Dream | ナノ



 シュッ、は丸の音。
 ピッ、はバツの音。
 二つ音をリズミカルに奏でているのは、私の好きな人。彼の右手は赤ペンを握り締めて、答案用紙の上を忙しく走り回っている。シュッ、シュッ、シュッ、ピッ。紙を捲って、もう一度シュッ、シュッ、シュッ、ピッ。どうやら同じ四問を全生徒分まとめて採点しているらしい。時折ピッの回数が増えながらも、赤ペンが刻む四拍子のリズムは狂わない。
 私は少し離れたところから彼の――プレゼント・マイク先生の背中を眺めていた。邪魔をしたくなかったから。
 マイク先生は最後の一枚の採点を終えると、答案用紙の束を閉じ、デスクチェアを百八十度回転させた。
「いつ声掛けてくれんのかなって、俺ずーっと待ってたんだけど」
 橙色のレンズの奥から射るような視線が飛んでくる。
「私って気付いてたんですか?」
「俺を誰だと思ってんの?」
 マイク先生は耳がいい。職員室に入る直前、セメントス先生とすれ違いざまに交わした挨拶が聞こえていたのだろう。
「俺に用事でしょ? 声掛けてくれりゃいいのに」
「大した用じゃないですし……採点を止めさせちゃうのは悪いかなって」
「大した用じゃないのに待っててくれたんだ」
「……折角こっちまで来たので」
 私のデスクからヒーロー科の職員室までは、「すぐ近くですから」とは言えぬほど離れている。それでも私は毎日何かしらの口実を作っては、職員室に足く通う。先生方に郵便物を届ける為でも書類にサインを貰う為でもなく、好きな人を一目見る為に。
 今日はマイク先生と一対一で話ができる。挨拶以外の言葉を交わすことができる。私にとっては大した用事どころかご褒美だ。
「郊外研修の交通費の返金です」
「わざわざ? サンキュー」
「これが私の仕事ですから」
「いつも思うんだけどサ、一人一人手渡しで回るなんてナンセンスじゃねえ? 振り込んでくれりゃいいのに」
「受け取りのサインが要るんです。私も効率悪いなって思うんですけど」
「今時サインねえ。電子印鑑じゃダメなの?」
「って、事務長に提案しときますね」
 そう返事をしたけれど、電子印鑑の提案をするつもりなんて更々ない。マイク先生と関わる機会をひとつも失いたくないから。
 マイク先生は現金の入った封筒と台帳を受け取ると、デスクチェアをくるりと回転させてデスクに向かった。
「サイン、ここだけ?」
 私はデスクの前まで進んで、彼の手元を覗き込んだ。彼との間隔は一メートルにも満たない。この距離からは彼の体のいたるところが――サングラスの下で揺れる長い睫毛から、革のグローブと袖の間から覗く手首の血管まで見える。見えてしまう。
「はい」
「本名だっけ」
「はい。お願いします」
 私は彼の手元だけを――受取者の欄に書き込まれていく『山田ひざし』の文字を目で追いかけた。睫毛や血管なんて見ていられなかった。こんな至近距離で心臓がうるさく騒ぎ出せば、彼に聞こえてしまうだろうから。
「ハイ」
「ありがとうございます。すみません、お邪魔して」
「いいのいいの。目が疲れてきちまってサ、丁度休もうと思ってたし」
「先生方は大変ですね……私は見てて面白かったですけど」
「面白い? どして?」
「皆同じ問題を間違えるんだなって。さっきのところだと四問目とか」
「って分かっちゃうぐらい俺のこと見てたのお!? ヤダー、エッチ」
 マイク先生はデスクチェアごと私から離れていった。両手を胸の上でクロスさせて、クネクネと身体を揺らしている。
「ち、違います」
「動揺してんなァ!?」
 リアクションが大袈裟なのは彼のスタンダードで、私はただ揶揄われているだけだ。そう分かっていても私は取り乱してしまった。彼の言葉は(エッチ、を除いて)間違っていないから。
「違いますって!」
「そんなに見られると警戒しちゃうなー。あ、もしかして俺、狙われちゃってたりする!?」
「話しかけるタイミングを窺ってたんです! もう、人で遊ばないでください!」
「……ふうん。つまんねえの」
 突然彼の声のトーンは落ちて、クネクネは止まった。
 つまんねえの。
 その言葉に引っ掛かりを感じたが、違和感の正体を突き止めている暇は無かった。彼は私の隣まで戻って来て、デスクに頬杖をついて私を見上げた。口元に笑みを浮かべながら。
「なあ。ちょっとやってみる? 四問目」
「えー……生徒さん達でも間違えるのに、私に分かるかなあ」
「大丈夫だって。AかBの二択問題だから確率は二分の一」
「でも、」
「ただのお遊びだから。レッツトライ!」

(4)私はナンバーワンヒーローに心を奪われている。
I am ( A. fascinating / B. fascinated ) with the No.1 hero.

