青痣


 いち、じゅう、ひゃく、せん……
 いち、じゅう、ひゃく、せん……

 すべての人間は、数を持って生まれてくる。出生時の体重なんて単純なものではなく、生まれた環境や才能、精神力や体力などを総合したポテンシャル。即ち、生涯年収の大きさに対する期待値だ。
 なんて考えつつ、当たり障りのない文章で日誌を埋め尽くして顔をあげる。月に一度あるかないかなのに、日直は逃げ出したいくらいめんどくさかった。夕日の沈みかけた教室の薄暗さだって、不気味で憎い。それなのに、内申点を気にする僕はこんな時間まで残っている。
 ついでといってはいけないだろうが、目の前で呑気に居眠りをする萩原雪裡も憎い。丁寧に切り揃えられた黒髪が、そよ風を受けて艶やかに靡いている。なあ、お前に僕の身体を見せてやりたいよ。萩原が、そんな僕の視線に気づいたかのように身じろぎをした。
 子どもは親の月収を越えられないと何処かで読んだことがある。ここら一帯じゃ有名な不動産会社のご子息であるこいつは、伸びっぱなしが当たり前の髪の毛も、見えないところに痣をつけられる人生も、想像したことがないだろう。
 こいつが千なら、僕は一だ。

「おい」
「んぁあ……?」
「おい、萩原」
「ん、んん……いひゃい……おはよお、夏野……?」
「荷物まとめろよ。鍵閉めっから」

 乱雑に萩原を起こして離れようとすると、くい、と学ランの裾を引っ張られてしまった。

「…んだよ」
「夏野、これから帰るの?」
「……一緒には帰らねえから」
「え…………、だめ………?」
「……だめだ」
「なんで?」
「女子が騒ぐ」
「…っ、ふ……うはは!夏野そんなこと気にしてんの?」
「っせバカ!一人で帰れ!」

 盛大に噴き出しやがって、馬鹿野郎。せっかく僕が気を遣ってやったのに。
 頭に血が上ったまま萩原に鍵を握らせて教室を出る。怒りで景色を裂くように素早く学校を後にした。

◇◇◇

 萩原はきちんと戸締りをしただろうか。そんなことを考えながら、音を立てないように自宅の玄関を閉めて、二階へ続く階段を登る。
 減りつづけている体重をもってしても経年劣化の進んだ階段はギシギシと音を立てて、居間から耳を劈くような怒号が聞こえてきた。
 なにもかも、普段通りだ。それなのに、胸が新鮮に苦しい。先ほどまで僕がいた教室と、この生活は地続きで、それは当たり前のことなのに、物凄く苦しい。すっかり黄ばんだ障子の貼られた戸を引いて、自室に入る。
 褪せて、縮れて、不規則な畳の上に倒れ込みながら昨日は何回怒鳴られたかな、と不毛なことを考える。部屋に唯一ある窓の方へ視線を移すと、ガラスに張り付いた浅黒い血痕が目に入った。三滴ほどのそれは縦になったM字に見える。カシオペア座みたいだ。柄にもなく、そう思った。
 そういえば、あいつにも、萩原にもカシオペア座がある。あいつの周りでピーピー騒ぐ女どもには分からない服の下、やけに青白い右足の、付け根のあたりに。
 高校一年の夏、プールの授業を受けるために女子のいない教室でクラスメイトたちが着替えているときに知った。僕は担任に事情を説明して雑用をやっていたから、制服のまま机に突っ伏して「またサボりかよ」なんて野次られている最中、斎藤が「萩原にドMの証があるぞ」と騒ぎ立てて、萩原は全裸のまま困ったように笑っていた。
 あいつのがドMの証なら、僕の部屋にある血痕は生きた証だ。寝転がったまま人差し指を空に差してゆっくりとなぞる。ルクバー、ツィー……。ああ、でも、僕のもある意味、ドMの証かな。親に殴られる人生なんて、早く畳んでしまえばいいのに僕は未だにそれができないでいるから。
 何度も何度もなぞるうちに、萩原と自分の存在が重なるような感覚に陥った。僕も、お前になれたらいいのにね。そしたらもう、こんな苦しい思いしなくて済むんだろうな。じわりと滲む視界を誤魔化すように目を閉じて、そのまま意識を手放した。

◇◇◇

 「お、夏野!おはよー」

 背後からヤケに間延びした声が聞こえてくる。萩原だ、僕は即座に理解して振り返らずにずんずん歩く。
 萩原のことは別に嫌いではない。恵まれた環境に生まれ、能天気に生きている萩原の顔を見ているとヤケに腹が立つが、決して顔を合わせたくないわけではない。
 でも、無性に背きたくなる。その原因が羨望か、劣等か自分でも判別はつかない。唯一確かなことといえば、太陽は直視できないということ。

