仲良くなりたい神童






今までに見たことのない、家と言うにも成しがたいこの場所に、彼女は住んでいる。

「さ、上がって」

そう促されれば入らないわけにもいかない。何だかかび臭い部屋の中の薄暗さを見て少し顔を歪めてしまえば、彼女が何とも思っていない声音で言う。「うち、お風呂無いんだけどね。リビングで雨漏りしてて」
果たしてこれをリビングと言えるのか、なんて失礼なことを思ってしまった。八畳もない(いや、六畳くらいだ。しかもここ以外に部屋はトイレと台所くらいしかない)狭い一室に、壁には所狭しと洋服の入った引き出しやタンスが背中をぴたりと付けて存在している。真ん中には小さな丸テーブルがあり、ここで彼女は宿題をして食事をして、母親と団欒していると言うのだ。黙って部屋を見回すオレに、名前は座布団を突き出した。これ、お母さんの。はい、使って。

「神童くんが驚くのも無理はないね。こんな家、見たことないでしょ」
「あ、あぁ。少しびっくりした」
「神童くんは優しいね。少し、だなんて遠慮しなくていいのに」

心を見透かされている、ような。学校から名前さんの家まで歩いてきたからかいた汗なのか、今の言葉でかいた汗なのか分からない滴が顎を伝う。窓が開いているのに風が入って来ない。続けて言った、「うち、クーラーもないんだ」。カーテンがおもむろに動いたのが見えた。

クラスで隣同士の席になった時から、どこか名前さんはオレに距離を置いている節があった。筆記用具を忘れたからとオレの筆記用具を貸そうとしても断るし、オレに何かしら触れられるのを嫌がる素振りを見せたこともある。そんな時だ、国語の授業でいやでも名前さんがオレと関わらなければいけない宿題が出たのは。隣同士で何か一冊読む本を決めて、それの内容と自分たちの考えたことを一ヶ月後に発表するなんてと、それを聞いた時オレは何だか晴れ晴れとした気持ちになった。別に変な感情で名前さんとコミュニケーションを取ろうとしていたわけじゃないし、名前さんに恋愛感情があるわけでもない。けれども、彼女とは仲良くなりたかった。何故か。理由は、席替えをした次の日、彼女が休み時間に音楽雑誌をめくっていたからだ。しかもクラシックの。オレはすかさず話しかけた。珍しかった。今まで雑誌を買って読むくらいクラシックに関心のある同級生はいなかったから。しかし、彼女は雑誌を机の中に入れて、オレから視線を外したままこちらを向きこう言ったのだ。

「ごめんなさい」

は?と思わず訊き返してしまった。彼女は前を向き直してしまい、その日は再びオレの方を向くことはなかった。

あの言葉の意味を、オレはまだ教えてもらっていない。それに、自分じゃ分からない。名前さんが何かオレにしたわけではない。なのに、ああ言われてしまった。言わせてしまった。帰り仕度をして教室を出ようとする後ろ姿に、無意識に叫んでいた。

「国語の、本、何にするんだ!」

そうしたら、彼女は振り返って(でも目は見ない)、足を止めて「じゃあ、今から図書室行こうか」と返したのだった。本はすぐに決まって、一週間の貸出期間中に二人とも読み終わり、また二人で図書室に返却しに行った際にオレは発表原稿を書こうと提案した。オレの家に呼んで作ろうというつもりだった。だが、彼女は首を大きく横に振り、「神童くんの家に行くなら私のうちに来てやった方がまし」と言ったのでオレは彼女の家へほぼ押し掛けるようにして向かった。あれは彼女の誤算だったろう。そしてこうやって名前さんの家にいるわけだ。

「神童くん」

彼女の声で現実に戻った。

「早くやっちゃおうよ」

ちゃぶ台と言われる丸いテーブルに、彼女は真っ白な紙を広げて筆記具を取り出していた。オレも慌ててカバンを開ける。立てて入れたはずの筆箱は、カバンの底の方で静かに鎮座していた。オレをちらりとも見ず、白い紙に本のタイトルを書き始めた彼女の手元を見つめ、おもむろにペンを持つ。彼女の字はきれいだ。中学生でありながらのびやかな字を紙面に奏でる。この前日直をやって日直日誌の彼女のページを見たが、そのページだけどこか別世界を感じた気がしてならなかった。独特な彼女の世界の中に自分も身を投じて、いつまでも温い水の中を泳いでいたい。小説家あるいは詩人のように、そんなことを思いながらあの日の放課後はほうけていたものだ。かたん、と音がする。ちゃぶ台に手をついて名前さんが立ち上がり、台所の冷蔵庫に手をかけた。

「麦茶って飲んだことある?」

あ。オレは、それまで複雑に分かれ道を形成していた思考回路を、きっちり真っ直ぐに伸びた一本道に整備した。彼女は……なるほど、そうか。分かってしまった。オレにごめんなさいと言った理由も、目を合わさない理由も、素っ気ない理由も。雷門商店街の字がプリントされたプラスチック製のコップを二つ食器棚から出した彼女に対峙するように、オレは立ち上がって彼女に正面切った。驚いてはいるが、目を合わさない。しかしもう不思議に思わなかった。

「名前さんは、オレといるのが苦しいんだよな」

確かに的を射た。彼女の瞳が揺らいだ。手が震えていた。

「オレが、金持ちだから」
「……」
「前に音楽雑誌読む名前さんに話しかけた時、ごめんなさいって言っただろ。あれは、オレと同じ趣味でいるのが怖くなったから」
「……」

黙り込む彼女に構わず、オレは話すことをやめない。

「目を合わさないのは、こんなオレを見る自分が許せないから。素っ気ないのは」
「…やめて」
「オレを」
「やめてってば」
「自分とは違う世界の人間だと」
「やめてよ!!」
「ずっと思っているから」

彼女は動力を失った人形のごとく動かなくなった。虚ろな目をしてこちらを見つめるその姿は異形と言えば異形、だけどこれで彼女と向かい合える気がした。だって今の彼女はオレと目を合わせているのだ。やっと、少し近づける。オレはペンを手から離し床に落とすと、名前さんに歩み寄って、コップを持ったまま項垂れている手に触れた。彼女はまた黙っていた。

「オレは、名前さんと同じクラスの、同じ人間だから」

その場にコップを落とした彼女は、オレの手を力なく握り返して、口元をほころばせた。あぁ、良かった。仲良く出来そうだ。






臆病者



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