一体全体、俺は名字を知るのにどれだけの時間を費やしているのか。時間が惜しいわけではないが、あの子がマネージャーになった以上これから会話をする機会というのはいくらでも出てくる。そうなった時、俺は果たして名字を知らないからといって名前で呼ぶことが出来るのか、出来ない。そんな自分に苛立つが、昨日の、あの子と成神の仲の良さにその苛立ちを無理矢理に向ける。同学年だからと納得してるが、やはり心の中ではそれを羨んでしまって、苛々と嫉妬心が抜けない。きっと鬼道や佐久間にはこの状態を知られているのだ。今更、何も隠すことなどないのだが…。 放課後のいつもの練習で、ちょっと変わったことが起きた。 変わったこととは、あの子が俺たちの練習に参加していることだった。ユニフォームではなくジャージだったが、佐久間と鬼道とパス練習をしている。俺は辺見と顔を見合わせたが、その状況を咲山が説明してくれた。きけば、佐久間がちょっとやってみないかとあの子を練習に誘ったとか。マネージャーの仕事が、と一回渋ったあの子を、仕事は後に回せ、と許可を出したのは鬼道で、鬼道先輩がそう言うなら…と了承したらしい。 「何考えてんだろうな、鬼道たちは」 「……」 俺は辺見の言葉に何も返せなかった。あの子の一生懸命にボールを蹴る姿に、言い知れぬ思いがこみ上げたからだ。 「源田!」 不意に名前を呼ばれ、俺は反射的に「あ、あぁ」と声を出した。佐久間だった。 「名前のシュート、受けてくれないか」 衝撃的だった。何がって、この練習の中であの子が俺と関係を持つことだ。俺は動揺する中、曖昧な返事をする。あの子がボールをころころと蹴りながらゴール前に来た。そしてボールを止め鬼道に、そこからシュートは出来ないだのと位置を指摘してもらうと、ボールをその場所まで持っていき再びボールをセットした。 「加減してやれよ」 「あ、あぁ、分かってる」 あの子が深くお辞儀をした。 「よろしくお願いします」 「……いつでもいいぞ」 俺今上手くしゃべったかなと頭の隅で考えた。彼女は少し助走をつけると、ボールを強く蹴った。俺のところへ真っ直ぐに飛んでくるボール。難なく止めると、佐久間の舌打ちが聞こえた気がした。何故舌打ちしたんだ。 「さすがですね、先輩」 あの子が笑った。俺に向けて笑みを、あぁ可愛い、こんな時なんて反応したらいいものか分からなくて、俺はただあぁ、と呟くだけだった。 短針が七を指したところで今日の練習は終わった。 「あ…」 「……!」 教室に忘れ物を取りに行ってる間に、他の奴らは全員帰ってしまったのか、部室にユニフォームを着た人の姿は見受けられなかった。ユニフォームを着たままだった俺は、制服に着替えようと部室の扉を開け――そこにあの子を見た。心臓がまたどくんと波打ち俺を焦らせる。 「まだ残ってたんですか?」 「え、あ、まぁな」 「すみません、すぐ出ますね」 困ったように眉を下げ、そそくさと俺の横を通るあの子を見たその時、俺はとっさに声に出していた。 「名字」 「!…え?」 言ってから、ものすごい羞恥心と焦りと、そして僅かな達成感が心身を包む。すぐ我に返り、何を言われたかいまいち分かっていない目の前の子に、俺は心を落ち着かせると、後ろを振り返りセリフを読むように口を動かした。 「名字を、教えて欲しい」 俺は前を歩く佐久間先輩を見、洞面と顔を見合わせた。 「何故帰りの支度を早くしろと急かしたのか、分からないんだろう」 俺の心を見透かしているような質問を問いかけてくる先輩の横で、鬼道さんのマントが風ではためいた。 「……えぇ、まぁ」 「本当は気づいているだろう、お前も洞面も」 何のことを言われているかは分かっていた。俺と洞面は無言で頷く。鬼道さんが言葉を紡いだ。 「辺見なんかはまだ気づいていないが、源田はやる時はやる男だ。今頃、緊張と羞恥で頭がいっぱいだろうがな」 「……名字です」 小さく呟き出された言葉。それは紛れもなくあの子の名字だった。名字。静かな空気が俺たちを取り囲みそうになって、俺は場つなぎをするように言った。 「これから帰るんだよな」 「あ、はい」 まぁ制服を着ているからそうだろう。愚問、という単語が俺の脳内を足早に通過していった。 「………送る」 一瞬の沈黙のあと、もう暗いし危ないから、とどうでもいい理由を取って付ける。本当は、そんなことが目的ではなかったけれど。名字が「ありがとうございます」と笑顔で言うと、俺の顔が赤くなった。隠すようにかぶりを振り、待ってろと一言告げると、俺は部室に入り扉を閉めその場にしゃがみ込んだ。 |