ねことばか
001
なぁお、と部屋の主に呼びかける。これで、三度目だ。だんだん声が大きくなってしまうのも仕方ないだろう。ぱたん、ぱたんと尻尾が床を叩く。一定のリズムを刻むそれが示す苛立ちは、鋭くなっていく音がよく表現していた。ちらと時計を一瞥する。時刻は、朝の七時を過ぎたところ。幸い彼の仕事には間に合うのだが、主に頼まれたのは六時半の起床だ。とっくに半周してしまった時計の針に嘆息し、彼の上へ跳びあがる。しなやかな動きで枕元へ近づくと、幸せそうな寝顔を拝むことができた。
相変わらず、睡眠欲には弱いことで。ぱたん、とシーツを尻尾が叩く。嘆息する代わりに黒い毛に包まれた手を伸ばした。
ばり。そんな効果音が見えそうな一撃。ふにふにした指先から出た鋭い爪は、主の顔を縦に裂いた。
不細工な悲鳴があがり、ベッドカバーが跳ねのけられる。もちろん、その被害に遭わないようにベッド脇へ逃走済みだ。
「ってー…今日も手荒だな、トウヤ」
睨みつけてくる主に、動じない表情で小首を傾げてみせる。なにかダメだったの、と言いたげに見えるだろう仕草に、主は簡単に黙った。さすが俺のトウヤかわいいぜちくしょー、とぶつぶつ呟きながら時計を手に取り、今度は真っ青になる。朝から忙しい主だ。
「七時過ぎてんじゃん! なんで起こしてくれなかったんだよー」
トウヤのばかー、と吐き捨てて洗面所へ直行する主。なにをいうか、俺は何度も呼びかけたぞ。ばたばた走り回る主を尻目に、優雅な動作で餌の置き場へ足を運ぶ。起きてすぐに用意したのだろう食事を堪能した。
「トウヤ」
食欲を満たし終えたタイミングで呼ばれた名前に、わざと億劫そうな声を返す。しかし、それだけで主は嬉しそうに破顔するのだから、猫馬鹿と罵ってやりたい。
「おいで」
玄関先で、すべての準備を終えた主が両手を広げる。ぱしん、尻尾がひとつ床を叩いた。時計の針は、電車の時間が迫ってきていることを示している。仕方ない。
彼の掌に顔を摺り寄せた。スーツに毛がつかないように、できるだけ直接肌に触れられる場所を選んで身体を押しつける。気持のよい場所を優しく撫でてくれる主に、思わず喉を鳴らした。
これは、毎朝の習慣だ。主は、これをしないと一日元気が出ないらしい。薄く目を開けて様子を伺えば、相変わらずのだらしない笑顔を浮かべていた。会社の女の子に向けてやればいいのに。
なッ。もういいだろう、と体内時計に従い、鋭く鳴いた。それとともに猫パンチを食らわす。スーツを汚さないように掌に当てて、素早く離れる。先ほどまでいた場所に彼の腕が素通りした。
「なんで避けるんだよ、トウヤ…」
出勤前にスーツを汚すやつがいるか、馬鹿野郎。あまりにも情けない声に、威嚇用の声で叱咤する。内容がわかっているのかわかっていないのか、渋々ながら玄関に向かい始めた。
「…やっべ、もうこんな時間ッ。トウヤ、いってきます」
玄関の激しい開閉音の後、どたばたと足音が遠くなっていく。
その音が聞こえなくなってから、トウヤと呼ばれた黒猫はその場を離れた。
久住透哉。
たまたま同じ名前の猫になって一年。
今日も、元友人を見送って一日を始めた。