ぼくのミカタ 2
◇
「久しぶり、塚間」
そう告げられた言葉があまりにも自然すぎて、俺は時が逆行したかのように一瞬錯覚してしまう。
こうなってしまう前のあの時に戻ったような、そんな感覚になってしまうほど向けられた笑顔が変わっていなかったのだ。
誰も俺を傷付けず、𣇃井が当たり前のように隣に居て笑い合っていた日々に戻ったようなーーー。けれどそれは錯覚でしかないのだと否が応でもクラス内の雰囲気で分かってしまう。このどこか殺伐とした雰囲気はあの頃とは似ても似つかないほど冷え切っていた。
置かれるようになった花も、無くなるようになった持ち物も、クラス中から向けられる感情も、あの時とは全く違うのだ。
けれど𣇃井は、𣇃井だけは何も変わらず俺に微笑みかけてくる。
俺のせいで暫く学校を休む羽目になったと言うのに、その目に俺を責める色はない。関係のないクラスメイト達でさえ俺を非難する色を瞳に乗せていたのにどうして当事者である彼は俺を責めずに変わらず笑みを向けてくれるのか。
前から心が広くて優しいなとは思っていたが、まさか怪我を負わせた俺にでさえ変わらず笑いかけてくれるなんて。聖人君子のように優しい𣇃井に、俺は救いを求めたくなって、でもそれはお門違いであると踏み出しそうになる足をぐっと堪えた。それに少しだけ、優しすぎる𣇃井の優しさが、怖くも感じたのだ。
もしかして彼も奴らとグルになって俺を騙そうとしているのではないか。とここ最近ですっかり人間不信に陥ってしまった俺は勘繰ってしまう。優しい顔をして、俺の一挙一動を裏で笑うつもりなんじゃないか。そんな考えを𣇃井に抱いてしまう自分が嫌で仕方がなくなるけれど、でも埋め込まれた負の感情は根深く心に残り疑心を生んでしまう。
これ以上傷付きたくないと自衛する心が自ずと他者を排他しようとしてしまう。
いつの間にかそんな考え方が定着してしまっていた自分になんだか泣いてしまいたくなりながら、俺は拳を握りしめ𣇃井を見つめる。
「…塚間?どうしたの?」
じっとその場から動かない俺を不思議に思ったのか𣇃井がそう声をかけてくれるけど、やっぱり俺は何も言えずに立ち竦む。
周りの奴らはそんな俺たちのやり取りを固唾を飲んで見ていて、教室内はまるで俺と𣇃井しか居ないみたいに静かだった。いつもみたいに馬鹿騒ぎをすればいいのに、どうして今日に限ってこんなに静かなんだ。いや、どうしてかなんて分かっている。分かりきっている。
静かな理由なんてただ一つなんだ。
「塚間?」
こてり。と、𣇃井は不思議そうに首をかしげた。
𣇃井が言葉を重ねるほど、教室内の静けさも重ねられていく。痛いほどの静寂が、𣇃井の声だけを俺の耳に運んでくる。優しい。優しい声だ。穏やかに俺の隣で笑っていた頃と変わらぬ優しい声音に心配する色を混ぜて、𣇃井は俺を呼ぶ。
ここ最近ずっと呼ばれていなかった自分の名前は、まるで別人の名前みたいに聞こえた。
自分の名前であるはずなのに、どこかよそよそしく感じてしまう。誰かが誰かを呼ぶのを側で聞いているような。けれど悪意の無いその声に、優しさに飢えた身体が反応する。あちらにいけば、もう俺はこんな惨めな思いをしないですむだろうか。人の目を気にしてビクビクして、グチャグチャにされた私物を見て立ち竦んで、どうしようもない憤りを抱きながら現状を維持することしかできない自分自身に落胆して。
そんな毎日から抜け出させてくれるだろうか。湧いて出た考えに、ともすれば人目も気にせず駆け出してしまいそうだった。
彼のそばに行けば変わらず俺を受け入れてくれるかもしれない。だって入院していた彼はその間俺がどんな目にあっていたかなんて知らないのだ。それはつまり、何も知らないままで俺に接してくれるということだ。もう嫌だ。心が叫ぶ。逃げ出したいと、助けてほしいと。だけどそれと同じくらい誰かを疑う心が顔をのぞかせる。
