ぼくのミカタ 1









 この世界には、敵しかいない。

 この地球上に存在する生き物の中で一番愚かな生き物は何だと聞かれたら、俺は一も二もなく『人間』であると答えるだろう。
 二足で歩こうとも、言葉を介すほどの知能があろうとも、色んな物を開発していようとも、それを余りあるほどの愚かさを人間は持っていると俺は思っている。どんなに周りから聖人だと言われる人間であっても皆等しく愚かな部分を抱えている。ただそれを隠すのが上手い人間と隠すのが下手な人間がいるだけで、歴史を振り返ってみても、周りをみてみても、それはいつだって俺たちの中に存在していた。切っても切れない、捨てようとも捨てられない。俺たちはどしたってその愚かさと折り合いをつけて生きていくしかないのだ。
 ーーーどうして、俺がいきなりこんな話しをはじめたのか。その理由は毎度毎度ご苦労様ですと言いたくなるほど毎日のように俺の机の上に置かれている花にある。
 透明な硝子の花瓶に入れられた小さな花びらがたくさんついたその花を見つめてまた今日もかとため息が漏れる。毎日こんな花を買ってきて一体奴らは何がしたいのか…。ーーーいや、そんな事は分かり切っているではないか。奴らはただ、自分たちの中にある憂さを俺という玩具で発散したいだけなのだ。そこにそれ以上の、それ以下の理由も存在しない。自分よりも格下の他者を痛めつけることによってでしか得られない充足感と安堵感を手に入れる為に、こんなくだらないことを続けているのだから。
 毎日花を買うくらいなら他のことにでも使えばいいのに…。花貯金なんて作ったら結構な額になるんじゃないか。
 己の机の上で綺麗に咲き誇る花をみるたびそう思う。せっかくこんなに綺麗に咲いているのに、この花はあと数秒もしない内に綺麗とは程遠いごみ溜めの中に他の誰でもない俺の手によって捨てられてしまう。
 奴らの憂さ晴らしの為に買われ、俺なんかの机に飾られ、その美しさを愛でられる事なく捨てられる。そんな未来を与えられたこの花は、何の為に咲いているのだろうか。人の勝手であるべき姿とは違うもので売りに出され、買われてからも人の勝手で捨てられて。それでもなお綺麗に咲きほころうとするその姿はいっそ哀れだった。
 だけど人の勝手に翻弄されても己のあるべき姿を見失わない花の姿に、俺の中の暗い部分が刺激される。
 俺は…俺も、この花のように周りなど関係ないと咲きほこれているだろうか。
 誰にも美しいなどと、綺麗だと、愛でられることは無いのにそれでも朽ち果てるその時まで咲き続けようとするこの花のようにーーー

