「あ、雲雀さん」
春にしては肌寒いと感じる風が吹く昼間、男にしては少し高めの声が背後から僕を見る。まるで友達にかけるように軽いそれは、僕を苛立たせるには十分なものだった。だから、噛み付いていたぶってやろうと思った。泣いて謝ってもやめてなんかやらない。これは僕の仕事でもあるし、楽しみでもあった。しかも最近なんかは、楽しみが少なくて困っていたから調度いい。でも、きっとそれは意味のないことになるだろう。理由はいくつかある。まず、声の主は見当がついていて、そいつに噛み付いても意味がないことと、二つ目に、校内巡回中の僕に声をかける輩なんて限られていること。等、とにかくいくつかある訳だが、何にしてもそんなの楽しみの内に入らないことは明白である。
「馴れ馴れしい」
そう言って振り返ると、当たり前のように沢田綱吉がそこに立ち、笑顔を湛えていた。沢田は僕の殺気を察知したのか、少し距離をとっている。そんなところがまた苛々する。風が強く髪を揺らして、前が見えにくくなる。
「そうですか?」
「僕は君と友達になったつもりはない」
「そりゃ俺もないですけど」
悪びれる様子もなく、くすくすと笑う姿に、やっぱりこいつは殺してしまうべきだと思った。徐にトンファーを構えると急にわたわたし始めて、すいませんすいません、と頭をへこへこと下げて何度も謝った。でも、駄目だよ。泣いて謝ってもやめてなんかやらないって決めたんだから。
「はい、終わり」
「痛かった…」
今日はあのセクハラ保健医がいないようだから、自分達で手当をしなければならなかった。保健医のくせに何故保健室にいないのか。大体の予想はつくけど、許されない。今度見かけたらただじゃおかない、そう思いながら沢田の頬に湿布を乱暴に張る。沢田は、いてぇ!と叫んだけど知ったことではない。騒ぐならまた噛み殺す、と呟くとまたすいませんと謝った。
手当が終わると沢田は身支度を整えて、保健室にあるナイロンが破れて中のクッションが見えてしまっている椅子に座ってくるくると回っていた。みっともないから早く買い替えろとあれ程言ったのにあの保健医ときたら。生きては帰さない。
「目が回るよ」
「ちょっとだけなら大丈夫ですよ」
というかどうして僕はここにいるんだろうか。僕はさっきまでこいつを噛み殺していたはずなのに。いいや、僕のせいではない。だって、沢田が手を貸して下さいなんて言うから。俺に怪我させたの雲雀さんなんですよなんて言うから。だから仕方ないことなんだ。決して僕のせいではない。断じて。沢田も沢田で、どうして怪我をさせた相手と一緒に保健室なんかに居られるのだろう。しかもくるくる回りながら鼻歌なんか歌って。何がそんなに楽しいのやら。というか早く帰ったらどうなんだ。授業はどうしたのだろう。色々言いたいことはあるけれど何故か言う気になれなかった。沢田といると時たまこういう感覚に囚われる。僕は時々、沢田綱吉という人間の理解に苦しむ。
「雲雀さん?」
「なに」
「何、考えてるんですか?」
何って、そこまで言って頭が真っ白になった。僕が今何を考えていたかだって?
沢田は少し口角をあげてこちらを見ている。見透かされている、そう感じざるを得ない視線だった。顔が熱い。きっと僕の顔は今みっともないのだろう。沢田が座る椅子のように、中身が見えているのだろう。こんな時に限って風は髪を揺らして僕の顔を隠してはくれなかった。どうとも言いようのない戸惑いが手も足も、心までも揺らすばかりだ。羞恥とはこういうことを言うのだろうと、頭の片隅がそう言った。
「…君は、今すぐ死ぬべきだ」
「ははっ!どうしてですか?」
「…どうしても」
「嫌ですよ。雲雀さんを置いて死ねない」
「ば、か…なの…?」
「そうかも」
堪えられなくて壁に背中を預けてずるずると床にしゃがみ込んで膝を抱えた。すると古い椅子が軋む音と、上靴独特の音ペタペタという音がして、誰かが僕の前にしゃがみ込んだ。
「何なの、君」
「貴方の愛しい人ですよ」
「死ねよ、もう」
「死ぬなら貴方と一緒に死にます」
「馬鹿、嫌い」
「好き、愛してます」
僕の前にいるのは一体誰なんだ。
初:20120518
編:20120722