からかう大人ヒロト






午後二時半。今日もまたこの時間が来てしまった。周りの同僚は一斉に私に憐れみや好奇の目を向けてくるし、私に色々言ってくるあの上司でさえ、何も言わなくなる三十分が始まる。別に私は二時半になったからといって、昼休みだったり休憩だったりではないし、二時半を過ぎたからって何も変わるところはない。が、何故だか異様に静かになったこの空間は、私が作り出したとも言える。
受付横のエレベーターが、チン、と高い音を立てた。

「やあ」
「お疲れ様です」

毎日、二時半になると現れるのは、赤くて全く傷んでなさそうな髪質の、綺麗なエメラルドグリーンの瞳を持つ我が社のトップ、吉良社長である。ちなみに年は二十四、この若さで大企業を牛耳るかなりのやり手だ。
大企業に就職出来たとはいえ、事務職の私に、二ヶ月程前からこうやって話を持ちかけてくる社長。同僚に話したら、「月とすっぽんなのにねぇ……」と言われ、私もつくづくそう思ってしまった。非のうちどころのない社長に、就職して二年のまだまだ新米である私が、何故毎日話しかけられているのか。私にもさっぱり分からない。

「どう、今日の調子は」
「順調です」

話題は、仕事のことではなく、他愛ないものばかり。というか、それしか話すことがない。社長は、二時半から三時までのこの時間に休憩を取っているようで、たまに三時を過ぎると緑川秘書が「社長、休憩時間は終わりです」とたしなめに来る。休憩時間なら私に構ってないで社長室でゆっくり休んでいればいいのに、わざわざここで立ち話をする。受付業務に支障が出るかと思いきや、中途半端な時間なので来客も滅多にない。そこはしっかり考えているようだ。

「オレ、来週からアメリカに出張なんだよ」
「そうなんですか」
「泊まるホテルの食事はいいんだけどさ、パーティー会場の食事はあまり美味しくないんだ」
「まぁ……日本人とアメリカ人の味覚は違いますし」
「寿司とか湯豆腐とか出るんだけど、使ってる水が向こうのだから舌に合わないんだよね」

そうは言っても、すごく美味しいんだろう。一流のシェフが作るのだろうし、回ってる寿司を食べても満足する私の安い舌は、外国で白米を食べても感動しそうだ。社長とは住む世界が違うと、パソコンのキーボードの上で手を動かしながら改めて感じる。

「日本でパーティーすればいいのに」
「そうしたら社長が接待することになりますね」
「それも面倒だな。でも、そうすれば移動時間に日数かけることもないから、こうやって君と話す日が出来る」

私は手を止めて社長を見上げた。思わず、思考停止した。今、この人は何と言ったんだろう。聞き間違いじゃなければ、ものすごい、口説き文句のようなことを言われたのだけれど。何も言葉が返せなかった。社長はそんな私を見越してか、眼鏡の奥の瞳をゆっくり細めて笑顔を作った。

「冗談」

あ。「そんなこと言ってたらまた緑川にとやかく言われちゃうよ」やっぱり、そうだよね。曖昧な笑顔を取り繕って、また手元に視線を落とした。何も期待などしていない。ただ、今まで異性と付き合ったことのない未経験な頭がとんでもない勘違いを起こしかけただけだ。そんなことをしてしまっては社長に失礼だ。
私はまた画面に目を凝らし文字を打ち込み始める。以前、社長が作業しながらでいいと言ってくれたので、残業したくない私は惜しんで仕事をする。休憩時間とは言っても、のんびり過ごしていそうな社長にほんの少し羨ましいなんて思うのは間違ってるだろうか。きっと社長は休憩時間外では鬼のように仕事をしているのだ。私なんかには到底出来ない難しい仕事や会合で、日々はぎっしりだろう。甘えたことを考えないで、私は私に与えられた仕事をこなすべきだ。そう自己完結して文字を打つスピードが速まる。

「ねえ」
「はい、なんでしょう」
「好きな食べ物教えてよ」
「食べ物、ですか?」

小学生時代を想起させるような質問だ。私は少し考えてから、「和食ですかね」と答えた。社長は黙って胸ポケットから手帳を取り出すと、小さな紙を取り出して何かを書き始めた。目の端でそれを視認しながら、私は書いた書類を印刷する行動に移る。印刷機が静かに稼動しだした。

「それじゃ、ここの名刺あげる。会社から近いところでね、天ぷらが美味しいんだ」
「天ぷらですか……」
「あれ、天ぷら嫌い?」
「いえ、最近食べてないなぁと思いまして」

そこで社長はにっこりと微笑んだ。あれ、何か変なこと言ったかな。「じゃあ、それ。一度行ってみるといいよ」時計を見ると、三時になる。今日の社長との会話は終わりを告げた。

「またね」

三時になると、社長はさっさとエレベーターの方へ歩いていく。どうも、緑川秘書にここに来られるのが嫌みたいで、三時になるときっぱりと別れを言って戻っていく。私は社長の背中にさよならを言うことがほとんどだ。
社長が去ると、同僚が私に好奇の目を向けてくる。印刷機の前で印刷物を整理する私にこっそり耳打ちをしては茶化すが、私はあまりいい気はしない。変に目立って社内に居づらくなるのはごめんだ。






席に戻って、もらった名刺を見つめた。店名は筆フォントで立派に書かれており、いかにも高級料亭です、な雰囲気が伝わってくる。

(ここ絶対高くて行けない…)

平社員の給料なんてたかが知れている。社長はこれを皮肉か嫌がらせのつもりでくれたのかもしれない。少々むっときたが、冷静になってみると、恐らくそれは有り得ないだろう。そういうことをする人だったら、毎日ここに来た時は自慢話ばかり吹聴するに違いないからだ。しかし、社長はそんなことはしなかった。それどころか、仕事が忙しいだの愚痴を零すこともない。どこまでも出来たお人だなぁと感心すると、うっすらと透ける名刺の裏に何かが書いてあることに気がついた。

(地図でも書いてくれたのかな)

本当にお人好しだ。優男とは社長の為にある言葉なんだろう。社長がここへ来ると、同僚の女の子たちはそわそわする。それが彼女たちを見ずとも感じ取れる。社長は、ルックスは申し分ないし、物腰も柔らかで謙虚だ。あれがもてる男というものか。そういえば眼鏡のフレームも綺麗だった。
軽い気持ちで名刺を裏返して、私は再度思考が停止した。数字が十一桁、横に羅列されている。どうして、とか、なんの為に、とか、そういった疑問が出てくるのはずっと後のことだった。
これは――。






腕時計の秒針が三を回る。






太陽の足音


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -