今にも雨が降りそうな曇りの暖かい日にふく風が好きだ。生ぬるいあの感じがたまらない。オレは、きまってその日にベストスコアを出す。気分が良くて、いつまでも走れそうな、そんな気分になり心を適度に落ち着かせてくれるからだ。 「14秒08!風丸、また記録が伸びたぞ」 「本当ですか!?やりましたね風丸さん!」 「あぁ」 空を見上げれば、分厚い雲がかかった暖かい気候の、生ぬるい風のふく曇りの日。オレの記録を伸ばしたのは、オレの才能や練習というより天気だ。喜ぶ宮坂を後目に、オレは離れた彼女を想った。 「今日また記録が伸びたんだ」 「すごいね、この天気のおかげかな?」 「そうさ」 彼女はベッドの上で笑う。花瓶にささっている花を取り替えれば、病室は幾分か明るくなった気がした。 「それより、お前はどうなんだ?」 「私?私は元気だよ、最近調子がいいの」 彼女は半年前に、持病が急激に悪化して入院した。夜中に突然救急車に運ばれ、それから長いこと入院している。半年も入院するとは思ってなくて、それは彼女も同じだった。次の日慌てて駆けつけた時に、彼女は病室で汗をかいてオレを迎えた。つらい、と一言もらして。どうすることも出来ないと悔やむオレに、彼女は手を取り「風丸は私の彼氏。それだけで十分助けになってるよ」と言ってくれた。 「薬のおかげか?」 「リハビリも」 「そうだな」 彼女はオレの顔を見、笑った。つられてオレも笑うと、半分程開けられた窓からオレの好きな風が入り込みオレの髪を揺らした。 「そうだ。今度大会あるんだ。今度っていっても三ヶ月後なんだけどな」 彼女は頷く。 「それで、最後の種目で走るんだけど、それまでにもし退院出来たら…。見に来てくれないか、大会」 彼女の顔が呆ける。それに反して、オレの顔は緊張でガチガチだ。他にさりげない誘い方がないか勿論考えたが、これ以外に良い方法が見つからなかったのだから仕方ない。 「期待しちゃうよ?」 「あぁ。優勝したら、もらった金メダルはお前にやるよ」 風丸は、黙って出された小指に、自分の小指を絡める。約束は守る。風丸はそう心に誓った。 容態が急変したのは、それから三日後だった。大量の血を吐き集中治療室に運ばれた、それを話してくれたのは彼女のお母さんだった。オレは学校が終わると部活に何の断りも入れずに病院へ向かった。体への急な刺激で、いつもより息が上がる。病院に着いた頃には、汗だくで体も熱かった。 病室の前に行くと、彼女の母がいた。オレを見、つらそうに目を伏せる。オレも何も言えずそこに立ち尽くす。そうして随分時間が経った。 「…あいつは」 ききたいこともあり、そろそろ黙っているのが苦しくなってきたので、オレが沈黙を破った。病室はとても静かだ。外の木の葉のざわめく音だけが鼓膜を震わす。 「どのくらい集中治療室に入っているんですか」 「…まだ目が覚めないらしくて、いつ戻れるかは分からないって言ってたわ」 三日前はあんなに笑っていたのに。彼女のいないベッドを見つめる。シーツと布団は真っ白に新調してあり、花瓶にはみずみずしい花がさしてある。きっと毎日取り替えているんだろう、彼女の母が丁寧に。オレは挨拶をして病室を出た。学校に戻る気にもなれず、家に帰ることにした。宮坂や先輩には怒られるだろう。だけど、学校に戻ったところで、彼女のことが頭に引っかかって、練習に身が入らないのは目に見えている。目の前に小石が転がっていた。蹴ると、カツ、と音を立て道路に飛び出す。その小石をしばらく眺めて、無心になろうとしたが駄目だった。彼女の顔が頭をよぎるのだ。 案の定次の日は先輩に怒られた。だが宮坂には心配され、しかし彼女のことは話さなかった。円堂や豪炎寺なんかはオレの微妙な変化に気づいたけれど、だからといって何か言ってきたり訊いてきたりすることはなかった。それが逆にオレに心の余裕を持たせてくれた。 あれから病院には行っていない。花くらい持っていったら、と母親に言われたのだが、花を持っていく、という動作がオレに不吉な良くないことを連想させるのでそれは無理だと首を振った。そして何だか会いづらかった。ケンカしたわけでもないのに、会うのが怖かった。病院に行って、体にたくさんのチューブが付いた彼女を見たくなかった。