 「…っ」

 そこまで考えた時、背中に衝撃が走った。
 突然のことに対応しきれなかった俺はバランスを崩し、目の前の机に倒れるようにして手をついた。思った以上に勢いよく手をついたことによって机の上に置かれた花瓶がぐらりと揺れて、そしてスローモーションのように、落ちていく。
 ゆっくりゆっくりと、落ちたそれは大きな音を立てて砕け散った。壊れる音と、広がる水に無残に横たわる花たち、くすくすくすくすと周りから聞こえてくる笑い声、みんながみんな俺を笑い、あの花たちには目もくれない。
 緩慢に後ろを振り向けば俺の背中を押したであろう男子がにやにやと嫌な笑みを浮かべてこちらを見ていた。その顔に罪の意識は全くない。格下の俺を乏しめることが楽しくて仕方がないといった表情で仲間の元へと帰っていく。その男の仲間たちも同じような顔で俺がどうするのかを面白そうに見ていた。
 右も左も前も後ろも、この空間の中に俺の味方は一人もいなかった。
 彼らにとって俺という存在はクラスメイトでもなんでもなく、憂さをはらす為の玩具でしかないのだ。玩具を壊しても人は罪悪感を感じない。なぜなら玩具は玩具でしかなく、そこに心があるだなんて誰も思わないからだ。無機物に感情を動かす人間など居ないだろう。それと同じで奴らは俺を人としてではなくて、『物』として認識していた。
 全くもって冗談じゃない。
 初めの頃は俺だってふざけるなと抵抗した。けれどその声は奴らに届かず火に油を注ぐだけだった。奴らは俺の抵抗を呑み込み、それを免罪符のようにかかげ断罪とばかりに行為は酷くなっていくばかり。誰も彼もが俺を笑って、もしくは自分達は関係ないと顔をそむけた。奴らのちっぽけな自尊心を満たし、または守る為に俺は色んなものをすり減らしていく。
 集団によってでしか行動一つ起こせない奴らと、その集団から爪弾きにされた俺。
 まるでスケープゴートのようだ。今の自分の状況に自嘲が漏れる。いわれのない罪を押し付けられ、奴らの憂さを晴らす為だけに用意された偽りの罪人。それが俺だ。
 あぁ、反吐が出る。馬鹿らしくて悔しくて堪らない。俺と奴らが同じ種族であるという事に腹の奥が焼け爛れそうだ。もういやだ、なんなんだ。俺に関わるな俺を見るな俺を認識するな。いっそのこと空気のように俺の事を無視してくれればいいのに、どうして俺に干渉してくる。実際に空気のように接しられてもそれはそれで辛いのだろうが、今の状況に比べれば何千倍もマシに思えた。
 だって虫唾が走る。許せない。殺意にも似た怒りが身体中を駆け巡る。机の上で握り占めた手が俺の感情に比例するように小刻みに揺れる。そんな俺の様子に、周りの奴らはくすくすくすくすと耳障りな音を出すのをやめない。
 ーーーこんな奴らごときの憂さ晴らしの為に使われているということが、何よりも俺の心を暗くさせる。
 俺はこんなことの為に生まれてきた訳ではないのに、繰り返される行いに錯覚してしまいそうになるんだ。
 もしかして俺は、こうされる為に生まれてきたのではないか。と。けれどその度違うと否定する。そんなはずはないと。何度も問いと否定を反復して時々俺は俺が分からなくなる。深い黒に塗り潰されて自分の顔が見えなくなるのだ。俺が覗き込めば、その黒もまた俺を覗き見る。得体の知れない物に蝕まれてしまいそうな恐怖に、何度気が触れそうになったことか。
 だけどそれでも自らに爪を立ててでも正気を保ち、奴らから逃げ出さないように踏み留まるのは俺のどうしようもない意地だった。なけなしのプライドだった。例えそれが奴らの遊びに拍車をかけようとも、奴らから逃げ出す事だけはしたくなかった。お前らの為に、心まで屈してなるものか。そんな思いで、逃げ出しそうになる足を縫いとめる。
 その行為がどれだけ馬鹿げていて愚かなものかなんて分かっている。耐える必要のない辛苦の中に身を置いているのだから馬鹿としか言いようがないだろう。…いや、でもやはりこれは俺が受けるべきものなのかもしれない。なんだかぐるぐると考えすぎて思考が纏まらない。ぐるぐるぐるぐる。くすくすくすくす。俺の思考を邪魔するように雑念と雑音ばかりが頭を一杯にしていく。
 もう何も考えたくないのに、頭の中が空っぽになってくれない。いつだって刺々しい感情で俺の頭の中はガチャガチャ煩くてたまらない。こんな日々が始まってからというもの俺の平穏は無くなってしまった。家でだって、奴らの笑い声が頭の中で響いてしかたがない。俺を嘲笑う声がこびりついて離れてくれない。
 どうして、なんで、どうしてーーー。
 堂々巡りな俺の思考を遮るように予鈴が鳴る。校内中に鳴り響くその音を聞いてもなお、俺の意識は確然としなかった。
 早くしなければあと五分もしない内に教師が来てしまう。その前にこの砕け散った花瓶と花たちを片づけてしまわなければ。こんな所を見られてあれやこれやと詮索されたらたまったものじゃない。そもそもやる気のない詮索をされてもなんの解決には繋がらないし、奴らに遊びのスパイスを与えるだけだった。俺に何かを聞くついでに周りにも事情を聞いた教師を奴らは狡賢く言葉をならべてやり過ごしていた。くだらない遊びに興じている割りに、いや、興じているからなのか奴らはとても小賢しかった。確たる証拠がなければ強く出れない社会性を、関心を寄越さない人間性を、奴らは分かっているのだ。だから気付かれないように、遊びがお開きになってしまわないように上手く姑息に立ち回る。

