Dream | ナノ



「チャリティコンサート?」
 フライヤーに印刷された文字を読み上げる。復興支援チャリティコンサート。主催者は地元の交響楽団。開催場所はこの地域で一番大きな、千人以上が収容できるコンサートホール。
「本校のヒーロー科をゲストに迎えたいと申し出があったのさ!」
 根津校長はデスクチェアの上に立ち、フライヤーをばら撒いている。
「断る理由はないだろう」
「クラシックかァー。俺はパス、寝ちまいそ」
「それじゃあ学校の警備はマイク中心に頼むよ」
「ラジャ! イレイザーも残るダロ? コンサートなんか行ってもどうせ寝るしなァ、スリーピーボーイ?」
 同僚達の雑談は頭の中に留まることなく、右から左へと流れていく。
「なになに、もお寝てんの!?」
 マイクの声は聞こえている。だが俺はフライヤーに釘付けになっていた。紙面にずらりと並んだ、各楽器の首席奏者達。そのラインナップの一点から目が離せない。
 楽器を胸に添えて、カメラに向かって微笑む女性。写真の真下には懐かしい名前が添えられていた。記憶のカーテンの向こう側から、「相澤君」と、俺を呼ぶ声が聞こえてくる。
「……俺も行きますよ」
 校長にそう伝えると、フライヤーを引き出しに仕舞い席を立った。「HEY! どこ行くんだYO!」マイクのシャウトが飛んできたが、ひらりと手で振り払った。

 俺はある場所へ向かっていた。中庭の、藤棚の下のベンチ。そこに交響楽団の首席奏者はいないと分かっているけれど、足は勝手に歩みを進める。
 あいつに会いたいと思ったのは初めてだ。こんなふうに誰かを懐かしむようになるなんて、俺は随分と歳を取ったようだ。
「十五年……いや、もっとか」
 今、ベンチには誰もいないけれど、普通科E組の女子生徒の姿が俺には見える。数え切れぬほど交わした「おはよう」も、嗚咽と共に吐き出された「もう、夏は来ないんだよ」も、胃袋の底にずんと落ちた「お互い頑張ろうね」も聞こえる。
「……頑張ったんだな、お前」
 特段親しかったわけではないが、他人と言い表すのは適切ではない。顔を合わせれば挨拶はしたけれど、喜びや悲しみを共有することはなかった。だから友人ではない。先輩でもクラスメイトでもない異性の知り合い。普通科E組の、あいつ。
 会いたいな、コンサートの後に話せるだろうかと考えたところで、俺は肝心なことに気が付く。そもそも彼女は俺を覚えているだろうか。


 ◇◇◇


 その日、私は泣いていた。雄英高校に入学してから初めて迎えた夏のこと。憧れていたフルートのオーディションに落ちて、好きでも何でもない楽器を担当することになった。中庭の藤棚の下にあるベンチに腰掛けて、ひとりで泣いていた、夏。
 ふと視線を上げると、数メートル向こうから私を見つめている男子がいた。髪はぼさぼさで姿勢は悪い。少し離れたところからこちらの様子をうかがっている、野良猫みたいな男子。
「ごめん、うるさかった……?」
「いや。泣き方が普通じゃなかったから。過呼吸になったら危ないだろ」
「え。心配してくれたの?」
「そうじゃない。ただ、一応……ヒーロー科だから」
 ヒーロー科だから何だ、と思ってしまったけれど口には出さなかった。
 後に聞いたら「放っておけないだろ」と、相澤君はなぜかばつが悪そうに言った。見た目はそれらしくないけど、心はしっかりヒーローなんだ。そう、ちょっと感心してしまった、高校一年生の夏。
 

 ヒーロー科の相澤君と普通科の私。同じ時を過ごすことはほとんどなかったけれど、顔を合わせれば挨拶を交わし、ふた月に一度ぐらいは足を止めて雑談をした。
 奥歯に物が挟まっているように話す相澤君を、私は心のどこかで哀れんでいたのかもしれない。嫌われたりいじめられたりしているわけではないけれど、いつもひとりぼっち。だから話しかけてあげないと可哀想だ、なんて思っていたのかもしれない。
 いい人なのにもったいないな。背筋を伸ばせばいいのに。もう少し愛想よくすればいいのに。「おはよう」と挨拶を交わすたびに、私は胸の中でそんなことを呟いたのだった。


