鳥の囀りしか聞こえなかった邸内が急に騒がしくなった。どうやら大きな任務を終えた彼らが帰ってきたらしい。使用人たちが慌ただしく廊下を走り、その顔は若干青ざめている。それもそうだろう、彼らはここを望んで本家から異動してきたわけではないのだ。一つでも粗相をすればあとは死を待つのみである。ボスの機嫌を損ねれば最期、明日は見られないのだ。 私もそろそろ読書をやめて彼らの元へ向かわなければいけない。いや、正しくは「彼の元へ」だろうか。 「もっ、申し訳ございません」ドアを隔てた遠くの方で謝罪が聞こえた。「すぐにお呼び致します」あぁ大変だ。徐に立ち上がって廊下へ足を踏み出す。私が行くまで無事に生きていてくれればいいが。 使用人は腰を抜かしてその場に尻餅をついていた。年端二十にも満たない程の若い女の子。最近入って来た子なのだろう、大方、先輩に出迎えを命じられたに違いない。彼らの出迎えは命がけだ。任務を終えた後というのは、皆非常に興奮していて、まともな会話を臨むことなど出来はしないからだ。 私は倒れた彼女の傍に駆け寄る。彼女は私を見ると、まるで神様でも見たように濡れた瞳を輝かせた。そのあどけない表情に赤色を見つける。頬に切り傷が出来ていた。これは…また彼の仕業か。 一つ、深いため息。 「その傷、医療班に治してもらってね」 「は、はい」 あらん限りの力を込め、どうにか立ち上がった彼女は、ご丁寧に頭を深々と下げて逃げるようにその場を後にした。逃げたい気持ちは分かる。別にそれを咎める理由もないので、彼女の後ろ姿を温かく見守ってから、私は床に軽く手をついて腰を上げた。ボスとスクアーロ、レヴィにルッスーリアは既に居なくなっていて、各々部屋に戻ったのだと思う。そして、私は彼女の頬を傷つけた張本人を静かに睨んだ。 「しししっ、何だよ」 「彼女は何もしてないでしょう。理由も無しに怪我させないで」 頭に乗るティアラは、彼が何者であるかを高らかと主張する。プリンス・ザ・リッパーの異名を持つベルフェゴールだ。出身国は不明だが、昔どこかの国の王族だったらしい。ティアラは子供時代からの彼の所有物だ。ベルは見えない瞳を私に向けてにたりと笑う。全く反省している気配は無いが、雰囲気からしてあまり興奮していないようだ。 「次やったら怒るから」 「うっせーな」 「なっ」 「ベルセンパーイ」私が怒声を発する前に、私の近くにいたカエルが険悪な空気を制した。その声はこの雰囲気の中であまりにも気抜けしていた。ベルも私も彼を見る。 「あんまりいじめないでくださーい。みっともないです」 「は?」 「任務が終わったのにそのダサいナイフ見せびらかすとか、自慢以外の何物でもないですよー」 「…フラン」 「黙っててくださーい」 私は口を挟めず押し黙る。フランは至って平生とした顔つきで誰とも視線を合わせずどこかを見やっていた。素早く、ベルが右手にナイフを携える。フランは気に留めていない様子だ。 「てめー、ここでぶっ殺されたいか」 「全く、人間として成すべきところも成っていないで、よくここまで成長しましたねー」 「黙れっ!」 ベルのナイフがフラン目掛けて飛んでいく。ナイフは狙い通り、カエルの被り物に突き刺さり、フランは短い声をあげた。根元まで刺さったナイフ。普段だったら即死に近いが、どういうわけかフランにはその常識が通用しない。 「痛いですよー」 「もういっちょ!」 「でっ」 カエルの頭はナイフだらけだ。ベルが続けざまにナイフを二、三本放つ。「しししっ、サボテンの出来上がり」フランの表情は微も変わらず、後ろで手を組んだまま私の目を見た。 「どう思いますー?」 「…何が?」 「ベルセンパイの頭ですよーおかし…ゲロッ」 「ちょっと、ベル!」「全身サボテン決定な」私は、両の手が許す限りのナイフを持ってフランを狙うベルの前に立ち、フランの盾になる。これ以上は流石に危ない。「どけよ」殺気立つベルに小さく身震いをする。本気でやりかねないな…。フランもフランで悪いのだが、今は守るのが先だ。私の行動に、後ろで手を叩いて感心しているカエル男は、後でしっかり教育しよう。 「お前ってフランに甘いよな」 「甘やかしてるつもりは無いけれど」 「ミーの味方なんですよー」 「フランは後でね」 「あれ」 「しししっ、バカガエル」 フランも一応ヴァリアー幹部だから、私がこんなことしなくても全然問題は無いだろう。しかし、これでベルがまたナイフを放ったとして、ケンカが更に激しくなるのは目に見えている。だから私はフランを庇う。ベルの興奮も止める為に。…しかしベルの方は段々落ち着きを取り戻してきたようだ。一方の、フランの憎まれ口は閉じる気配が皆無である。全く、どう育てたらこんな子に成ってしまったのか。 ベルがナイフを仕舞ったところで、私は安堵の息を吐いてフランを顧みた。 「フランは後で私の部屋ね」 「めんどくせー」 「面倒くさいじゃないの。元はといえばフランが口出すからこういうことになったんでしょう」 「怒られてやんの。マジでガキだな」 「黙れ堕王子」 「あ?」 「フラン!もういい加減にしなさい!」 私の顔すれすれにナイフが飛んできてフランのカエルに刺さった。驚いて頬に手をやるが、怪我はしていない。「オレ王子だからお前には当たんないようにしたんだよ」この男…。万が一当たってたらどうするつもりだよ。 「これ以上はさすがに痛いですねー。お願いですー、ミーを守ってくださーい」 「フラン。私を使うんじゃありません」 my sister,my sister 「姉さんはいちいち大袈裟なんです」 「何が」 穴だらけになったカエルを哀れみの目で見つめる。これの代えはあるのか。ベルに返す用に、私がナイフを磨いて並べる傍ら、フランは刃元を簡単に折り曲げている。返す気などさらさら無いようだ。 「あんな奴と張り合うだけ無駄です」 「こら。上司をそんな風に言ってはだめよ」 「ちぇー」 「無駄って言いながらフランだってベルとケンカするじゃない」 「――よし、出来た」宝石のように輝くナイフをハンカチで全て包み、それを胸に抱える。私が立ち上がると、フランも続いて立ち上がった。もしかしてついてくる気では…。 「姉さん一人で行かせるのは不安なのでミーも行きますー」 「大丈夫、返したらすぐ戻ってくるから」 「いいえ、あの堕王子のことだから部屋に入ったら最期です」 まるで説得力がない。今までに幾度となくベルの部屋に入っているが、手を出されたことは一回も無い。ベルも私も、お互いに特別な感情は持ち合わせていない。フランの行き過ぎた心配である。 --------- 数話続きます |