となりかくれんぼ









 気づけば俺はいつでも一人だった。
庇護されるべきの幼少時から、俺の隣には誰も居なかった。
 子供であるが故に得られるはずの親からの愛は与えられず、抱きしめられる暖かさも知らずに生きてきた。そもそもそんなものがあることさえ知らずに、生きてきた。

 ただひたすらに俺は一人で、粗雑に置かれた食料でなぜ存在するのか分からない己の命を繋ぐことに必死だった。
 時には食料とも言えないそれを貪り、時にはかびた一切れのパンを貪り、時には暑さに嫌な匂いを漂わせる水分を貪り、何のためなのか、誰の為なのか分からないままに俺は生きながらえてきたのだ。
 俺にとってそれは日常で、俺にとっての日常も他の誰かにとっての日常でもあるものだと思っていた。きっと俺にこんなことをするあの人も、あの人をただそばから見つめるだけのあの人も、俺と同じように一人で箱に詰められて生きているのだと。
 けれどもそれは違った。ある日俺は俺が日常であると思い、そして他人にとってもそうであると思っていた日常が、実は普通ではなく異端なのものであると知った。

 俺の日常は、普通ではなかったらしい。
それは、ほんのささいな興味心。絶対に開けるなと言われていた扉が少しだけあいていて、俺はついその向こう側が気になり覗き込んでしまったのだ。昔扉を開けようとして受けた背中の傷がやめた方がいいと囁くように疼いたが、俺はその隙間に抗えず重い体を引きずり息を殺して覗き込んだ。

 そこには、あの人とあの人と…俺と同じか少しだけ小さな体をした何かがいた。あの人達に比べると短い手足を精一杯に伸ばし、何かは何かをせがんでいた。はじめ、俺はその行動の意味が分からず食い入るようにあの人達の動きを見ていた。眼球が乾き切ってしまうほど見開いて見つめる俺の視線の先で、あの人は俺には決して向けることはない暖かい表情を浮かべて、そっと何かの体を抱き上げた。ただそばで見つめるだけだったあの人も暖かい表情を浮かべて何かを見つめている。そして、いつも俺が口にしているような物ではなく、色とりどりでたくさんの綺麗な皿に乗せられた、きっと『美味しそう』である食べ物が並べられたテーブルを囲み、それは『楽しそう』に『食事』を始めたのだ。俺のように貪るのではなく、閉ざされた窓から時折差し込む日差しのようにキラキラしながらあの人とあの人と何かは急ぐわけでも焦るわけでもなくゆうたりと、食事を、食べていた。

 その瞬間、俺は理解した。
 どうやら自分は人間という生き物から見放された存在であったのだと。
 だから俺はあの人達と同じ空間にいることはおろか、言葉さえ交わしてはいけなかったのだと。
 そしてあの人達に見放された俺は、人間という枠組みから外れた、なり損ないであるのだと。

 静かに静かに、あの人達に気づかれぬよう扉をしめて、俺は気づいてしまった事実にそうだったのかと納得し、ではどうやったら自分は人間になれるのかと考えながら眠りに落ちた。




 あの日々から数年経ち、俺は今あの人達から独立して一人で生きていた。
さすがに義務教育の期間はあの人達の元に居たが、それが終わると同時に俺は何も告げずにあの家を出た。ひっそりとバイトして貯めていた僅かな金を握りしめ、曲がりなりにもここまで食べ物を与えてくれたあの人達のもとを去った。きっとあの人達は俺のことを探さないだろう。下手すればいなくなったことにさえ気がついていないかもしれない。いつだってあの人達にとって俺は邪魔でしかなく、あの人達には何かがいればそれでいいのだから。けれどこんな俺でも一応命というものがあるから、仕方なく…そう、仕方なく食事を与えてくれていただけでそこに愛情なんて優しい感情は無かった。

 あの人達から独立してからも、やはり俺の隣には誰もいなくて、それどころか俺を避けるように誰も寄り付いてくれなかったが、それでもなんとか中卒でも雇ってくれる仕事先を探して昼夜問わずに働き詰めた。働いて、働いて、ただひたすら、働いた。そしてようやく充分な額の貯金が出来て通信で高校卒業を果たし遅めの大学に入学した頃にはもう俺は二十代も後半に差し掛かっていた。
 昼夜問わず働いたおかげか中々の貯金ができた俺の生活は働き詰めからいっぺんして、勉強詰めの日々へと変わって行った。

