「あれ?」

ダンボールをリビングに運ぶ途中に、壁に小さな黒い染みを見つけた。指でなぞって家をぐるりと見回す。その行為に特別なものは無いが、今日から暮らすこの家に親しみを覚えようと思ったのだ。腰元で携帯が震えた。

「…あ、明王」

仕事が終わったら行く、という短文メール。自分も四字だけ打って再び携帯をジーンズのポケットに突っ込んだ。

二階建ての一軒家。洋風で、中は新築かと思うくらい綺麗だった。不動産屋は、以前人が暮らしていたと説明をしたが、とてもそうは思えない。キッチンに錆びている箇所は無いし、風呂にも黴なんてものは見受けられない。極めつけはフローリングだった。子供が住んだことはないと言われても、何人もの人が住んだには綺麗すぎる。しゃがんで光の加減から床を見ても、傷らしき傷は無い。本当に新築のようなのだ。

「鍵閉めねえと誰か入って来るぞ」

「不用心な奴だな」頭上から明王が私を見下ろしていた。さっきのメールを受けてから二時間が経過していた。

「全然片付いてねえじゃん。つか、この家綺麗だな」
「綺麗だよねえ。この家本当に人住んでたのかな」

明王の上着とカバンをテーブルに置き、代わりに軍手を渡してリビングの隅に積まれたダンボールを指差した。軽く十はある大小様々なダンボール。明王の眉間に皺が寄った。そんな顔しながらもやってくれるんだからいい奴である。

「今日の晩飯奢れよ」
「はいはい」

廊下に出た明王が私を呼んだ。明王は私に壁の染みを指摘した。この染みだけで物件安くしてくれたのかもな、そんなことあるのだろうか、明王は階段を上がって行った。軽く水拭きしたから、埃は目立たないはず。ダンボールを置く音をきいて、私はキッチンへ戻った。






今日引っ越したばかりなので材料はあまりない、それでもダンボールから調味料を取り出して、明王が途中で買って来てくれた野菜や肉を使ってそれなりのメニューに仕上げた。明王は満足してくれたようで、三杯目をおかわりしてくる。

「よく食べるね」
「あんなに力仕事すりゃ、腹も減る」
「ありがとね」

明王は、仕事が落ち着けば一緒に住む予定になっている。ついに憧れていた同棲生活がすぐそこまで迫っているのだ。ご飯を食べ、しばらくして帰り支度を始めた明王に、また明日も来てね、と一方的に約束をこじつけた。しかし、次の日の夕方になって、「ごめん。上司と飲みに行くことになった」と断られ、さらにその次の日、「急に出張することになった。一週間後に行く」と、会う日にちを七日先まで伸ばされてしまった。初めの頃はダンボールの片付けに追われていた私だが、三日もすると粗方片付き、ようやく体も慣れてきた。

「二階の掃除が終わってなかったな…」

濡れた雑巾を持って廊下へ出た。そういえば、壁に染みがあったっけ。最近の忙しさに埋もれていた記憶を掘り起こし壁を見ると、私は驚愕した。広がっているのだ。手のひら程のサイズだったのが、今は頭一つ分くらいにまで成長している。私は恐る恐る雑巾で染みをこすってみた。

「……!やだ、」

染みが、伸びたのだ。黒い絵の具のように、横にべたりと色を広げた。気味が悪くて、キッチンに行って雑巾の汚れを洗い流す。排水口に黒い水が流れていき、雑巾は少しの黒色を残して綺麗になった。今のは何だったのだ。もう一度染みを見に行くと、私が黒を広げたままになっている。何となく見ていてはいけないという思いが湧いて、リビングから食器を包んでいた新聞を取り出した。染みを覆い、ガムテープで四隅を貼り付ける。随分と古臭い感じがする壁になってしまったが構わなかった。あの染みが見えなくなければ。






明王が出張に行って一週間が経った。今日来るはずだ。もうすっかり片付いた家を見て驚くだろう。掃除機をかけながら、携帯が鳴るのを待っていた。


ガタッ


「!……何?」

廊下で何かが落ちる音がした。体に緊張が走る。この家には私以外に誰もいない。そのことが余計に私を不安にさせる。音を立てず、廊下へと足を踏み出した。静かな家中。外の音も聞こえない。元々静かな住宅街だ、当たり前といえば当たり前だが、今日は休日である。

壁に貼った新聞が剥がれ落ちていた。その傍で、壁に立ててあった額縁が横向きになっている。心を撫で安心を取り戻して、しゃがんで額縁をまた元の位置に立てかけた。壁にかけようと思っているこの絵は、私の一人暮らしを祝って明王がプレゼントしてくれたものだ。微笑し、染みを覆う新聞に目を向けた。その時だった。あまりの衝撃に瞬きさえ忘れてしまった。

「…消え、てる……?」

私をあんなに気味悪がらせた染みが、最初から無かったかのように綺麗になくなっていた。何でもない壁、私の見間違いだろうか。そんなことはない。私は確かにここに染みがあるのを目にしていた。しかし眼前の事実は覆されない。認めざるをえなかった。

染みは、存在しなかったのだ。

目の前にその事実が突きつけられる。信じられるだろうか?脳裏にしっかり記憶された恐怖があるというのに。いや、信じることは出来ない。今までのは夢ではない。絶対に。

後ろでまたガタンと音がした。振り返れば額縁が倒れている。私は触っていない。さすがに異変を感じてリビングへ足を向けた、その瞬間だった。背中に僅かな風が触り、いるはずのない―…男の低い声が鼓膜を揺さぶった。

「出ていけ」






玄関から騒がしい足音が向かってきて、廊下からリビングに続くドアが乱暴な仕草で開けられた。

「名前!おい、大丈夫か?」
「あきっ…明王、明王、私…」
「落ち着け、何があったか言え」
「無理っ…、だめなの」

毛布を頭から被り震えの止まらない私はどう見ても異常だった。明王の抱擁も通用しない。すっかり恐怖で支配されている私は、毛布の与えてくれる暖かささえ認識することはかなわなかった。

「名前、これは何だ」

分からない。知らない知りたくもない。

「腕のそれ…まるで人の手みたいじゃねえか」

私の腕についた黒い手形など知る由もない――。



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