なにより𣇃井が、俺に対してどんな感情を持っているのかと思うと怖かった。俺のせいであんな目にあってしまったのに、変わらず笑いかけてくれる彼の本心が気になって仕方がない。
昨日割れた花瓶で切った指先が圧迫され訴えてくるその痛みだけが唯一俺をこの場に繋ぎとめる戒めとなっていた。
「塚間?どうしたの?気分でも悪い?」
「𣇃井…」
「そんな顔してないで、ほら、こっちにおいで?」
力無く𣇃井の名前を呼ぶだけの俺に塚間は優しく声をかけてくれる。そればかりかわずかに両手を広げて俺が近づいてくるのを待つ𣇃井をみて、ついにかたくなだった足が動いてしまう。
一歩、薄氷の上を歩くようにゆっくりと慎重に足を踏み出す。この氷は、俺が一歩踏み出した途端に割れてしまわないだろうか……。そんな不安が頭の隅を掠めたけれど「塚間」と、はやくおいでというように優しく名前を呼ばれて俺の足はさきほどの慎重さが嘘のように駆け出していた。
𣇃井がなにを考えているかなんてもうどうでもよかった。あんなに顔をのぞかせていた猜疑心も警戒心も、𣇃井の優しい声に溶かされていく。俺はただ、誰かに優しくして欲しかった。
駆け出したそのままの勢いで退院したばかりの𣇃井に抱きついた。
けっこうな勢いで抱きついたのに、𣇃井はよろけることなく俺を抱きとめてくれた。そうして𣇃井は背中に腕を回して抱きつく俺の頭を撫でる。
そんな俺たちの様子を、クラスメイトたちが目を見開いて見つめていたけどその時の俺にはそれを気にする余裕はなかった。
「どうしたの塚間。そんなに俺がいなくて寂しかった?」
「𣇃井、𣇃井…っ」
「なぁに、塚間。そんなに名前を呼んじゃって………本当に塚間は可愛いなぁ」
最後の言葉は小さすぎて聞こえなかったけど、呼んだら応えてくれる声に、優しく撫でてくれる手に、俺の中にたまりにたまっていたものが濁流となって一気にあふれ出す。
誰かの腕の中がこんなにも心地よく、安堵できるものだとは知らなかった。一人は辛かった。多くの悪意と一人で対峙し耐えるのは辛くて怖くてしかたがなかった。その恐怖が抱きしめてくれる𣇃井の腕に吸い込まれるようにして消えていく。ようやっと見つけられた安住の地に、いまにも泣き出してしまいそうなほど俺の感情はたかぶっていた。
力の限り抱きつく俺を抱きしめる𣇃井が俺の髪に唇を落とし愉悦を溶かしこんだ笑みを浮かべていたなんて知らず、俺は𣇃井の腕の中でなんどもその名前を呼んでいた。その表情を目撃したクラスメイトたちだけが、異様な𣇃井の笑みに生唾を呑み込む。
なにかが決定的に噛み合っていない。
そんな違和感を抱きつつ、彼らは黙って俺たちのやり取りを凝視していた。
「塚間、俺がいないあいだになにかあったの?」
「……ッ」
その問いに思わず体に力が入る。
塚間の居ないあいだ、いろんなことが変わって、思い出したくもない過去が増えた。ここ最近の出来事を思いだして身を硬くする俺に𣇃井は甘やかな声を落とす。
「ごめんね塚間。無理に答えなくていいよ。ーーー大丈夫。俺は塚間の嫌なことはしないから」
ぎゅっと抱きしめられながら言われた言葉に、ついに俺の眦から一筋の線が流れていく。
塚間は俺に、嫌なことをしない。
その言葉がカラカラに干からびた心に染み込んで、感情となってあふれだす。この腕の中にいれば俺は嫌な思いをしなくてもいいんだ。
「𣇃井…ッ」
「塚間、泣いてるの?泣いてる塚間も可愛いけど、他の奴らに見せるのはしゃくだから移動しようか」
「! やだっ、𣇃井…!」
そう言って離れていこうとする𣇃井にしがみつく。わずかにでも𣇃井の暖かさが遠のいてしまうのが怖くて人目もはばからず抱きつく俺に𣇃井の口元が弧を描く。だけどそのことに𣇃井に抱きついている俺は気づかない。
抱きつく俺の頭に頬を寄せて、𣇃井は口元に弧を描いたままささやいた。
「大丈夫だよ塚間。すこし移動するだけだから。ここは邪魔な奴らが多すぎるからね。俺は塚間から離れたりしないから安心して」