 「ぼうっと立ってないで早く片付けろよ」

 にやさがった声が囃し立てる。
 なんて耳障りな声だろうか。そう思った瞬間誘発された爆弾みたいに教室内で俺を嘲る音が爆発する。
 愚図、鈍間、阿呆、馬鹿、間抜けと幼稚地味たものから、人の神経を逆撫でしてくるものまで。奴らが知っている限りの罵詈雑言を心底楽しそうに投げつけてくる。
 俺は出来るだけ奴らの言葉を耳に入れないようにして、片付けるべくしゃがみ込んだ。片手で受け皿を作って、もう片方の手で破片を拾って行く。一つ、二つ、大きいのから小さいものまで。見事に砕け散ったそれらを拾いあげていく。

 「っ」

 箒も何も使わずに素手で拾っていたせいか、指を切ってしまったようだ。
 指先に走った痛みに小さく息を飲みこみ指先を見れば赤い液体が溢れていた。やがてそれは傷跡に沿って床に広がる水の中へと滴り落ちていく。落ちて、混ざって、汚れていく。そのまま汚れて汚れて黒く真っ黒に塗り潰してしまいたい。

 「さっさとしろよな、この愚図」

 「……」

 震える手と、聞きたくもない声。違う。大丈夫。俺はこんな事をされる為に、こんな奴らの為に産まれて、生きている訳じゃない。
 …あぁ、でもやっぱり、

 (なんの意味も無いのかもな、俺も、お前らも)

 惨めに横たわる花、惨めに屈み込む俺。
 嘲笑う声は、鳴り止まない。



 物事が起こるのには必ず理由がある。
 何かしらの原因や理由があるから、何かが起こるのだ。何も無い所に煙は立たない。燻る火種があるからこそ、煙はたつのだ。
 俺だってそうだ。
 はじめからこんな扱いを受けていた訳じゃない。お世辞にも友人が多いとは言えなかったがそれなりに仲のいい友人は居たし、クラスの奴らとも普通に世間話したりしていた。仲良しこよしクラスとまではいかないが、みんな最低限のコミュニケーションは取れていたと思う。ヒエラルキーの頂点に立つ生徒が居て、その生徒の周りに集まる奴らがいて、そこから俺みたいな下層の生徒へと広がっていて…そんなどこにでもありふれた社会の中に俺も居た。はずなのに。
 ある日俺はそのヒエラルキーにさえ入れてもらえなくなってしまった。最下層にも劣る存在へと成り果てたのだ。
 それからというもの最低で最悪な日々が待ち受けていた。俗に言う『いじめ』と呼ばれる遊びの始まりである。
 手始めに物を隠された。それは授業で必要な教材だったり、靴や上履きだったりと色々だった。そして決まってそれらはボロボロになって俺の元へと返ってくる。破かれていたり、切り刻まれていたり、耳障りな言葉を書き殴られていたりと方法は様々だ。
 返ってくるそれらを見るたび本当は俺をそうしてやりたいんだと言われているみたいで恐ろしかった。俺にやりたいことを実際にやってしまえば犯罪になってしまうから、俺の持ち物で代用しているんじゃないかーーーと、そんな考えが頭をよぎって、俺は周りにいる人間の事が心底恐ろしくなってしまった。それまで築き上げてきた関係なんて最初から無かったみたいに奴らの顔が別人へと成り代わる。慣れ親しんだはずの場所が一瞬にして俺を嬲って楽しむ為のコロシアムとなったような気がした。
 誰も彼もが俺に仇をなそうとする『敵』にしか見えなくなって、息をするのさえ困難で仕方が無くなった。一挙手一投足を監視されているようで気が滅入る。何をするにも奴らの目が気になってビクつき、そんな俺を見て奴らが笑うという悪循環の繰り返し。早くから抵抗しても無駄だと悟っていた俺はただひたすら耐えるだけだった。
 いつかこの遊びに奴らが飽きたと匙を投げるまで。どれだけ神経をすり減らそうとも逃げ出す事だけはしたくなかったから。
 それは前にも言ったように俺のちっぽけなプライドであり、けじめでもあった。誰かは、はやく逃げればいいと言うかもしれない。必要以上の責め苦を負う事はないと。でも別の誰かは、この苦を負って当然だと言うかもしれない。
 そこで、話しは冒頭へと戻る。
 物事が起こるには、必ず理由が存在する。という話しに。
 つまりは、奴らがこんな遊びを始めた理由も、俺がヒエラルキーから除外された理由も等しく存在するというわけだ。ある事をきっかけにその理由が発生してしまったせいで、今の環境が生まれてしまった。
 俺はその理由となってしまった過去の出来事をぼんやりと思い出しながら今や戦場とかしてしまった教室へと足を踏み入れる。今日もどうせ昨日と同じように飾られているであろう花のことを思うと気が重くなるが、逃げないと決めたのだから耐えるしかない。
 緊張から心臓が嫌な鼓動を刻むし、生唾を飲み込む回数も増えるけれど、拳を強く握り締める事によって逃げ出しそうになる自分を律する。ここまで耐えたのだ、今更白旗を上げてなるものか。頑固親父のようにカチコチに固まった決意を胸にした所で、いつもと教室内の雰囲気が違う事に気が付いた。
 いつもなら俺が教室に足を踏み入れたら嫌な感じにざわつき出すのに、今日はそれがない。いや、ざわついていることはざわついているのだが、俺の時とは違って皆声を潜めてどこか戸惑っているような感じなのだ。ちらりとも俺の方を誰も見ない。まるでそこを見るよう命令を出されたかのように皆同じ一点を見つめていた。