 別に、何かを学びたかった訳でも何かになりたかった訳でもない。
 ただ俺が人間になるためにはどうしたらいいのか分からなくて、人間とはなんなのか分からなくて、俺と人間はどう違うのか分からなくて、だから人の内面を知りたくて心理学なんて大それた分野のある大学を受験した。

 けれど毎日のように教本と向き合っても、机上で論する教授の話に耳を傾けても一向に俺が人間になれる気配はなかった。以前と変わらず俺の隣には誰もいなかったし、俺なんかと向き合ってくれる『人間』が現れることもなかった。教授が、人は人との触れ合いで言葉を学び理性を学び感情を学ぶと言っていたが、では周りに誰もいない俺は誰と向き合い、誰と言葉を交わして人を学べばいいのだろうか。人間になるどころか、どんどん人間から離れて行ってしまっている自分。
 楽しげに言葉を交わし合う周りの人達を見て、あの時同様俺はさとる。

 …あぁ。きっと俺はこのままずっと人間になれないまま死んでいくんだろうな。
 別段寂しいとも、嫌だとも思わなかった。そんな人間らしい感情は俺の中には存在していなかったから、自分でも薄情なほどそうなのだと事実を受け入れていた。
 もういっそのことどこかの田舎に引っ越して一人死ぬまでひっとそりと暮らそうか、なんてどこか世捨て人のような考えさえ頭をよぎった。

 けれども人生何が起こるか分からないもので、そんな俺の隣に不可思議な人間が居着いたのだ。

 それならもうここにいる意味もないかと大学を辞める算段を考えながら何時ものように一人ランチを食べていた、そんな時だった。

 「なぁ、そのA定食ってそんなにうめぇの?」

 俺の何時もの日常が動きだし、人間である彼がまがい物である俺に声をかけてきた。

 俺に突然声をかけてきた彼は、この大学にいる人間の中でも特別な存在だった。名前は高倉椎名。どっちが名字なのか分からない名前だから特別な訳ではない。どうして彼が特別なのかは、その容姿が大きな要因だろう。高倉椎名は大学の中でも群を抜いて容姿が整っていたのである。容姿だけではない、人当たりの良い性格も、頭脳の賢さも、身体能力の高さも彼を特別たらしめる要素であった。噂では両親はどこかの大企業の社長だとかなんだか、その真偽は明らかになっていないが、とにかく高倉椎名はこの大学内で有名人のような存在だった。
 そんな俺とは天と地ほども違う、いわば雲の上のような存在である高倉椎名が何を思ったのか俺に声をかけてきたのだからそれはもう驚いた。表情筋が動きにくいたちなので、はたからみればいつもと同じ無表情に見えていただろうが、俺はその時生きてきた中で一番の驚きを感じていた。
 驚いて言葉を無くす俺に構うことなく、高倉椎名はさもそうすることが当たり前であるかのように空いていた俺の隣の椅子をひきその腰を下ろした。これにもまた驚いて言葉を無くす俺。

 なんだ、なんだ、一体何が起こっているんだ?

 ひとつ分かることは、驚きすぎると言葉はおろか行動さえ固まってしまうという実にどうでもいい実証結果だけだった。

 「いっつもそれ食べてるよな」

 「え、あ、えっと、その、」

 「ははは。んなあせんなくてもいいっての。自分のペースで喋ればいいんだよ」

 頬杖をついてそれと俺が食べているA定食を指差して高倉椎名が聞いてくるけど、人との会話が久しぶりすぎる俺はすぐに答えることが出来なかった。

 えっと、言葉ってどんな風に話せばいいんだっけ?