とこどころに混じるおかしなセリフにも気づかず、𣇃井の「離れない」というセリフに安心する。
でも、やっぱり少しでも離れるのが嫌で抱きつく手を緩めることができなかった。𣇃井の制服がしわになるほど握りしめ、胸元に顔を押しつける。押しつけたそこから𣇃井の匂いが鼻腔をとおり肺を満たしていく。𣇃井だ。𣇃井がいる。そのことにどうしようもなく安心する。あんなことをしたのに、俺の嫌なことはしないと言ってくれた。離れないとも言ってくれた。
人目など気にならなかった。
この場に𣇃井と俺以外の人間がいることも忘れて、俺はこの優しい場所から離れたくないと𣇃井にすがる。
「本当に可愛いなぁ塚間は。…………そんなに俺と離れたくない?」
耳元に押しこまれたセリフに、顔を押しつけたまま頷く。
そんなの、離れたくないに決まっている。
精神が子どもに戻ってしまったような稚拙な意思表示になってしまったが、それだけ俺は必死でもあった。いやだ。はなれないで。たすけて。そんな想いが体と精神を支配する。
「そっか。それなら、このまま俺が連れていってあげる」
「𣇃井…?!」
そんなセリフとともに脇の下に手を差し込まれ持ち上げられる。突然の浮遊感に驚く俺の眼下で𣇃井は嬉しそうな笑みを浮かべていた。突然抱きあげられたことと、その笑みにはてなを飛ばす俺に構わず𣇃井はそのまま俺を横抱きにした。
あまりにも軽やかに抱きあげられたが、𣇃井の腕の怪我のことを思いだしてサァーっと顔から血の気が引いていく。病み上がりなのに俺なんかを持ち上げて大丈夫なのか。心配は不安になり、その感情が顔に出ていたのか𣇃井は俺を安心させるように「もう平気だよ」とこぼして変わらず笑みを浮かべた。
本当に大丈夫なのだろうか。不安は拭いきれなかったけれど、𣇃井の様子はいたって普通だった。痛がる素振りは一切ない。
「ちゃんと掴まっててね、塚間」
そう言って𣇃井は俺を抱いたまま歩きだした。
しっかりとした足取りで歩く𣇃井の首に反射で腕を回してしがみつく。思わず取ってしまったその行動に、𣇃井がくすりと笑うのが分かった。「顔、隠しててね」𣇃井がささやく。その言葉にようやっとここが教室のど真ん中で、𣇃井と俺以外にもクラスメイトたちがいるのを思いだした。
𣇃井以外の存在を意識したとたん戻ってきた恐怖に俺は言われた通り𣇃井の首元に顔を埋めて他を遮断する。目をつぶって、首元に顔を埋めていれば𣇃井の存在だけを感じることができた。幸いにもクラスメイトたちは水を打ったように静かだったから耳から嫌な音が入ってくることもない。
誰も声を発することなく俺たちを見ていた。
そんなクラスメイトたちの視線を受けていることも、𣇃井以外を排他しているいまなら気にならない。
𣇃井がそばにいる。
ただそれだけのことで俺は楽に呼吸ができるようになり、体を支えてくれる腕に守られているのだと安心できた。
みんなが変わってしまっても、変わらず以前のように俺を受け入れてくれた𣇃井。
誰も呼ばなくなった俺の名前を、以前のように優しい声で呼んでくれた𣇃井。
俺なんかのせいで怪我を負って、未来の可能性を潰されたのに。
「……𣇃井。ごめんなさい」
ぐすりと鼻を鳴らしながら𣇃井の首元で謝罪の言葉をこぼす。
お前の可能性を潰してしまって。
罪悪感からお見舞いにも行かなくて。
ーーーお前の夢を、壊してしまって。
ずっと心の奥底で沈殿していた思いをその一言に込めて謝る。
弱くて卑怯なやつでごめん。
俺はどうやったら、お前に報いることができるんだろう。
久しぶりに泣いてぼんやりとする頭で考えるけれど、いままで考えつづけても分からなかった問いの答えをだすことはできなかった。
「謝らなくてもいいよ、塚間」
𣇃井はいう。
「塚間はなんにも悪いことはしてないだろ?それに、こんな怪我俺にとってはどうってことないしね」