怖い。怖い。頭の中をその感情が飛び交う。とんだ臆病者だな、自分は弱い人間だ、彼女のそばに寄り添うことが出来ないなんて彼氏失格だ、貶めるところまで貶めて、オレは部活でひたすら走り込んだ。ただがむしゃらに走り続けた。嫌な気持ちを忘れたい一心で、そんなだから記録は思うように伸びなかった。それでも良かった、この時のオレは自暴自棄になっていたのかもしれない、彼女の応援の無い大会など、頑張っても意味がない。先輩はオレに何も言わなかったし、宮坂もオレの雰囲気にたじろいだのか話しかけてこなくなった。それでいい。オレに話しかけないでくれ。独りにしてくれ。 病院には一度も行かず、とうとう大会の日を迎えてしまった。母親がしばしば連絡を取っていたらしいが、オレは彼女のことを何も知らなかった。何も聞かなかった。彼女のことを言う母親を怒鳴りつけた。何て言ったかは覚えていない。ただ心の中は酷く荒んでいた。恐怖が、怖いという感情が靴紐と一緒にオレを縛り付けた。さいなまれていた。 先輩や宮坂が次々に走っていく。最後の種目に出るオレは、彼らの姿をぼんやりと眺めていた。 (…何でだ) 内のオレが声を出した。 (何で、どうして、おかしい、おかしい、あの時は元気だった、笑ってた、おかしい、変だ、夢だ、違う、夢だ、違う!) 目の前が揺らいだ。走り終わった宮坂が名前を呼んでオレの肩に手を置く。その手を振り払って、タオルを掴んだ。本来ならばオレの肩に手を置くのは彼女だ。だけどいない、あいつはもう―― (……もう?) もう、なんだ。 スタートラインに立った。トラックがやけに広く思える。すぐそこにカーブを感じる。両隣が屈んでクラウチングの姿勢になった。 「雷門中、位置についてください」 指示が下った。オレは何もせずただ突っ立っている。先輩と宮坂の視線が肌にさわる。オレは雷門中陸上部期待の星、だから一番大切な種目を任された。期待されているのだ、だけど (…走れない) 観客席が騒がしくなった。大きい行事なだけあって人は腐る程いる。罵声、怒号、様々な声がオレに突きつけられる。 「指示に従わない場合、失格とします」 その声にも何一つ反応出来なかった。それがいいかもな、もうオレに走る気は無い。失格になって、病院に行って、衝撃的でもいい、彼女の姿が見たい。走りたくない。彼女に会いたい。金メダルをあげる約束は、果たせなかった。 「風丸!」 罵声の中にオレを呼ぶ声を聞いた。顔を上げ、近くの観客席を見回す。今の声は。この声は。 「なんで……」 手すりから身を乗り出しオレを見ていたのは、紛れもない、病院にいるはずの彼女だった。 「何で、ここに…」 「約束したでしょ?」 「―…!」 ――それで、最後の種目で走るんだけど、それまでにもし退院出来たら…。見に来てくれないか、大会 「金メダル、早く私に見せてよ」 風丸!と名前を呼ばれた時、呼応するように心臓がどくん、と跳ねた。それまで死んでいた血が息を吹き返して流れ始めた。彼女の声が、オレを蘇らせた。審判が声をかける。どうしますか、棄権しますか。返事をせずに腰を落とした。 いいえ、 (走る) 乾いた音をきいた瞬間、地面を強く蹴った。 首から通してやると、彼女は嬉しそうにメダルのふちをなぞった。 「守ったね。約束」 あぁ、と短い返事を返す。彼女は一ヶ月前に体調がよくなり、それからみるみる元気になっていったそうだ。 彼女は、三ヶ月も会いに行かなかったオレを咎めなかった。頭を下げようとしたら、やめてと止められオレの腕を掴んで静かに首を横に振った。過ぎたことはもういいの。風丸にも、私に会いに行けない理由があったはずだから。彼女がこうも優しすぎるのは、きっとオレのせいだった。 「でも、病院がよく外出許可をくれたな。無断で抜け出してきたんじゃ…」 「違うよ、私そんなことしないよ」 「ははっ、そうだな」 「…風丸、これからはまた一緒に学校行けるんだよ」 「……え、お前まさか…!」 笑う彼女は生きている。オレも顔に笑みを浮かべ、「運のいい奴」とからかって彼女を抱きしめ、肩に顔をうずめた。このまま、オレの頬を流れるものを彼女の肩に染み込ませてやろう。彼女だってオレの肩に同じものを落としているのだから、おあいこさまな。 風の涙 |