〜2〜



 剥き出しの梁、皴の入った硝子、スプリングの皆無なベッド、と船の頂点に立つ者にな相応しくない質素な部屋である。そのベッドも今は金髪の人形に貸しているため、コルテスは古ぼけた椅子に体を預け、呼吸せずに眠る人形の顔を覗き込んだ。

 昨晩、船員に出くわさなかったのは幸運だった。いずれ幾人かに知れることになるかもしれないが、人形のことに口を出される心配は今のところない。街は酔った人間ばかりで、等身大の人形を背負っていても全く怪しまれはしなかった。最も、この容姿では疑いようもない。

 少しずつ時間が経つにつれて、日光は様々な角度から人形を照らした。人工の弱い光とは比べものにならない程、太陽は人形を煌めかせる。穏やかなその表情は、童話に出て来る眠り姫を彷彿とさせた。人形とはいえ男に対しての言葉ではないだろう、と眉間に皴を寄せる。しかし、素直に賞賛しか浮かび上がらない。

 ふとコルテスは引き裂かれた服から覗く腕に目を留める。全身の布が破れ、肌が見える部分は多い。その中で二の腕だけは他と異なっていた。燻した銀の色で、流麗な文字と紋様が画かれていたのだ。

 「Ideal…Dolch?理想の、何だこれは」

 前半は母国語であるのだが、後半はコルテスにとって異国の言葉のようであった。後半の意味は解らずとも、前半だけでこの人形がいかに想いを込められて作られたかが感じ取れる。全ての美を結集させたような人形である、その文字がなくとも込められた想いの強さは誰にでも解るものだった。だからこそコルテスには、何故この素晴らしい人形が捨て置かれたのかが解らない。

 腕に刻まれた、一種の呪いにも見える文字に手を伸ばす。触れるか触れないかのうちに、突然人形の胸が跳ね、瞼が開かれた。ギミックの軋む音も相まって、コルテスの心臓も一瞬止まり、重心が擦れて椅子から落ちかけた。

 「…君は昨日の」

 「ようやく起きたか。急に倒れるもんだからな。とりあえず俺の宿に運ばせて貰った」

 「そうか、迷惑掛けて済まなかった」

 上体を起こし、首を90度しっかりこちらに向け、瞬きもせずに人形は喋った。目立たないように入れられた口元の切れ込みがずれる。完全な会話が成り立つ中、その切れ込みが彼は人形であると再認識させてくる。

 人形は首をかくりと動かし、曲がっていた右肩を見つめた。昨晩まで外れかけていた肩は、不格好ではあるものの、正常な形に戻っていた。腕を回せば音が軋むが、大きな問題はない。

 「悪いが見よう見真似で直したぞ。あまり器用な方じゃないからな、不具があったら言ってくれ」

 「…大丈夫みたいだ。しっかり腕は回るし、外れることもない」

 「そうか、それならいいんだ」

 心配そうな顔を一転させ、コルテスは笑う。安堵から息をつけば、人形はこちらに向き直る。その目と口は開かれ、顔には驚きだけが浮かんでいた。

 人形と目が交差する。海の底とも、森の奥とも取れる複雑な色をした瞳が頭の先から爪先までを走る。選定されているような気分になるが、不思議と嫌悪感はない。それはその視線の持ち主が人形だからなのか、それともこの男だからなのかコルテスには解らなかった。

 「…君は私が人間ではない、と解っているのだろう?こんな不気味な人形を何故」

 「忘れたのか?お前が言ったんだろ、助けてくれって。それからな、目の前で人間が倒れてたら助けるのが常識ってもんだ」

 「私は人間じゃない。動いて、喋り、思考する、人形なんだ」

 人形は左手を持ち上げ、指を1本1本動かす。どの指も曲がる度に球体で繋がった関節が軋み、外側には隙間が生まれる。人工の手に目線を落として嘲るように呟く。その不自然で神秘な光景には無性に彼を惹きつけた。

 「お前は確かに人形かもしれない。けどな、俺はお前と喋ってしまったし、満足とは言えないが傷の手当だってした。だからもうただの人形じゃないんだ、俺にとってはな」

 コルテスが言えば、白磁の肌に赤みが指し、肩が震える。隙間だらけの手は強く握り締められていた。見るからにプライドの高そうな人形のことだ、何気ない言葉が癇に障ったのかもしれない。何か爆弾を踏んでしまったのか、とコルテスは飛んでくるであろう拳に備える。

 いつまで経っても拳は飛んで来ない。受け身を取ろうとしたのも杞憂に終わる。恐る恐る顔を窺えば、人形は悲しげな笑みを浮かべていた。

 「…そうか。君は新しい私の主人という訳か。全く私も凄い運の持ち主だ。こんな直ぐに次の人間に出会ってしまうのだからな」

 ベッドから降り、人形は薄汚れた床に自立する。コルテスに背中を向けたかと思うと、人形は破れた服の衿元に手を伸ばし、そのボタンを外し始める。外套が音を立てて床に落ち、崩されたブラウスから白い肩が見えた瞬間、コルテスはようやく我に返る。

