ついに団地が焼け野原になることはなかった。上空を爆撃機が通ることはあっても、ここは通過点に過ぎず、団地の住民は全員助かったのだ。(もっとも、危険を考えてどこかに引っ越してしまった国民もいるが、それは逆に危険に身を晒したことになろう)
十棟もあるこの団地が何故標的にされなかったのか。爆撃機が上空を飛んでいったということは、国はこの場所を知っている。にも関わらず、国民消化計画実行中であるにも関わらず、この大所帯を焼かないのはいささか疑問に思うところである。この団地にだけ与えられた不自然な平和。当然のことながら、国会議員も全く見なくなった。そうして一ヶ月経ち、半年経ち、ついに一年が過ぎてしまった。いつ目を覚ましても、色褪せたカーテンを開ければそこには昨日と変わらない光景が広がっている。わたしは溜め息をついた。






食料も、ついに底が見え始めたのでまた買い出しに行く。近くの自営店はまだしっかり残っている。ただ、肉の仕入れ先が火事に遭ってしまった為、もう肉の購入は望めないそうだ。連絡もつかないとなると、恐らくそういうことだ。野菜を両手いっぱいに買って、団地への道のりをとぼとぼと歩く。ずっしり重さを感じた荷物も、何年か前から慣れてしまった。慣れ始めた年から、わたし以外に持つ人がいないからだ。

家に誰が入っても、基本私は驚かない。国会議員がいるわけがないし、国民だとしたら許される。国民間には固い結束力があり、強盗や殺人などの犯罪は起きないからだ。国民は国を相手に戦っているわけだし、自分たちと同じ身分の者は仲間、所謂同胞なのだ。家に帰った時、中は荒らされていた。空き巣?と思って念の為に盗られたものなどを探してみると、パズルが盗まれているのに気付いた。わたしが完成させて大事にしまっていたのに。盗まれたのはパズルだけで、お金や数少ない金品は無事。むしろその部分は全くといっていいほど荒らされていなかった。愉快犯なのだろうか。

(…よりによってパズルとはね)

“嫌な記憶”が思い起こされ、わたしは顔をしかめ部屋の端を見つめた。思い出したくなかった記憶。意識すればするほど鮮明に蘇ってきて、わたしの頭をついに一色に染め上げた。彼。わたしが拾い育てた、言うことをきかない生意気な彼。思うように育ってくれなかった彼。それでも寂しがり屋で、わたしと本当の家族になれたことを喜んでいた彼。彼、彼、と海馬は休むことを知らない。今はどうしているのか、気にならないといえば嘘だが、そちらはあまり意識しなかった。ある気持ちの方が勝っていたのだ。わたしは彼に会いたい。

ドアの開く音がした。一瞬彼を網膜に映す、しかしそれは有り得ないと、玄関に続く廊下に顔を出した。隣の住民だった。






この世の中、安全なところなんてどこにもないのだ。背中程のカバンにありったけのものを詰め込んで外に出れば、なるほど隣の住民の言った通り、向かいの団地からは火の手があがり団地全体を柔らかく包み込んでいた。悲鳴と泣き声と誰かを呼ぶ声、それらが一体となってわたしの耳を突き抜ける。再び顔が歪んだ。今度は心も同時に。逃げろ、走っている間にどのくらい聞いただろう、ふと後ろを振り返ると燃え盛る団地へと戻っていく人もいた。死にに行ったのか。

パァン。乾いた大きな音がして、前方で悲鳴があがった。「国だぁ!」誰かが叫ぶ。すると、今まで流れに沿って走っていた筈が、急に人の波が押し寄せてきた。人と人の頭の間から見えたのは、ガスマスクをして銃を構えた「国」の成す列だった。一斉に発砲する。倒れる音が微かに耳に触れた。
わたしも人に倣って体の向きを変えて走り出した。火は大きくうねり、わたしたちを飲み込まんとしている。それでも、国と対峙するよりは生存率の高さは否めなかった。しかし熱い。これでは皆ここで死んでしまうだろう。わたしは流れから外れて団地と団地の隙間に体を入れた。狭くて身動きが取れないが、それでも懸命に奥へ奥へ進んでいく。確か向こうには広い道路があったと思う。そっちへ出てしまえば、あとは何とかするしかない。自分の体と密着している団地が炎の餌食になってしまえば、わたしも薫製にされてしまう。時間の問題だった。気が焦り、なかなか進めないことに苛立ちを感じて舌打ちが出た。

ふ、と右手が軽くなり、続いて右肩も圧迫を逃れた。自由になった右手で壁に手をつき、渾身の力で体を外へ引っ張り出す。やがてわたしは全身が解放され、タイヤの感触を忘れただだっ広い道路がわたしの視界をいっぱいにした。息があがっていて、中身の変わっていない荷物もさっきより重くなった感じがした。さっきの騒ぎとは違い、えらく静かである。全くの別世界に身を投じたのだ。その時だ。