𣇃井の声には、隠しようもない喜色がにじんでいた。
「だってこのおかげで、欲しいものが手に入ったんだから」
だからなにも、塚間が悪く思うことはないんだよ。
𣇃井の声はどこまでも優しかった。優しすぎて、その声に溺れてしまいそうなほど。自分の可能性と夢を引き替えに、𣇃井はいったい何を手に入れたのだろう。
疑問に思ったけれど、俺はそれを問うことはせず黙って𣇃井の腕に抱かれていた。なんだかそれを𣇃井に聞くのは怖い気がしたのだ。だから俺はなにも聞かなかった。
いっぽいっぽ𣇃井が歩くたび振動がつたわってきて、その振動がつたわるたび俺はこの嫌な場所から離れていく。周りは不思議なほど静けさを保ちつづけていた。
「でも、塚間に嫌なことした奴らは許せないな」
そう言って周囲に視線を走らせた𣇃井にその場にいた誰もが息を呑み、緊張に体を強張らせた。
彼らがヒエラルキーの最上と認めた男から発せられた言葉。それはクラスメイトたちを非難するもので、また、その視線は先の尖った氷柱のような鋭さと冷たさをもっていた。
さきほど抱いた違和感が、クラスメイトたちのなかで大きく膨れあがっていくのに気づいていながら、𣇃井は傲然と微笑んだ。まるで圧倒的強者が弱者をいたぶりたおすときに見せるようなその笑みに、緊張と恐怖に支配される。自分たちが思い描く方向とはべつに物事が進んでいることを、その時になって彼らは理解する。
自分たちと同じように俺を非難すると思っていた𣇃井が、いままで通り俺を受け入れ、むしろそれまで以上に甘やかな声と表情を浮かべて接している。
おかしい。こんなはずではなかった。だって、彼は零していたのだーーー。
そうして混乱するクラスメイトたちを捨て置いて、𣇃井は歩を進める。
俺もクラスメイトたちの動揺など関係ないと𣇃井の首元に顔をうずめ続ける。いまの俺には𣇃井だけが唯一の味方で安心できる場所で、認識すべき存在だった。
𣇃井以外のことになど意識を向けたくなかった。
「だけど今回は、赦してあげる」
教室のドアまでたどり着いた𣇃井は顔だけを振り向かせて言い放つ。許すなんて大仰な言い方だけれど、この場において𣇃井は絶対の存在である。クラスメイトたちがみずからこの狭い社会の中で頂点と定めた男である𣇃井の発言はなによりも力をもっていた。
だから傲慢に言い放たれたその言葉に安堵をする者はいても、反論の言葉を口にする者はない。誰もがみんな、𣇃井の行動や言動に意識を集中させ、彼の機嫌を損ねないようにと必死だった。
許された。クラスメイトたちの思惑とは逆の方に展開が転がり一時はどうなるかと思ったけど、なんとか首の皮一枚つながった状況に彼らは恐怖に引きつらせた表情を少しだけゆるめる。
それをつまらなそうに見つめて、𣇃井はもう用はないとばかりに教室をあとにした。そんな𣇃井を呼び止める者は誰もいない。
誰にも止められることなく、𣇃井は突き進んでいく。
途中廊下ですれ違った教師の声さえ無視して𣇃井は歩き続けた。
やがて𣇃井はどこかの空き教室に入ると俺を抱いたまま乱雑に置かれていた椅子に座る。𣇃井と俺だけの空間はとても心地の良いものだった。安堵の息をつく俺の頭を、𣇃井は怪我をした右手で撫でてくる。その手にやはり罪悪感がチクチクと心を刺激してきたけれど、それを上回る安堵感に俺はその手をつかんで自分の頬に押し当てていた。
直接触れた𣇃井の手は温かかった。その温かさを求めて頬を寄せる俺に𣇃井が笑う。
「一人にしてごめんね塚間。これからは俺が側にいて守ってあげるからね」
「……うん」
甘く囁かれた言葉にうなずく。
𣇃井さえいればそれでいい。
𣇃井の腕に抱かれていると安心する。
「側にいて、𣇃井」
俺はもう、お前がいないと楽に呼吸さえできないんだ。
END
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