 (何を見ているんだ…?)

 つられて俺も奴らの視線の先を追う。
 一人、二人と追い越していき、やはりと言うか俺の目は白い大輪の花を見つけた。
 五枚の大きな花弁がとても綺麗な花だ。けれどあの花の花粉が服に着つくと中々取れない事を知っている。そうだ、手についても中々落ちないんだ。ーーーいや、そうじゃない。ドクリと、心臓が大きく脈打つ。花が飾られているということは、あの場所は俺の席だということだ。今日も飽きずに飾られた花があるあの席は、俺の席なはずなのに。なのにどうして、俺じゃない奴が座っているんだろう。
 俺は信じられない思いで自分の席に座る人物を凝視する。別に、俺の席に誰かが座っていようと問題ではない。だけど、あの男は別だ。他の人間ならまだしも、彼だけは別問題なのだ。
 頬杖をついて楽しそうに花弁をつついている男。指に花粉がつくのも厭わない様子で花と遊んでいる。まさしく遊んでいるという表現が相応しい表現を浮かべる男を奴らは遠巻きに見つめる。もちろん俺も。息を潜めて狩人の様子を伺う獲物のように、じーっと男を観察する。記憶にあるより長くなった髪が男の頬に影を作っている。その影がより男の美貌を際立たせる。その証拠に遠巻きに男を見ている奴らはどこか夢幻をみるような表情を浮かべていた。
 その視線に気付いているのか、いないのか。男の調子は皆の視線を一身に集めながらも、変わらない。
 変わらないほど自然に、男は花弁をつついて微笑んでいた。
 あぁ、でも、前より少しだけ体の線が細くなったかもしれない。なんてぼんやりと思いながら、俺の口は知らぬ間に男の名前をこぼしていた。

 「𣇃井(つくい)…」

 途端、教室内を静寂が包んだ。
 それまであった微かなざわめきもなりを潜め、静寂の中に俺の声が吸い込まれていく。けれどその声はちゃんと男の耳に届いていたらしく、それまで白い花と戯れていた男の視線が上がる。そしてその視線は迷うことなく一線上にいる俺を捉えた。黒い、夜を溶かし込んだような闇よりも深い深淵の瞳に見つめられうまく飲み込めなかった息が喉で鳴る。
 あまりにも強い視線に思わず身構えてしまう。俺はあの瞳が、何故だか苦手だった。まるで俺の全てを見透かすような、俺の奥底を覗き込もうとしているような気がしてならなかった。あの瞳を見るたび『深淵を覗く時、深淵もまたこちらを見ている』という言葉を思い出す。覗き込みたくなんかないのに、闇の向こうに引き摺り込まれそうで。
 そんな得体の知れない感覚に呼吸を早める俺に構わず、目の前の男は花が綻ぶような微笑みを浮かべる。以前となに一つ変わらない微笑みに俺が抱いたのは、安堵と絶望だった。同じように笑いかけてくれる安心感と、同じである事に対する絶望感とが一緒にやってきて俺の中はここ一番でぐちゃぐちゃのごちゃごちゃだ。自分で自分の感情が制御できない。感情が波となって唸りをあげ思考が全く定まってくれない。
 静寂が包む。誰も声を発しない。押し潰された沈黙の中ただ一人男だけが自然体だ。男以外の奴らも俺も得体の知れぬ緊張感に身を固くし、息を潜めている。ただ一人の存在に、今この空間は支配されている。そんな馬鹿げた錯覚に襲われる。
 そうして支配者であり、俺がこうなってしまった『原因』となった男、𣇃井は以前となんらな変わらぬ声音と表情で言った。

 「久しぶり、塚間」



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