目の前に差し出されたのは美味しそうなお菓子、ではなかった。二段になっているその「箱」は塩辛いにおいがした。「…何ですかこれ」何故だか仁王立ちしている般若のような顔の彼女に、反論する権利は許されなさそうだ。

「何って、弁当」
「ベントウ、ですか」
「そう。ふりかけのかかった白米と塩鮭と小松菜のおひたしと煮物」
「うわ、ニホン食」
「全部。食べてね」

にっこりという効果音が似合う笑顔なのに、背後に禍々しいオーラが見える。悪魔の僕でも少々圧倒されるくらいの威力。人間のくせに何なんだ、このどす黒い感情は。とんでもない女だ。「僕、塩辛いの食べられないんです」

瞬間、彼女の目がぐわっと見開かれた。

「食べられないんじゃないでしょ?“食べたくない”んでしょ!いつも甘い物ばかり食べてたら体壊すよ!?言ったって聞かないから弁当作ってきたの!さっさと食べなさいよ!」

随分理不尽な話だ。手に持っていた棒キャンディーは回収された。僕の周りのありとあらゆるお菓子の袋が彼女の腕に抱えられる。ついに身辺からお菓子が消えた。取り上げられたお菓子は大きな袋の中に無造作に容れられ、口をしっかり縛られてしまった。呆然とする僕の前には、先程から不快なにおいを放つベントウという代物が。食べたくない。雰囲気からして手作りのようだが、お菓子じゃないから喜べない。そもそも彼女がお菓子を作ってくれたことなど過去に一度もない、ということを思い出した。

「塩辛いのなんか食べたら舌が腐ります」
「腐りません。あなたのお兄さんは腐ってません」
「僕と兄は舌が違…」
「そんなわけないでしょ!嘘つくな!」

逃げ道がない。ためしにベントウの蓋をそろりと開けてみる。「うわ、美味しくなさそう」素直な感想を述べたら、恐ろしい形相をした彼女にぎらぎらと睨まれた。毛ほどの恐怖を感じる。ほんの少しでもこの僕に恐怖を与えた彼女を心の中で称賛した。人間に恐怖するなんて、悪魔のくせに情けない…と嘆きたいところだが、どんな悪魔だってこの目で睨まれたら恐怖を感じるはずだ。腹をくくるしかないか。半分諦めの気持ちでスプーン(僕はハシが使えないので)を持つ。

「ちょっと待った」

いざ死に行かん、と覚悟を決めた途端に、彼女からストップがかかった。

「何ですか」
「いただきますして」
「はい?」

ベントウを挟んだ向かい側に彼女は座り、背にお菓子の入った袋を置くと両手を顔の前でぴったりと合わせた。「アマイモンもやって」言われるがまま、真似をする。そして彼女は「いただきます」と言った。

「誰に言ってるんです?」
「この食べ物たちによ。白米を育ててくれた人や鮭を育てた海、小松菜や煮物の人参やじゃがいもを育てた土に」
「はぁ」

僕には到底理解しがたい世界観だ。でもやらないときっとまた彼女は怒りだすに違いない。仕方なしに胸の前で手を合わせた。いただきます。

「――んぐっ」

危うく戻すところだった。今までに味わったことのない刺激に、舌が驚いている。彼女が期待の目で僕を見る。どう?と訊きたいのだろう。正直言って、美味しくない。ものすごくいやな味。言ってもいい、彼女は怒ることはあっても悲しむことはないと思う。このシオジャケは絶対体に悪い。






からん、とベントウ箱に乾いた音が響いた。すごい。僕はすごい。なんとあの塩辛い物たちを残らず食べてしまった。彼女も感動したのか、いつもは見せない輝いた表情でベントウを見つめている。

「すごい!アマイモンすごいよ!全部食べたよ!」
「うえっぷ…気持ち悪い」

普段食べないものを一度にこんなに大量摂取したため、腹がかつてない程に膨れている。動くことも困難な状態だ。動いたら出そうな気がする。色々と。
苦しそうな顔をしていたのか、彼女はベントウ箱から僕に視線を移すと、急に慌てた素振りになった。

「大丈夫?顔色が悪いよ」
「食べすぎました」
「え、量多かったかな」

私いつもこの弁当箱で食べてるんだけど。僕の理解の範疇を超えた発言だった。それはもうさておき、口の中がまだ満たされていないように思える。常時甘いお菓子で占められている口内は、それが決定的に欠けているのだった。

「あの」
「どうしたの?」
「そろそろ僕のお菓子、返してくれませんか」

彼女にお菓子を取り上げられた理由は、僕がお菓子しか食べなかったからだ。ベントウを食べた今、もうその理由も目的も無効になった。意外にも彼女はあっさりと返してくれた。ただし、一日三つまで、と条件をつけて。

「それは無理です」
「えーなんでよ」
「僕に必要なエネルギーだからです。一日三十個は食べないと頭が回りません」
「食べすぎ!」

諌める彼女を尻目に、僕は大きな袋の中に手を突っ込んだ。手に触れた感覚としては、この袋の中身はマシュマロだ。引っ張り出してその袋を目にした時、僕はマシュマロの入った袋を即座に離してしまった。

「アマイモン?」

お菓子を見てこんな感情になるのは初めてだ。あの大好きなお菓子を、食べたくないと思った。頭では求めているのに、体は受け付けていない。もう胃に空きがない。何という矛盾だろうか。大きな袋を静かに背後に回した。

「食べないんだ」
「誰のせいで…」
「え、私?」

頓狂な顔にすっとぼけた声。天然なのか馬鹿なのか。どちらにせよほんの少し恨みを覚える。

「はぁ…責任取ってくださいよ」
「外で走ってきなよ。いい運動になるよ」
「悪魔がそんな人間じみたスポーツすると思いますか」
「だからって奥村くん狙っちゃだめだからね」
「……」

彼女は人間だ。悪魔である僕が逆らえないなんてこと、あってもいいのだろうか。これも惚れた弱みに違いない。厄介な弱みを握られたものだ。

重い腰を上げる。さっきは全く動けなかったが、今はどうにか歩けそうだ。僕が外に行くとでも思ったのか、つられたように彼女も立ち上がる。――全く、少しは身の危険を感じろっていうんだ。何も知らず傍に来た彼女の腕を掴んで引き寄せ、かみつくように唇を押しつけた。「ん、っ!?」予想外、とでも言うように瞳が揺れた。口内に舌を割り入らせて蹂躙すれば、顔を真っ赤にしてすがるように僕の服を掴む。腰を支えてやって、大きなクッションの上に彼女をゆっくりと倒す、肩で息をしながら僕を睨みつけてきた。

「いき、なり、何!」
「僕、室内で出来るいいスポーツを思いついたんです。ただ、あなたに協力してもらうことになりますが」
「な、なにっ…!」
「何って、訊くんですか。言わなくても分かるでしょう」

いよいよ反論の余地もなくなった彼女は、手足を必死にばたつかせて僕に抗う。それでいい。僕の支配欲がぐんぐん深くなっていく。彼女の首筋を目で捉えて己の上唇に舌を這わせ、胸の前で手を合わせた。

「いただきます」

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