「いらっしゃいませ」と「ありがとうございました」を言い続けて一時間が経った。今日は混む。特売日でもないのに、何故だかいつも以上に客の数が多かった。

「いらっしゃいませ、お品物をお預かりします」

客からたくさんの食品が入ったカゴを預かり、機械的な作業をこなしていく。笑顔で挨拶をしたが、まだ口元に笑みは残っているだろうか。
ヒロトくんは最初から不思議な子だった。中学生(っぽい)なのに大人びてて、いつも高い肉を買っていく。夏なのにダウンジャケットを着ていて、真冬の格好だ。家では鍋をしているらしい。

「以上でお会計3036円になります」

気さくに話しかけてはくれるが、どこか近寄りがたい雰囲気があって、それからほんの少しこわい。

「5000円からお預かりします」

こわいというのは、漠然とした感覚だが、彼にあまり深く関わってはいけないような気がするのだ。夏彦の言っていた「あまり基山と仲良くしない方がいいぞ」が、その時は真面目に聞いていなかったのに今になって意識に組み込まれている。彼のここがこうだから、とか、彼のあれがどうだから、とか明確なことは分からないけれど、客と店員の距離をずっと保っていた方がいいと、最近思い始めた。

「ありがとうございました。またお越しくださいませ」

客の列は途絶えない。






レジに入って二時間、やっと少し空いたので、商品整理の方に回された。いつも通り野菜コーナーから、乱雑になった商品を綺麗に整えていく。ここは常に慎重になって、野菜を落として傷めないようにしなければならない。
精肉売り場にやって来ると、先の方で値引きシールを貼っているパートさんの姿が見えた。商品はきちんと並べられていて、手を加える必要がないことが一目瞭然である。ここはいい、次は調味料の辺りからだと、視線が横にそれた時、頭の中をガツンと殴られたような衝撃を受けた。

「やあ。久しぶり」
「ヒロトくん…」

すっかり見慣れた姿が、調味料の陳列棚の先に見えたのだ。距離を置こうと決めた相手が、私の方に歩いてくる。私とヒロトくんの距離が縮まる。私はいらっしゃいませと言って頭を下げた。角度がまるで謝罪である。実際、私は心の中で謝っていた。どうしてそんなことをしようと思ったのか、何を謝りたいのか、頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ざって分からない。そんな私の様子を察してか、「お疲れ様」とヒロトくんは言った。

「体調はもう大丈夫?」
「あっ、うん平気…」
「良かった」

何が良いのだろう。私にとっては良いことだったが、ヒロトくんにとっては私の夏風邪が治ったことの何が良かったのだろう。

『オレの漠然とした直感だけど』

夏彦のくれたメールを思い出す。読んだ時は信じられないというよりも、ただびっくりした。そんな突拍子もないことを夏彦が言うとは思わなかったからだ。夏彦はいつでも女の私より現実的に物事を考えて、ファンタジーの世界を小馬鹿にする程だった。しかし、このメールの有り様である。

『だからお前はそうは思わねえかもしれない』

「――名前?」白いものが目の前をゆっくり行き交っているのに気づくと、弾けるように我に返った。それまで動かなかった私が勢いのある動きを見せたので、手を振っていたヒロトくんも少々驚いた顔である。

「やっぱりまだ調子よくない?」
「い、いや!そんなことは!」
「無理はしない方がいいよ」
「あ、ありがとう」

頭のいいヒロトくんだ、このままだと私の考えていることに感づかれてしまうかもしれない。何か話題をそらそうと、私はしどろもどろになりながら話を切り出した。

「今日も和牛を買いにきたの?」
「うん、そうなんだけど…」
「……どうしたの?」

ヒロトくんが視線を遠くに送る。見ているのは精肉コーナー、和牛の置かれている場所だ。そこへ、ちょうどパートさんが値引きシールの機械を乗せた台を寄せて値引き品の選定をしている。その近くを、何をカゴに入れるわけでもなくうろうろする主婦の方々は、おおかた値引き品を狙っているのだろう。和牛には滅多に貼られないから、パートさんの動きを注視しているのだ。
隣でただじっと和牛コーナーを見つめるヒロトくんは、値引きされた商品には微塵も興味がないようだ。

「和牛も値引きするんだね」

その声音はひどく落ち着いている。

「たまにね」
「ここはなんでもそうか」
「え?」
「特別なものなんてないんだね」

私は気がついた。ヒロトくんの様子が変なことに。
怒っている感じはしない。かといって嬉しがってる感じもしなくて、表情は複雑だった。さっき私がヒロトくんに謝罪した時と同じ気持ちかもしれないと、ふと考える。

「悲しいな」

別段悲しげではなかった。本音でないことは分かった。どうしてそんなことを言ったのか、私には全く予想も出来ない。値引きを貼り終えたパートさんがいなくなり、そばで監視していた主婦が群がる。ちょっとした人だかりの中から出てきた主婦の手には肉のパック、やはり値引きシールは和牛にも貼られたようだ。いよいよヒロトくんの表情が険しくなる。

「みんな、自分でも買えるようになるとああやってカゴに入れるんだ」
「そうだね」
「自分でどうにか出来ると思ったら、ここぞとばかりに支配したがる」
「……?」
「オレがどう思っているかなんて、考えてもくれないくせに」

彼の表情が移ったのか、私も怪訝な顔をしてヒロトくんを見つめていた。和牛の話から飛躍してはいないか。でも、それに茶々を入れられる雰囲気でもなかった。今のヒロトくんは、ピリッとしていて触ってはいけないように思えたからだ。私が何か言ったところで、彼の話の内容を全て理解出来るわけではない。彼を失望させるだけだ。
次の瞬間だった。彼が衝撃的な言葉を発した。

「もうここには来ないよ」

ヒロトくんはそう言うと、空のカゴを近くのカゴ置き場に戻して、出入り口の方へ向かってさっさと歩き出した。突然のことに私は動揺を隠せず、「えっ、えっ」と意味のないことしか呟けない。もたつく足を前に前にと出して、待ってと彼を呼び止める。しかし振り向いてくれない。ヒロトくん、と名前を呼んだ。それでも立ち止まらない。

「どうしたの、ねぇ待ってヒロトくん」

そう広くないスーパーだ、出入り口なんてすぐに見える。もともと早足だったのが更に速くなって、私は彼の後ろで小走り状態である。

「待ってってば、…ヒロトくん!」

声を張り上げて、私は止まった。出入り口を過ぎて外に出た。バイト中だ、これ以上は前に進めない。最後の望みとばかりに、すがるようにヒロトくんの名前を叫んだ。
漸く足を止めたヒロトくんは、それでもすぐにまた足を動かしていなくなりそうだった。私はぐちゃぐちゃの頭の中でなんとか言葉を引っ張り出す。

「あの、もう来ないの?」
「……」
「私、待ってるからね、ヒロトくんが和牛買いに来るの、楽しみにしてるから!」
「……そう」
「……っ、ご来店ありがとうございました!」

目一杯に気持ちを込めて頭を下げた。言いようのない物体はまだ私の体を駆け巡っている。それがこのお辞儀で少しでもヒロトくんに伝わるように、どうか届きますようにと、つい目までぎゅっと瞑っていた。






『オレの漠然とした直感だけど』

『だからお前はそうは思わねえかもしれない』

『基山はこの世の人間じゃねえ』






その日、私は初めて客からクレームをもらった。

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