  「なーあ、夏野!夏野!……ひ、お、り!氷織!」
 「……んだよ、っせえな……」

 名前を呼ばれたことに驚いて渋々返事をすると、僕の正面に回り込んだ萩原が嬉しそうに目を細めた。夏野はそのまま、勝手に歩くペースを僕に合わせて隣を歩く。

 「昨日さ、洋ちゃんが夏野のこと褒めてたよ」
 「ふーん……なんて?」
 「夏野は一際字が綺麗だなあって」
 「そうか?」
 「うん、俺も夏野の字、すき」

 ぐ、と一瞬喉が鳴る。好き。すき。すき?いきなり投げかけられた耳馴染みのない言葉に、体温が少しだけ上がったような気がした。言葉の輪郭をなぞるような柔らかい声色が脳に染み付いて離れない。だめだ。隣を歩く萩原が視界に入ることすら耐えられず、数メートル先にある電柱を凝視したまま歩く。萩原は隣で「たはー!言っちゃった……」とひとりで騒いでいて、一体僕をどうしたいんだよ、と思った。こいつは、そんなに、僕の字が……。
 逃げたい。背きたい。今すぐこの場から去りたい。萩原と関わっていると、どういう反応をするのが最善かわからなくなってしまうのだ。でも、名前を呼ばれただけで浮つく心が、勝手に背くことを諦めていく。僕はいつまで、抵抗できるんだろう。余計なことを口走らないようにきゅっと唇を結びながら、いつか見たカシオペアを思い出す。

◇◇◇

 「は…っ、は…、ん……んん……な、つのお……」
 「ん、どうした?」
 「…んぉ、お、すきっ……すき……っ……そこ、もっとお……」

僕の下でシーツをかき乱している萩原が力無く抱きついてくる。甘えた声でおねだりするなんて、萩原は本当に仕方のないやつだ。ガニ股になっている萩原の膝をさらに割り開いて、ゆっくりとカシオペアをなぞる。すると、きゅうきゅうと萩原のナカがうねって、その浅ましく求める身体を咎めるように腰を振った。
 いち、じゅう、ひゃく、せん
 いち、じゅう、ひゃく、せん
 いつか頭に並べた数字が再び僕から通じて萩原へ巡らせるよう、かくかくと腰を振り続ける。本当に、僕とおまえの持つ数字を分かち合うことができたらいいのに。耳の奥でシャクシャクと心音が反響して、内腿に力が入った。蓄積したすべての快感が僕を責めたてる。萩原が僕の腰にぎゅっと足を絡めて、ぐぐ、とぬかるんだ粘膜へ一気に引き摺り込まれてしまった。 あ、このままじゃだめだ、弾けてしまう、そう思ったときには手遅れでガタッと大きな音を立てながら目を開いた。
 目の前に広がるのは、ベッドでも天井でもなく普段通りの教室だった。河本先生が、一瞬だけ物珍しそうな表情でこちらを見る。
 先程まで自分が及んでいた行為をはっきりと思い出して再び机に突っ伏した。背くことを諦めた心が、青白い肌の燃えるような体温を求めている。

◇◇◇

 音を立てないよう、細心の注意をはらいながら玄関の戸を開ける。丁寧に靴を脱いで、息を詰まらせながら薄暗い廊下を渡った。
 そろり、そろりと足の裏で撫でるように階段を上がる。普段通り、僕の身体以上に貧相な階段は悲鳴を上げて、リビングから「うるせえぞクソガキ!」と怒号が飛んでくる。
 彼の世界じゃ彼が一番偉い。そして彼に学費を払わせている僕は、彼にとって敵であり奴隷らしかった。
 ゆっくりと襖を閉める。自室に入って、胸を撫で下ろしながら、彼がなぜ音を立てると怒鳴るのか、僕なりに考えてみる。仮説にすぎないけれど、彼は僕の存在を認識したくないのだろう。僕が、数年前出ていった母親にそっくりだから。
 縮れた畳のうえに横たわりながら、窓から差し込む西陽を浴びる。今日の昼に見た夢をもう一度脳内で反芻した。あれは紛れもなく、僕の願望が見せた夢だろう。
 萩原、萩原は毎日をどのように過ごしているのかな。僕は家に帰ると、いつも萩原のことを考えるよ。経年劣化の進んだトタン屋根のボロ部屋で、僕と君に学校という接点がある事実は奇跡なんだと鼓動が叫んでる。
 潤む目を開けて、窓に染みつく血痕を見た。ルクバー、ツィー。僕の愛おしいカシオペア、僕の、僕の……………

 「は、ぎわら……」

 ふいに口をついて出た言葉は、酷く甘く掠れていた。好きだ。好きだ好きだ好きだ。君のことが好きだ。君から背くことすら困難で、自分から求めてしまうほど、好きだ。そう強く思った瞬間、目頭のあたりで何かが滲んで、脳の奥がぎゅっと痺れる。
 なあ、萩原、君のことを好きだと認めるだけで、これほど幸せになれるなんて知らなかった。呼吸が次第に熱を持って、頬が赤らんでいく。恋なんて甘い響き、僕には似合わないけれど、そんな理由目じゃないほど、確かな希望が胸で輝いている。
 萩原の周りにはいつもいろんな女の子がいるし、萩原と僕には天と地ほどの差があるし、これが叶わない恋だってことは鈍い僕でも勿論わかっている。でも、萩原はわざわざ女子の誘いを断って僕と一緒に登下校するんだ、期待くらいはさせてくれ!