 「お前、一体何を…!?」

 「何って決まってるじゃないか。私は私の使用用途に従おうとしてる。君は私を拾って、修繕した。つまりはこういうことが目的だろう?」

 コルテスの制止に、人形は当然のように答える。問われた意味が解らない、とでもいうようにその表情はどこか間が抜けているが、人形の美しさは微塵も失われてはいない。

 コルテスの制止を無視して服から腕を抜き、ブラウスを肩から羽織る形になる。白いブラウスから、別種の白が覗き、コルテスは罪悪を感じざるを得ない。

 「私は人形なんだ。人間の欲の掃け口、いつの間にかそれが私の役割になっていた。だから…」

 「俺がいつそれを求めたって言うんだ。俺はな、路地裏でぼろぼろになってたお前をただ助けたかっただけでそんな見返りを求めてなんかいない。…それにな、震えるほど怖いと思うならこんなことするんじゃない」

 そっと金髪を掬い、顔を上げさせる。青緑の瞳は僅かに水を湛えていた。望んでもいないのに自らの身体を泣きながら差し出すとは、この人形はどんな生活を強いられていたのか。それはコルテスの想像の範囲から出ることは出来ないが、彼の心の底に突き刺さる。

 少々無理矢理にブラウスを直し、落ちたコートを拾い上げて人形の肩に掛け、ベッドに座らせる。乱れた衣服と髪と白い肌から漏れるのは、コルテスにとって色香ではない。雨の中、暖をとるものも与えられずに捨てられた子猫のように彼の目には映る。

 「とにかくしっかり服を着ろ。それから、二度と自分の身体を無下にするな」

 「だがそれでは私は…」

 「いいか。俺が生きている限り、今みたいなことは絶対にさせない。お前を害させはしない。だからお前、俺と一緒に来ないか?」

 「…私を囲おうと?」

 「違う。俺が欲しいのはそんな冷たい関係なんかじゃない。ただ対等な友人として」

 身を乗り出してコルテスは真剣に言う。言葉の端から必死さが零れ、人形に伝わらないのではないか、と不安を覚える。少々口下手な自分を恨み、何故自分がここまで人形に執着しつつあるのかを疑問に思いながらコルテスは言葉をぶつける。

 彼らしくもなく、下がった頭を上げて見れば、先刻まで泣きそうだった人形は目を細めて笑っていた。満面の笑みではない、呆れと、少しの喜びに彩られた笑みだった。くすり、と空気の掠れる音の後、人形は声を上げ、腹を抱えて笑う。その姿に唖然として、コルテスは全身の力を持っていかれる。

 「友人、友人か…成程、まだこの命、捨てたものでもないのかもしれないな。面白い。君の元でなら私は見つけられるかも、いいや違う、必ず見つけられるだろう」

 「…何を」

 「決まってる。私が感情を持った意味、私が共に歩むべき世界だ」

 球体関節の手が差し出される。寸刻も迷うことなくコルテスはその手を取った。

 「決まりだな。改めて俺はエルナン=コルテス。多くはないが、部下を連れて新たな世界を探している…まあ探検者のようなものだ。それで、お前は?」

 「…私に名前はないんだよ。今まで様々な人間を転々としてきたからな。個人個人、好きなように呼んでいたのさ。だから私はInviernoだったり、Loboだったり、時にはおい、だけで事足りていた。だから君も好きに呼んだらいい。名前などただの記号に過ぎないからな」

 何気ないことではあるが、コルテスは船員達から名前や役職を呼ばれる。確かに名前とは個人を区別するものかもしれないが、記号以上に特別な意味を持つものだ。ただの文字の並びであっても、それを口ずさむ者によって、名前は呪詛にも賛辞にも愛にも変わる。それを知らずにいるこの人形が、コルテスには憐れに思えた。

 人形本人が、自分に名付ける意思はない。消去的にコルテスが名を考えねばならないのだが、このような仕事はあまりにも彼に向いていなかった。

 何か特徴となるものはないのか、と青緑色の目、黄昏の金髪を眺める。これでは全くもって駄目であった。目も髪も、人間と比較にならないほどに美しいが、これでは足りないような気がしてならない。この人形にしか持ちえない、特別な名前でなければ人に呼ばれてはいけない、そうコルテスは思う。

 「左腕の、入れ墨…」

 思い出したのは、破れた衣服により晒された異国の文字だった。名前を持たない、と言った彼が身以外で唯一持っているものだ。

 「俺は心底こういうことに不向きなんだ。お前は好きに呼べと言ったな。その入れ墨は俺には読めないが、お前の持ち物の1つであることに変わりはないさ」

 「君はデリカシーに欠けるな。これが私の忌むべきものだとしたらどうするつもりだい?」

 「忌む物ならばそれはこれから祝うべきものに、それが既にお前の大切なものであるならば宝にまでしてやる。だからその入れ墨から1文字ずつとって‘イド’」

 安直すぎるだろうか、と告げた後からコルテスは不安になった。人形で、名前を持たぬとはいえ、彼は動き、喋る。感情を持つれっきとした「人」に無責任に名前を与えてよいものだろうか。

 こんな適当なもの、この人形に与えるわけにはいかなかった、と思い浮かぶ名を次々と思い浮かべる。だが、どれも彼に相応しくない。自己嫌悪に陥りながら、他に彼を表すものはないかと沈んだ目を向ければ、人形は頬を引き攣らせていた。

 「イド、か…短絡的でセンスの欠片もない。だが、君が私のためにつけてくれた名だ」

 イド、イド、と数回繰り返しているうちに人形は穏やかな笑みになっていく。与えられた名は彼に絡み付き、同化する。目には映らない鎖で縛ってしまったような気持ちになるが、その微かな詫びも一瞬で一摘みほどの悦に変貌する。その僅かな歪みに気がつくことなく、イドは刻まれた文字を撫でた。
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