 けれど分からなくて余計言葉につまる俺に高倉椎名は気を悪くするどころか、笑ってそんな事を言ってくる。
 喋るなと言われることはあっても、自分のペースで喋っていいと言われたのは初めてで思わず真横に座る高倉椎名をガン見してしまった。

 「ん?なになに?鴻島は言葉じゃなくて目で語るタイプなのか?」

 そんな不躾とも言える俺の行動にも、高倉椎名はおかしそうにそう言って笑っている。それどころか親しげに俺の名前まで口にしてきた。学科が違うのに、どうして高倉椎名が俺なんかの名前を知っているのだろうか。

 「…名前」

 「んー?…あー、なんで俺が鴻島の名前知ってるかって?てか俺の最初の質問はスルーか鴻島ー」

 「…あ」

 「はは。冗談だからんな不安そうな顔すんなって。まー、名前知ってたのは…たまたま?そう、たまたまだな」

 明確な答えは返ってこなかったが、高倉椎名はいたずらっ子みたいな表情でにかりと笑った。その顔をたまたま目撃した女子達が「やだ、高倉くんちょうかわいい」と言いながら通り過ぎて行くのを聞いて、改めて今目の前で笑っている高倉椎名が特別な存在であると認識させられる。
 でもそんなことよりも、高倉椎名の落とした一言に俺はとてつもない衝撃を受けていた。あまりにも自然に紡がれたそれは、今まで誰も気づいてくれなくてかけられることのなかった言葉だった。

 …初めてだ。俺の表情を分かってくれた人間は。
 さっきのことといい、今のことといい、こんなにも俺に優しくしてくれて俺の表情を分かってくれる高倉椎名にはじめて感情の高揚というものを感じた。俺の方が年上なのに、なんでも包み込んでくれそうな高倉椎名の雰囲気に感情が溶けてしまいそうだ。
 胸のところがぎゅっとして暖かくなって、生まれて初めて感じる感覚に指先から痺れていくようだった。なんだかこのままだと得体の知れない感覚に食べられてしまいそうで、俺は逃れるように口を開いた。

 「高倉は、」

 「椎名でいいよ」

 「…椎名は、」

 初対面だからと名字で呼んだら名前呼びでいいと言われ、その通りに名前で呼んだら高倉椎名は満足そうにキラキラとした笑みを浮かべた。高倉椎名が笑うだけで、その場の空気までもがキラキラと輝きだす。そしてその笑みは、太陽の日差しみたいに、暖かい。
 俺に話しかけて、嫌な顔をするどころか笑顔を向けてくれて、名前を呼ばせてくれる暖かな存在。

 「不思議な人間だな」

 本当に、不思議で不可思議な人間である。
 脈絡ない俺の言葉に高倉椎名はその綺麗な瞳を瞬かせて、次いでどこか照れたような表情を浮かべた。

 「俺、不思議か?」

 「不思議だ」

 俺の断言に『そっか』と呟いて、高倉椎名は頬杖をついていない方の手を何故か俺の方へと伸ばしてくる。スローモーションのように近づいてくる手をただじっと見つめていれば、高倉椎名は『あの人』が何か≠ノ向けていたのと同じような顔を、した。暖かい、暖かい、決して俺に向けられることのなかった『あの人』の表情と良く似た…。
 その高倉椎名の表情に、心臓がきゅんとしぼむ。
 元から動く気も無かったけれど、その表情を目にした途端あの感覚が戻ってきて、指先から体全体に痺れが走って俺の体を拘束した。

 キラキラ、きらきら。
 高倉椎名の手が光をまとってその距離をつめてくる。

 「でも俺は、鴻島のほうが不思議だと思うぜ?」

 目が、眩む。明るすぎる光は目の毒だ。時にはその輝きで全てを飲み込んで、視界を思考をーーー意思を、奪っていく。
 それなのに俺はなぜか目の前の男から視線を逸らすことが出来なかった。『囚われた』という表現がピッタリだろうか。まさしく俺は高倉椎名という存在に囚われていたのだと思う。

 「そんなこと…」

 「いや。お前の方が不思議で、綺麗でーーー目が離せないよ」

 俺の否定の言葉はそれを上回る肯定に飲み込まれる。
 キラリ、俺が見つめる先でそれまでとは違う色が高倉椎名の瞳の中できらめいた。それは、初めて見る色だった。高倉椎名と言葉を交わしたこの数分の間に今まで経験したことのない事ばかりが起こっているような気がする。色んな初めてが起こりすぎて、俺の頭の中には疑問符がたくさん増えていくばかりだ。

 その瞳の中できらめく色の意味が分からなくて、

 「…椎名、」

 「うん?」

 俺が名前を呼ぶと嬉しそうに笑うその意味が分からなくて、



 「…やっぱり椎名の方が不思議だよ」



 一つだけ分かるとしたら、頬に触れた高倉椎名の手の暖かさ、ただそれだけだった。




 END



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