 「萩原……はぎわら……ふふ……」

 上質な飴玉を口内で転がすように、名前を何度も声に出してみる。リビングからひっきりなしに聞こえてくる怒鳴り声なんて気にならないほど、全身は満たされていて、恋とは、萩原とはつくづく恐ろしいものだ。
 なあ、僕は明日からどんな顔をして君と会えばいいのだろう。萩原、はぎわら、僕の……僕の……

 「せつり……」

◇◇◇

 目が覚めて、あたりを見渡すとすっかり窓の外は暗く澱んでいた。時刻を確認すると午前3時、帰宅時よりも部屋のなかの空気が冷え切っている。寝ても覚めても、やはり胸中を締めるのは萩原のことだった。
 好きだ、そう心のなかで反芻するたびに曖昧な自分の輪郭がはっきりするような感覚に陥る。萩原が、萩原への好意が僕の全てを形作っているのかもしれない。
 萩原から見た僕は、どうだろう。考えるまでもないか。彼にとって僕はきっと、ただのクラスメイトに過ぎない。す、すきだ、なんて言われたような気もしたが、彼は人当たりがいいことで有名だし、きっと「おはよう」くらいの感覚だったのだろう。
 きっと素敵な萩原の手のうちには、素敵なものが集まりやすい。家族だって、友達だって、そうだ。そんななかで、"一"の僕はどうしたら君の唯一になれる?
 自らの無価値さを痛感して冷えていく身体を弱々しく抱きしめた。だ、だめだ。このままじゃだめだ。また溢れてしまう。今まで受けてきた暴力で出来た膿が、濁流のように。決して涙を流さないように強く目を瞑っていたら、放り投げていたスマホから小さく通知音がなった。
 しまった、いつもならこんなヘマしないのに。親が起きてヒステリーを起こしたら、顔をあざだらけにされて、また学校へ行けなくなってしまう。すぐさまサイレントモードに切り替えて、メッセージアプリを開いた。
 誰だよ、こんな夜中に。そんな怒りはトーク履歴の一番上に浮上したアイコンによって、容易く吹き飛ばされてしまった。萩原だ。

 『夏野、起きてる?』
 『何か用か』
 『あのさ、今から少し通話できない?』
 『ちょっと待ってろ、俺からかける』

 短い言葉を交わしただけで、脳の奥が煮詰まる。期待でいっぱいの身体で、できるだけ物音を立てないようにボロ家を抜け出した。
 雑に羽織った上着のポケットに手を突っ込んだまま、すっかり寝静まった街を歩く。今から萩原と話ができる、そう思うと胸が震えるほど嬉しい。冴えない月明かりも、今だけはスポットライトだと思える。
 近所の公園について、ベンチに腰を下ろした。ふう、と一度息をついてからスマホのロックを解いて、震える指で萩原に通話をかける。俺の思い上がりでなければ、ずっと待ってくれていたのだろうか。ワンコール目で、すぐに繋がった。

「っ………よ、よお」
「なつのお……ごめんなあ、こんな夜中に」
「で、話って?」
「……んー、とね……」

 萩原の声が、だんだんと曇る。なにか悩んでいるのか、と畳み掛けたくなったけど、自分には見当もつかない悩みを抱えている萩原に寄り添いたくて「ゆっくりでいいぞ」と声をかけた。

「……あの、さ」
「うん」
「おれ、親とケンカしちゃって……あー、やっぱダメだ、なんか、話してると夏野に、会いたくなっちゃう」
「ん、おれも」
「……はは、えー、ほんとかよ……めずらし、夏野が素直だ」

 真剣に話を聞くことに注力しすぎて、ぽろっと溢れてしまった本音に萩原は恥ずかしそうに笑った。でも声色には涙が滲んでいて、少しだけときめく。誰といても楽しそうで、いつでも笑っている萩原の元気がない声を、生涯俺だけが知っていればいい。
 頬にあたる風がやけに冷たい。時刻を確認したら、午前3時57分。わざわざ俺に連絡してくるくらい悩んでいるのだ。萩原は今、きっと家に居たくないだろう。それならば、と口を開いた。

「じゃあさ、今から会わねえ?」
「今から?」
「うん、学校サボってさ、二人でどっか行こう」
「ふ、変なの」
「んだよ、嫌?」
「ううん。サボっちゃお、二人で」

(続く)
  
  秘伝のタレ感覚で継ぎ足します。
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