〜1〜



 空から黒が滲み、海原と一つになっている。頭上が琥珀から碧玉へと色を変えて随分と時間が経った。太陽が身を隠す瞬間に浜辺に丘に、と集っていた人影はもうどこにも見られない。子供達は家へ帰され、大人達が酒場へと繰り出していく。

 日中の労働を終えた街は賑やかだ。闇に負けまい、と明かりを燈し、踊り、歌う。どの酒場も大勢で騒ぎ散らし、祭のようになっていた。久々に上陸し、立ち寄った街の夜はあまりにも騒々しい。喧騒は嫌いなわけではなく、むしろ好きな部類に入るが、長い航海で慣れた波の音に抱かれる夜と切り離され、疲労はもう限界だった。

 「少し見ないうちに世間は変わるものだな。瞬きしただけで時代に置いていかれそうだ」

 酒を呑み交わす男と、美しい衣装を纏って踊る女を横目にコルテスは呟く。その呟きもあっという間に飲み込まれて消える。陽気な音楽と香ばしい料理の香りの中に彼の呟きは雲散する。

 上陸中は何かと忙しい。仕事は食料や武器の搬入だけではなく、破損した部分は修理しなくてはならないし。加えて無駄な戦闘で欠けてしまった人員も補わなくては船は動かない。海の上でも、陸の上でも仕事の種類は違えども量は変わらないどころか増える一方だ。1人で熟すことは出来ないので、副官や航海士と分担するのが常なのだが、今回ばかりはそうもいかなかった。

 大きな被害はなかったが、数日前にコルテスの船は奇襲を受けていた。帆を張るためのロープは千切れる寸前であったし、帆は引き裂かれ、船体に開いた穴からの浸水の害までもあった。船の美しさは身体から滲み出るもの、とよく磨かれた甲板も減り込んだ銃弾と敵のものだけではない血液で汚れてしまっていた。どれも修復が困難なものではない。しかし、船は無くしてはならないものを1つ海へ沈めてしまったのだ。何よりの痛手は航海士を失ったことであった。

 陸にいる間、1日くらいはと思い、船員達には暇を与えている。揺れることのない地面を踏み締め、船上では味わえない上質の酒と女を楽しむために銘々港街へ熔けていったのが3時間前、未だコルテスはどこの店に入るでもなく街を徘徊していた。平時ならば自分もさっさと仲間達と飲みに行くのだが、心がそれをさせない。

 仲間を、友を悼む時間は終わった。今現在彼の前に横たわるのは、航海士の不在、という船にとって致命的な問題である。

 風や波と語らい、星を読み、地図に描かれた地形から安全な道へ船を導く。1つ読み間違えただけで船は浅瀬に、岩礁にと迷い込む。一面の青の中から一筋を拾いあげる航海士がいなくては船は動かないのだ。

 上等の度数の高い酒を浴びて、悩みを忘れて死んだように眠れたらどれほど楽だろう。喧騒の中、どこからともなく囁いてくる誘惑を振り払い、コルテスは溜息をつく。この最大の問題を打開しなければ船に明日はないのだ。

 港街とはいえ、航海を知る者がいるとは限らない。仮に見つけられても大抵はどこかの船員であるだろうし、中途半端な知識を持った輩はそれこそ船を破滅へ向かわせかねない。どこの船にも所属していない、航海を知る者が果たして見つかるのか。

 「仕方がない、どうせ船は出せないんだ。欠けた船員も必要なことだし、情報収集からだな」

 悩んでいても何も始まらない、とコルテスは人の波に揺られていた体を捻る。この港で情報を集めるには酒場しかない。酒場は騒ぎの中心であり、人が集まるということは情報が集まる、ということを意味する。酒以外に人、情報と揃う酒場には宝が落ちていることも少なくはないのだ。現に前の航海士とも酒場で出会い、意気投合の末であった。

 船の命に関わるからには有能な航海士が必要だった。ただ人を募るだけならば広く、安価な酒場を選ぶのだが、心臓とも言える航海士を探すには向いていない、というのがコルテスの見解だった。大衆酒場には大量の情報が流れるが、そのほとんどが役立たないものである。

 適度な混み具合の静かな酒場はないものか、と見回すが、視界に入ってくるのは夜の雰囲気に飲まれて騒ぐ若者が大半だった。皆揃って酒が入っているため、箍が外れて声も大きくなっている。少し肩が当たっただけで揉め事になるのも屡々で、耳を立てずとも怒号は飛び込んでくる。どちらが先にぶつかってきたかだとか、金を盗まれただとか、最初は口だけの喧嘩もいつの間にやら殴り合いと化す。激しさを増す殴り合いを止めるどころか、煽るものだから弾みで酒場のテーブルを倒したり、街灯を壊したり、と被害はどんどん加速していく。更に利害の一致で酔っ払いがそこに加わり、乱闘の華はすぐに満開となる。その中に船員がいないことを願いたいが、それは無理というものだろう。