「おい」
 高校二年生の夏。正しくはまだ梅雨の名残が私達の前髪をうねらせていた、夏の初め。
相澤君は藤棚の前で足を止め、隣に居た二人に「後で追いかける」と声をかけた。彼の向こうに居る二人の顔は見えなかったけれど、白雲朧君と山田ひざし君のはずだ。『A組の三バカ』は普通科でも有名だったのだ。
「なになにショータのカノジョ?」「んなわけあるか」「だよなァ」そんな会話が聞こえた後、
「また泣いてんのか」
相澤君はズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、私の元へ歩いてきた。相変わらずシャキッとしない姿勢で。
 両目から涙を、鼻からは鼻水を、口からは嗚咽を漏らす私に相澤君はポケットティッシュを差し出した。私はそれをありがたく受け取って思い切り鼻をかんだ。
「もう部活やめたい」
「なんで」
「昨日のコンクールで失敗しちゃった」
「失敗、か」
「銀賞しか取れなかったの……私のせいなんだよね……」
 私が一から十まで――ピンチヒッターとして三日前に急遽ソロパートを与えられたこと、寝る間も惜しんで練習したのに本番でミスをしてしまったこと、ブロック大会への出場を逃してしまったこと――を話す間、相澤君はベンチに腰掛けて地面を蹴っていた。ザッ、ザッと何度も。
「だからって泣いてても時間は戻らねえよ」
「そんなこと分かってるけどさぁ」
「また来年頑張ればいいだろ」
「また来年……か」
「なんだよ」
「私達は、ね。でも……先輩達にはもう、夏は来ないんだよ。私が先輩達の夏を終わらせちゃった。取り返しのつかないことしちゃたのに……どう償えばいいか分かんなくて……」
 校舎の五階、音楽室から合奏が聞こえてきた。チームの皆は前を向いているのに、「お前のせいだ」という視線から逃げてきた私は、藤棚の下で相澤君と座っている。練習をサボって、部活をやめたいと嘆いている。
「……今の言葉、刺さった」
 相澤君は足を止めた。
「また来年、なんて言って悪かった」
「いいよ別に。相澤君は部活やってないから分かんないよね、先輩とか」
「部活も先輩も分からねえけど、なんとなく理解はできる。……多分」
 ひとりごちるように、相澤君はぼそぼそと言う。
「ヒーロー活動にも『また』は無いから。また来年、なんて呑気なこと言ってらんねえなって」
 曲の途中で合奏が止んだ。きっと誰かがミスをしたんだ。音楽室では顧問の先生の怒号が飛んでいるに違いない。
「俺、忘れちゃいけないことを忘れてた。助かった」
「そうなの? なんかよくわかんないけど、相澤君がそう言うなら。お役に立てて光栄です」
「あぁ。インターン行く前に大事なことを思い出せた」
「インターンいつだっけ?」
「来週」
「え、もうすぐじゃん。頑張ってね」
「そっちこそ。部活、頑張れよ」
「うん……」
「本当はやめる気なんかないんだろ」
 音楽室からは何も聞こえてこない。
 でも、私の頭の中では曲が始まった。楽譜の二ページ目には私のソロパートがある。だから……こんなところに居ちゃだめだ。
「……うん。ありがとう」
「俺は何も」
「ありがとう、相澤君」
 私は相澤君と別れ、音楽室目指して階段を駆け上がった。いつの間にか涙はすっかり渇いていた。
 相澤君、なんか変わったな。あたたかい気持ちが夏の入道雲のようにもくもくと、胸の中で膨らんでいった。
 そして夏休みが終わると、相澤君は再び変わってしまった。高校二年生の夏。


「雄英高校。――ゴールド金賞」
 発表を聞いた瞬間、私は仲間達と抱き合った。高校生活最後の夏大会、金賞。悲願のブロック大会出場。一年前に流した悔し涙は、今年は喜びの雨となって私達の顔をぐちゃぐちゃにした。
 この喜びを誰に伝えよう。家族。クラスの友達。別の高校に通っている中学時代の親友。担任の先生。いつも面白い体育の先生と、補習でお世話になった物理の先生。それから――相澤君にも言おうかな。二年生の夏以来、めっきり姿を見かけなくなった相澤君。彼のことを久方ぶりに思い出した、高校三年生の夏。
「――なんだよ」
 藤棚の下のベンチで相澤君を見かけたのは、夏休み明けのこと。校舎に囲まれた中庭はうだるような暑さなのに、彼は何食わぬ顔でゼリー飲料を吸っていた。
「それお昼ご飯?」
「あぁ」
「もっと涼しいところで食べればいいのに」
「どこもうるさいんだ」
 私は相澤君の真正面に立った。なんとなく、隣に座るのは躊躇われた。
 今でも変わらず校舎内ですれ違えば挨拶は交わすけれど、足を止めて雑談をすることはなくなった。近寄るな、構うなと言われているような気がしたから。
「相澤君に報告です」
「ん」
「雄英高校吹奏楽部、県大会で金賞取りました。流石にブロック大会で敗退しちゃったけどね」
「そうか。よかったな」
 相澤君らしい、素っ気ない返事だった。「そうか」と「よかったな」の間に、「近寄るな」と「構うな」が聞こえた気がする。
「また来年頑張れ、って去年言ってくれたからさ。一応結果を伝えておこうと思って」
「また来年……」
 しまった。私はごくりと唾を飲む。