 どきりとした。これは先日の定期テストで出題された問題だし、私が心を奪われている相手はナンバーワンヒーローではない。それでもマイク先生がこの問題を私に投げかけたのはただのお遊びではなく、別の意図があるのではないかと疑ってしまう。
勿論これは私の勘違いかもしれない。百パーセントの確証がないならば、自ら墓穴を掘るような真似はしたくない。
 私は咳払いをして問題と向き合った。AかBの二分の一。仮にも天下の雄英高校で働く者として、人並みの一般常識は持ち合わせているつもりだったが……AかB、全く見当がつかなかった。
「えーっと……ヒントを」
「ヒント? そうだなあ……fascinateってのは『人の心を奪う』とか『人を魅了する』って意味の動詞で、選択肢はどっちも形容詞形な」
「形容詞形……べ、勉強不足です」
「じゃあ『私はあなたに興味があります』って英語で言うとどうなる? コレなら分かるデショ」
 私はあなたに興味があります。
 この問題で私の疑いは確信に変わった。私がマイク先生に特別な感情を抱いていることを、当の本人は見抜いている。その上で私は――まだ揶揄われているのだろうか。
 騒ぎ立つ心をなんとか静めて、私は腹に力を入れて声を出した。そうでもしないと声がみっともなく裏返ってしまいそうだから。
「簡単な英語でいいですよね? えーっと、I am interested in……you、ですか?」
「正解。んじゃ『心を奪われた』は?」
「……B?」
「ベリーグーッド。二点獲得」
 マイク先生はブイサインを作り、歯を見せて笑った。
 私は今、隠すこともせず、にやけた顔を好きな人に晒している。そんな私を見て彼はどう思っているのだろうか。私が彼に惚れていると知りながら、どんな気持ちで問題を出したのだろうか。――知りたい。
「因みにAのI am fascinatingだったらどんな意味だと思う?」
「そんなの分かりません」
「カモン! 諦めンなって」
「だって……英語はそんなに得意じゃないんです」
「だったら『これは面白い本だ』を英語にすると?」
「面白い……えっと、This is an interesting bookかな」
「YES。じゃあI am fascinatingは?」
「私は人の心を奪う……ような人だ、ですか?」
「エクセレント!」
 花火が上がったかのようなシャウトが職員室の中で反響する。同時に職員室のあちこちからざわめきが起こった。マイク先生が手を叩くと、つられて拍手する人がちらほら。
「なんか……すみません……」
「たいへんよくできましたァ」
「誘導尋問みたいでしたけどね」
 周囲からの拍手が止むと、彼はもう一度デスクに向かった。
「俺にとってあんたはfascinatingだよ」
 彼はメモパッドの上でペンを走らせながら呟いた。低く、深みのある声で放たれたその一言を私は聞き逃さなかった。
 俺にとってあんたはfascinatingだよ。マイク先生の言葉を脳はそのまま受け入れた。しかし、それだけだ。その言葉から彼の真意を汲み取ることも、丁度いいリアクションを導き出すこともできなかった。思考が停止するとはまさにこのことらしい。
「オイオイ反応してくれよ。聞こえるように言ってんだから」
 そうは言われても、言葉が出ない。口を開けても喉の奥から出てくるのは音を持たない息だけだ。
「なんか一方通行みたいで寂しいなァ……はいコレ。仕事終わったら連絡して。二人でメシ行こうよ」
 差し出されたメモには数字の羅列。どんなに思考が止まっていても、十一桁の数字が電話番号であることは一瞬で理解できた。
「……返事は? イエス? ノー?」
「い、イエスです」
 なんとか絞り出した声は情けないほど震えていた。
「んじゃ、ヨロシクぅ」
 彼は歌うように言って、テストの採点を再開した。シュッとピッが新しいリズムを奏で始める。先程聞いた四拍子よりもうんと速い、まるで私の鼓動のようなテンポのリズムを。
 私は彼に一礼をし、逃げるように彼のデスクから去った。
「あ、ねえ」
「はい」
「言っておくけど俺は狙ってるから。そのつもりで来てネ」
 背後からトドメの一撃は私の心臓を縮み上がらせた。
 今日はマイク先生と挨拶以外の言葉を交わすことができると、浮き立つ気持ちで職員室へ来たけれど――こんな結末は想定外だ。
 彼が好きだという想いは胸の内に留まっていたくないようで、私の喉から勝手に飛び出そうとしている。せめて職員室の外まで、彼に聞かれないぐらい離れるまでは我慢して。私は唇を固く結んで、赤ペンが刻む拍子に合わせて足を動かした。


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