 巻き込まれないように人を縫って進む。無駄かもしれないが、少しでも良い酒場を、と目と耳を懲らしていれば、その端に陽気な港町から異質なものを拾う。

 薄暗い路地であった。硝子片や使い物にならなくなった木材が捨てられ、空の酒瓶が転がっている。狭い路地裏に大通りの光は届かない。鼠の駆ける路地裏は不気味なものを醸し出していた。

 「役立たず。お前を拾って損したぜ、この化け物が」

 恨みを全面に押し出し、吐き捨てるような言葉が聞こえた。酒気を帯び、呂律の回りきらないその声の身勝手さに怒りを覚える。女を買って、気に入らなかったから捨てたのだろうか。正義感が強い方ではないが、身勝手に他人を振り回す輩を放ってはおけない、とコルテスは人一人通るのがやっとの路地裏に踏み入れた。

 既に路地から男は姿を消していた。崩れそうな煉瓦の壁に背を預ける人間は、この辺りでは珍しい色素の薄い髪をしていた。

 服装を見て、女ではないと気がつく。丈の長いコートからロングブーツが伸びている。髪が長いために解り辛いが胸もない。だが、男だったからといって助けない訳にはいかない。近づいても顔すら上げないのだ。服の傷みと乱れから、余程の怪我をしていると見える。

 「おい、お前、大丈夫か?」

 少し屈んでコルテスは言うが、男は寸分も動かない。呻くこともせず、もしや死んでいるのでは、と不安を覚える。もう少し早く気がついていれば、と後悔が襲う。

 瞳孔を確かめるため、顔に掛かった髪に手を掛けた瞬間、全身の血が退くような感覚に陥る。

 その肌は恐ろしく白く、冷たかった。上質な陶器のような質感を持っている。伏せられた睫毛は男とは思えないほどに長く、引き結ばれた唇の血色の悪さがどこか艶めかしい。どの部分造形を取ってみても、美女の何倍も整っている。仄かに路地へ差し込む通りの光が男の髪に散る。泥に汚れて乱れてはいるが、絹よりも滑らかな手触りだ。背筋が凍るほどの美しさに、コルテスは息を飲む。

 桁違いの美青年がどうしたのだろうか。帯剣もしているため、抵抗できたはずだ。男娼というならば解らなくはないが、ここまでの美貌を下賎の者が買えることもないだろう。

 考えを巡らせたところで何も進展などしない。男はコルテスよりも小柄であったため、自身の宿まで運ぶことに苦労はなさそうであった。力の抜けた身体を持ち上げようと、脇に手を入れれば、異様な音が響いた。

 「こいつ、もしかして…」

 季節の割りに極端に露出の少ない服装である。気温が高いわけではないが、手袋までしなければならない程寒いわけではない。ボタンも限界まで留められているため、皮膚は顔と、少しの首筋しか見られない。

 勝手に見ず知らずの、しかも男の体を暴くのは気が引けるがそうも言ってはいられない。心の中で謝罪を呟き、手袋を取る。

 「…成程、人間離れした顔をしてるわけだ」

 手袋の下から現れたのは隙間だらけの手だった。指は3つに別れ、各パーツが球体と金属によって結ばれている。袖を捲り上げれば手首と肘も同じ構造をしている。男は、人形であった。

 精巧な作りであるが、用途はコルテスには解らない。価値はありそうだが、品物にするにも傷がつき過ぎている。持ち帰ったところで場所を取るだけだ。名残惜しい気はするが、誰かが処分するだろうと人形を元に戻す。

 小さな非現実なんて忘れよう、と気持ちを切り替える。自分が今向き合うべきは航海士の問題なのだ。酒場を探そうと立ち去ろうとした瞬間、背後で布の擦れる音と、消え入りそうな息遣いを聞く。忘れようとした矢先につい振り返ってしまうほどに人形に心は奪われていた。

 「…どこへ行く。私を直してくれるのではないのか」

 「…は?酔うどころか俺はまだ酒も飲んでいないんだ…幻覚なんて勘弁してくれよ」

 振り返れば、正常ではありえない方向に曲がりつつある肩を抑えつつ、男が壁に持たれながら立っていた。その声は苦痛に歪んではいるが、低くもなく、高すぎもしなく、男の持つ雰囲気に良く合っている。作り物の手は見間違いで実際は人間だったのか、とも思ったが、肩を抑える手に手袋は無く、剥き出しの関節が彼が人ならざる物である、と語っていた。

 「ようやく、ようやくここまで来られたんだ。こんなところでくたばる訳にはいかない。私を、助けてくれ…」

 「もういい、喋るな。俺が何とかしてやるからしっかりしろ!」

 バランスを崩し、倒れ掛かった体を抱き留める。体格に合わず、その体は恐ろしく軽い。

 彼が何たるかも気にせず、コルテスは男を背負う。節々の軋む音も、肌の冷たさも何も気にならなかった。ただ、この男を助けなければならない、という使命だけが心を満たし、後も先も考えることなど出来ない。人混みを掻き分け、宿へ向かうこと、これだけが動力となっていた。助けを呼ぶべきかの判断すら付かないが、少しでも安静に出来るところへと駆けるしかなかった。
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