 自宅の鍵を私に。ということはつまり、私はひざしさんの……何なのか。もう妹ではないことぐらい分かる。それから適当な女でも。だったら何なのか。言葉にしてほしい。私はひざしさんの――
「ひざしさん……私ってフられてないんですよね?」
「あのさあ、俺の話聞いてた!?」
 聞き覚えのある台詞だ。私が彼に迫った時と全く同じ。異なるのは私を見つめる視線の温度。――あたたかい。
「俺達は付き合ってる、ってこれから局のやつらにもリスナーにも話すから。いいよな?」
 ――ひざしさんと付き合ってるんだ。
 私は彼の言葉を噛み締めながら、夢ならば醒めないでほしい、なんてラブソングの一節のようなことを思った。


 ◇◇◇


 ――えー、今日はいつものルーティーンに入る前に俺の話をさせてくれ。いいよな? リスナー達も聞きてえだろ?
 まず週刊文夏。営業妨害にもほどがあるぜ。ドヤ顔で記事出すならせめて事実を多めに書いてもらえるかなァ? っつーか、取材がぜーんぜん足りてねえのに記事出しちゃっていいの? お前早漏か!? HAHA、あー因みに今、うちのADクンが爆笑しております。だってサー、リスナーはどう思う? 思いっ切り俺のこと侮辱しちゃってんジャン。ヒーローにも人権はあンだよ。事実無根なガセネタばっか書かれたら流石の俺も怒るよ。とりあえず俺から直接編集部に電話するから待ってろよ。
 で! 今までパブリックな場所ではこの話したことなかったんだけどさァ――……話したくなかったんだよ。でも今日は覚悟してきたから聞いてくれ。俺ね、婚約者を亡くしてんのよ。あの戦争で。ヒーローも市民も沢山のヤツが死んじまったよな。この仕事してると嫌でも人が死ぬところを見なきゃなんねえし、もっと若え頃には自分の親友を亡くしたこともあったんだけどサ……人の死ってのは何度直面しても慣れるもんじゃねえし、婚約者を失うってのは流石に、今だから言えるけどキツかったよ。だって一生掛けて守ると誓った女はあっけなく死んじまって、俺はのうのうと生きてんだぜ? なにがヒーローだって、自分を責めたよ。
 それからこの年になるまで、色々あったワケだけど……この話までしちゃう? どーする? ――ディレクターが首横に振ってやがる。ダメ? なんで。俺の番組デショ。えー、大人の事情? また今度? んじゃとりあえず今日のところは置いといて。
 撮られた二人のことを話すな。
 一人目の『同棲愛』って書かれてた子ね。あの子は亡くなった婚約者の妹さんデス。写真撮られたマンションは確かに彼女の家なんだけど、俺達は付き合ってねえし、モチロン同棲なんかもしてねえよ。あの日は彼女と、それからご両親とも会って話したんだ。そろそろ本気で……前に進もうと思ってるって。
 もう分かったダロ? 二人目のあの子は――俺の大事な人なんだ。俺は俺のリスナー達のことも愛してるぜ? お前達の知的探求心を満たしてやりたい気は山々ビッグマウンテンなワケよ。エベレストの頂よりもずーっと高いぜ。でも悪いな。今はそっとしといてくれ。リスナーには改めてちゃんと報告すっから、くれぐれも三流週刊誌なんか信じるんじゃねえぞ? いいな? PROMISE? ヨシ、ザッツオール。
 さァて気を取り直して今晩もHERO FMからテンションHIGH、HIGHER、HIGHESTでお送りして――

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