ガチャリ。

それは確かに銃を構えた音だった。息を呑んで、背後の気配に汗を噴き出す。その気配は動かず、じっとわたしに銃口を向けているのだ。相手に動きが無いからといって振り向けない。死を感じた。直後、衝撃が体を駆け巡った。

「よう」

瞬時に分かった。「まさか分かんねえとか言わねえよな」わたしはこの声を知っている。待ち望んでいた“嫌いな”声、ついさっきまでわたしの頭を陣取っていた、彼、

「……あきお」

何年振りにその名前を呼んだのか。何年振りにその語を発したのか。彼もまた、わたしの名前をのんびりと呼んだ。「元気そうだな」あえて銃を下げてとはお願いしなかった。いや、出来なかった。

「声変わりしたんだね」
「ああ。今年で十八だしな」

十八?「親が出生届見せてくれた」そうか、それでもわたしより年下だ。「振り返ってもいい?」「いいぜ。銃も下ろしてやる」深く安堵する。偉そうな口調が昔とまるで変化無いことに笑い出しそうだった。彼は視線を外すことなくわたしを見て、その目が少し笑った気がした。

彼は「国」になってしまった。

「両親とは、仲良くやってるの?」
「ああ、まあな。過保護なのがうぜえけど」
「過保護なくらいが一番だよ」

変なことを言って、彼としばらく談笑した。彼は教養人にもなっていた。色々なことを知っていて、わたしが教えてもあんなに出来なかった読み書きも、今は難しい書物をたしなめられるくらいまでに成長していた。わたしは知っていた。彼は天才型だったことを、わたしが一番初めに分かっていた。不意に会話に立ち止まり、彼が目を下方へ向けた。そこまで彼が変わっていなければ、これは彼の、何か言いたい時にやる癖なのだが、果たして予想通りだろうか。

「…今の生活が苦しい」

それは確かに彼の声であった。

「食い物には困んねえし、洋服だって毎日洗濯されててきれいだ。おれと同じ年の奴だってたくさんいる」

「でもな」わたしは心臓が止まったかと思うほど吃驚した。彼の表情は、あの時の表情にそっくりだった。家を出て行くと告げた時の、あの苦虫を噛み潰したような顔。フラッシュバック、わたしは口が動かなかった。彼は、口の中で行ったり来たりしながら舌の上で転がしていた言葉を、ついに吐き出した。

「お前と住んでいた時が一番楽しかったんだ」

彼は胸ポケットから何かを取り出して、わたしの前で手を開いた。ピースはバラバラだった。それは、わたしの盗まれたあのパズルに酷似していた。いや、そのパズルそのものだった。じゃあ、わたしの家に入ったのは…

「家に行ったら、お前いねえから、出てったのかと思って」

このパズルだけ。それ以上は紡がずに、彼はわたしの瞳を覗いてくる。わたしは彼の探視をゆるした。彼はわたしのことを、目を見れば分かると豪語していた。そんなに分かりやすい人間だったかと、悔しい思いをしたことがある。しかしやはり、彼の前にわたしはあまり大人になれないみたいだ。

「あきお…っ」

是非を問わずに、彼に体をぶつけ背中に腕を回した。体を引くこともせず、わたしの甘さを受け入れてくれる彼は、十八の青年に成長した。

「わたっ、わたしも、あきおと一緒に暮らしたあの時間が好きなの…っ!」

もう戻らない幸せな時間。わたしが国だったら、彼が国民だったら、有りもしない仮説を立てて夢の中で彼と生きるのは止めにした。わたしは現実を抱擁するべきであり、いつまでも子供であってはいけない。彼には彼の人生が広がっているし、わたしという逆も然り。いつか別々の道を歩くことになるのは明々白々の事実だった。

「もっと一緒にいたかったよ…あきおとずっと暮らしたかったよ」
「……」

彼がやるには珍しく、わたしは頭を柔らかく撫でられた。気持ち良くて、寝る時にはもってこいの手つきだ。安心感が身を包むと、今度は肩に手を置かれ体を引き離された。いいか、と言う彼の目は真剣そのものだ。

「おれと逃げよう」

気外れなことを言われたにも関わらず、わたしは即座に首を縦に振った。後に、その場では何を言われたのか分からなかった自分に気づくことになる。けれど、この時は再び彼と一緒にいられるということで気分は高揚していた。彼はまた嘲笑の目つきでわたしに走行を促すと、わたしの手を引いて前を走り出した。「とりあえずな」彼が言う。「お前とまた一緒になれて良かったぜ」

「わたしも…わたしも!」喜々として彼に答えると、わたしの手を掴む彼の腕に心なしか力がこもった気がした。

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