maskingtape

024

 その言葉に、以前いっていたことを思い出す。明らかに区別して紡いだそれは、泰正に対して思うところがあったことを示していた。

「菊井さんは、泰正から傷害事件のことは聞いたことありませんか」

 物騒な単語が出てきて、太一は、竜崎の顔をまじまじと見つめてしまった。

「知らないんですね。まぁ、それも当然か」

 どこか歪んだ笑顔。完璧だったそれが、崩れていた。太一の顔から視線を外して、彼は、夕空を見上げる。赤く燃えるような空の光は、彼の目元になぜか濃い影を作っていた。

「あいつ、部員を殴ったんですよ」

 血が出るほどまで強く、顔を殴りつけたのだ、と。そのおかげで謹慎処分を受けていた。教えてもらった時期は、彼と出会ったころと重なった。とぐろを巻く暗い感情を抑えた目を思い出す。なにがあったのかは、聞かなかった。あのときの彼は、関わりを避けようとしていたから。すべてを拒絶して、そのくせ、縋るような目をしていた。

「驚かないんですね」
「なんていうか、心当たりがあるから、かな」

 夕日を背にした彼と視線を合わせる。影になった彼からは、表情が見えない。先ほどまでの揺らぎが一切なくなった平坦な声が、言葉を紡ぐ。

「だから、俺は、嫌いなんですよ。なんでも、力で従わせればいいと思ってるあいつなんて」

 違和感を覚えた。太一が考える彼の姿とは、かけ離れている。力で従わせるならば、徹底して太一を振りほどいたはず。感謝なんてしないだろう。そんな、支配者のような姿なら、太一自身近づこうだなんて思わなかったはずだ。

「なんでも、だなんて――」

 影に向けて、小さな声を絞り出す。が、それと同時に彼の背後から野太い声が響いた。太一の名前を呼び、竜崎の前へ飛び出してきた大きな人影。それは、先ほどから話題に上っていた人物だった。

「……泰正くん」

 走ってきたのか、肩で息をつきながら体勢を整える。そうして背筋をぴんと伸ばした。竜崎よりも、少しだけ上背のそれは、彼よりもがっちりした体躯のおかげで、何倍も大きく見えた。

「来るとは思わなかった」

 影が一歩近づく。真っ黒だった顔が、いつの間についたのか店内からの光を受けて浮かび上がった。貼り付けた笑顔。先ほどの柔らかな表情を見ていた太一は、目を見張る。ああ、そうか。嫌っている、というのは伊達ではないのか。本当だったら、相手に不快感を与えないための笑顔だが、これほど警戒心たっぷりの嫌みな表情は初めてだ。今度は、それに気づいたのだろうか。対峙する泰正の顔は見えないものの、ぴりりとした空気が漂っている。

「おまえ、なんで話したんだ」
「ああ、聞いてたんだね。盗み聞きは、よくないよ」

 来ていたなら、ちゃんと会話に参加して。説教じみた、棘だらけの言葉が並ぶ。竜崎が話し終えるか否か。

「その話は、俺らの問題だろ。なんで、太一に話すんだ」

 上背のある泰正が、竜崎の胸ぐらをつかんでいた。ほんの少し浮いた状態の彼は、少々苦しそうに咳き込む。襟元をつかむ泰正の手に手を重ねて、それでも笑顔を浮かべる。

「離してくれない?」
 一瞬の後、突き飛ばすようにして泰正は、彼を離した。体勢を崩したものの、持ち前の
しなやかさで立て直す。ぱんぱんと何かを払う仕草をして、泰正と太一を見やった。真剣な、表情。

「どうして、なんて君のほうがよっぽど知ってる癖に」

 唸る声が、目の前の大きな背中から聞こえてきて、そっと見あげる。大きく刻まれた眉間の皺、ぎりりとかみしめた唇は、青くなっているように見えた。

「――ッいいから、その話はするなよ」
「なんで僕が、きみの言葉に従わなければいけないんだい?」

 背中が、また一回り膨らんだような気がして、竜崎と泰正の間を往復する視線。目が合った竜崎は、この状況にもかかわらず、ふふっと笑ってしまう。それが癇に障ったのか、泰正は強く地面を踏んだ。大きな音がして、それに驚いた太一が、一歩後退ろうとして、腕に痛みが走った。見ると、太く長い指が、腕を握りしめている。びりびりとした熱が、腕を通って肩にまで響く。あまりのことに息をのみ、体が震えた。

「――ッ! ……――――」
「――――……。――――」

 何か言っているのに、聞き取ることができない。やめてください。そう言っているつもりで、言葉にできなかった。唇が震えて、声が喉の奥で絡まる。ただ、唐突に引っ張られて、それにつられて足を動かした。そのつもりだった。
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