 ヒーロー活動にも『また』は無いから。

 相澤君がそう言ったあの夏、彼は友人を失った。詳しい状況は知らないけれど、白雲朧君が亡くなった時、一番近くに居たのは相澤君だったらしい。
 私は地雷を踏んでしまったかもしれない。
「――私、音大目指そうと思ってるんだ。音楽じゃ食べていけないっていろんな人に言われるけど、今一番頑張りたいのは勉強じゃなくて音楽で」
 口が勝手に言葉を紡いでいく。申し訳なくて、いたたまれなくなって、ぺらぺらと喋り続ける。
「ブロック大会には出られたけど、全国に行けなかったのが悔しくて。もっと音楽やりたいなって思って。だから、現実はそんな甘くはないだろうけど、納得がいくまでは続けようと思ってる」
 言い終えたとき、喉は砂漠のようだった。
 私の進路なんてどうでもいいはずなのに、彼は私の言葉を遮ることなく最後まで聞いてくれた。ヒーローはやさしいんだな、と思った。
「私は……音楽で、相澤君はヒーローだよね。全然フィールドは違うけどさ、お互い頑張ろうね」
「……そうだな」
「いつか私の演奏聞きに来てね」
「いつかな」
 彼と挨拶以外の言葉を交えたのは、これが最後だった。高校三年生の夏の終わり。


「卒業生、退場」
 教頭先生の一言を合図に、担任の先生達が各クラスの前に整列した。
 数拍を置いて、吹奏楽部の演奏が始まった。退場の曲は『栄光の架け橋』。卒業生が輝かしい未来に向かって歩み出せるように。
 一番に立ち上がったのはヒーロー科のA組。担任の先生に続いて生徒達が歩き始める。先頭は『あ』の相澤君だ。
「姿勢、悪……」
 思わず声に出してしまった。姿勢を正して行進する生徒達の中で、相澤君の猫背はよく目立つ。
 相澤君はヒーロー科の生徒で唯一、どこのヒーロー事務所にも就職しなかったらしい。彼はこれから先もずっと、あの姿勢のままなのだろう。周囲がどれだけ背筋をぴんと伸ばしていても、彼はひとりだけ猫背のまま、己の道を歩いていくのだろう。
「元気でね、相澤君」
 どうしてなのかは分からないけれど――もう会えないのだろうと思った。体育館を出て最後のホームルームを終える頃には、相澤君はきっと居ない。記念写真を撮ることも、卒業アルバムにメッセージを書き合うことも、連絡先を交換することもない。
 さみしさが胸を締め付けた、高校三年生の二度目の春。
 相澤君と私はただの顔見知りだったし、友達と呼べるような関係ではなかった。でも相澤君は確かに、私の青春時代を描くピースのひとつだった。
 私はスカートの上で両手の指を動かした。手元に楽器はない。それでも栄光の架け橋の旋律を辿りながら、相澤君の背中を見送った、春。


 ◇


 上手側の前方が招待席。雄英高校ヒーロー科の生徒と、引率の教員達。相澤君は雄英高校御一行の最後列に座っていた。
 チャリティコンサートに彼らが招待されたと聞いて、うれしかった。タンスの奥底から卒業アルバムを引っ張り出してきて、ヒーロー科A組のページを眺めながら、相澤君との思い出を辿った。そして……会いたくなった。相澤君に会って話したい。そんなことを思ったのは、たぶん、高校三年生の県大会で金賞を取った時以来だ。
 卒業式から十五年以上。久しぶりに目にした相澤君は、高校三年生からあまり変わっていないように思えた。片目は眼帯で覆われているし、首は太く、体は厚くなっている。それでもそこに座っているのは相澤君だ。あの頃から無精ひげは生えていたし、髪はぼさぼさだったし、目つきは悪かった。椅子に腰掛けているから姿勢は分からないけれど、今でもきっと猫背だろう。
 懐かしいな。
 心の中で彼に手を振って、スタッキングチェアに腰掛ける。オーディションに合格してから何十回、何百回とこなしてきたコンサート。客席に昔馴染みが居るからか、今日は心が落ち着かない。

 終演後に会いたいな。
 折角だから乾杯できたらいいんだけど。
 でも連絡先知らないし。
 もし結婚してたら、奥さんの許可とか要るかもしれないな。
 そもそも相澤君は私のことを……覚えてるかな。

 オープニング曲が今まさに始まろうとしている。――集中、しなければならないのに、私の頭の中では栄光の架橋が流れ出す。だめだ、集中。すると今度は「頑張れよ」と相澤君の声がする。はっとして上手の客席に目を遣ると、相澤君と目が合った。彼はぐい、と顎で指揮台を指し示した。
「集中しろ」と、言われているみたいだ。
 指揮者が登壇し、拍手が鳴り止む。私は相澤君から指揮棒へと視線を移した。
 やっぱり終演後、飲みに誘ってみよう。期待に胸を膨らませながら、私は楽器を構えた。


〈完〉

[ back ]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -