蛛綱落花 2

 「えっと。あー、なんだっけ。…そうだ、ゆたかくん?だっけ」

 「…っ」

 殺伐とした空気をものともせず、艶やかな声に名前を呼ばれた。
 まさかこのタイミングで名前を呼ばれるとは思わなくて驚きに息がつまる。彼と対峙していたやつらも不思議に思ったのか尖っていた空気の中に困惑の気配がまざりだした。
 いぜん彼の声しか聞こえないので、どんな表情を浮かべて俺に話しかけているのかは分からない。だけどその声に俺を侮るような響きは感じられなくて、やつらと同様俺も困惑してしまう。


 「もし良かったら助けてやるけど、どうする」

 「…なっ!」

 「ここで会ったのも何かの縁だし、あんたが望むなら助けてやる」

 彼の言葉に反応したのは、俺ではなくやつらのほうだった。
 この状況下、場違いにも介入してきて、挙げ句の果てには「助けてやる」と言い放った彼にやつらが気色ばむ。各々にわめきだすやつらの言葉を一切無視して、彼は静かな声で繰り返した。

 「どうする?」

 「…っ」

 繰り返された言葉に俺は混乱した。
 その混乱は一瞬身体中の痛みを忘れさせてしまうほどだった。
 周りではやつらが男に向かってなにやら叫んでいるのに、俺の耳は他の音を切り捨て男の声のみを拾い上げる。
 どうする。
 いま彼は、『どうする』と俺に聞いたのか。
 他の誰もが気がつかず、見て見ぬ振りをされていた俺に。初めてだ、罵倒と沈黙以外に声をかけてくれた人間は。
 彼の言葉の真意をおしはかって、でも分からなくて、理解不能で、幻聴かと思って、もしかしたら頭を打ったせいで気を失って夢を見ているのかもしれなくて、でも、たとえ嘘でも「助けてやる」と言ってくれたことが、嬉しかった。心臓が歓喜に暴れだす。見ず知らずの、本当か嘘かも分からないその言葉にすがりつきたくなってしまうくらい俺はもう、疲れ切っていた。
 抱いた憎悪の数だけ、助けを求めていた。
 助けを求めて「嘘に決まってるだろ」と突き放される可能性がないわけじゃない。むしろ一度希望を見せられてしまったぶん、そうなった場合に感じる絶望は倍になるだろう。だけど、

 (…たすけて)

 それが嘘で偽りだったとしても、弱い俺はただ求めることしかできない、から。

 「たすけて…ッ!」

 自分でも思うより大きな声が教室内に響いた。
 全身が燃えるような熱をもって訴えてくる痛みに耐えながらこぼした懇願に、「ふざけんな!」と腹を蹴り上げられる。その衝撃で俺の体の向きが変わり、声の主の姿が見えるようになる。
 教室の入り口に、冷たい美貌をたたえた男が俺を見つめ、そして口元を歪めた。

 「分かった。助けてやる」

 俺をひたと見据えてそう言って、男はいっぽいっぽ床に転がる俺のほうへと近づいてきた。
 だけどそれをやつらは許さない。
 やつらは三人で、男は一人。その数の差に気持ちが大きくなっているやつらはイラつきながらも余裕な態度で男の前に立ちはだかる。けれど近づいたことによって分かった男との身長差に少しだけひるむような様子を見せた。俺は床に転がっているので見上げる形になるのは当然だけど、男の身長は立っているやつらでさえ見上げなければいけないくらい高かったのだ。体格もそれなに良さそうだし、怯んでしまうのも仕方がないだろう。
 
 「てかお前さっきからなにさまなんだよ」

 「うるせぇ」

 「がは…っ!」

 「?!」

 「お前らに用はねぇんだよ。とっととうせろ」

 何の感情もない低い声で言い放つ男の足元には、奴らの中の一人が俺と同じように腹を蹴り上げられ痛みに体を丸めていた。芋虫のようにのたうち回る姿に驚きと、それ以上にざまぁみろとほの暗い愉悦が胸を満たす。だけど俺がお前らに受けた痛みはそんなものじゃない。生きているのに主張も権利も剥奪され、意味のない暴力に晒される苦しみは、そんなものじゃない。
 身体中の痛みに苛まれながら口元をわずかに歪める俺を見て、男が愉しげに笑ったような気がした。

 「なっ!テメェなにしてんだ!ふざけんなよ!」

 近づいてくる男に突っかかっていった仲間があっという間に沈められてしばらく呆然と立ち尽くしていた奴らだったが、状況を理解すると激情にかられるまま男へと殴りかかっていく。
 けれど大振りなそれを男は身軽によけると、逆にその手をとって腹に膝をめり込ませた。容赦なく腹に膝を食い込ませているのに、男の顔にはなんの感慨も浮かんでいない。

 「かは…っ」

 「だからお前らに用はねぇって言ってんだろうが」

 一人目に重なるように倒れたそいつの頭を踏み潰しながら苛立ちというより、呆れをにじませた声でそう言うと、男は一つため息をこぼした。

 「お前ら高校生にもなって日本語分かんねぇとか馬鹿すぎるだろ」

 「ひ…っ」

 いまだ頭を踏み潰しながら苦言をこぼす姿に、最後の一人が引きつった声を上げた。
 その音には男への恐怖心がありありと含まれており、もっとこいつらに恐怖をあたえてくれないかなと考える。俺にしてきたことをそっくりそのまま、いや、倍にしてやつらを八つ裂きにしてやりたい。目には目を。暴力には暴力を。屈辱には、屈辱を。
 俺にはそれを晴らすための力がなかったけれど、この男は違う。
 その瞳を見て気づいてしまった。
 この男は、
 俺を見つめて笑う男は、この格差社会で誰よりも頂点に立つ人間なんだと。
 冷酷と冷静さを兼ね備えた男とやつらでは、人としての格が違う。もちろん俺とも。
 だからこそ分からない。
 どうしてそんな人間が、俺みたいな最下層の人間を助けてくれるのか。と、そこまで考えてそんなことはどうでもいい瑣末なことであると思考を止める。
 男がどんな考えでこんな行動を起こしているかなんて知らない。もしかしたらやつら以上の残虐さで俺を絶望に落とすかもしれない。
 だけどここから抜け出したいと、叫ぶ心をとめられなかった。
 
 「で?お前は日本語できねぇとか言わねぇよな?」

 「…くそっ!」

 「ちゃんとこいつら連れてけよ。邪魔だから」

 こいつら。と言って足元にうずくまるやつらをつま先でつつく。つつくっといってもそんな可愛らしい感じではなかったらしく、無様なうめき声があたりに響いた。それに男は煩そうに眉をひそめ、唯一無事だったやつは恐怖と怒りが混ざったような変な顔をしていた。
 数秒してやつは転がる二人のもとにいき肩を貸しながら立ち上がらせると、忌々しげな視線を俺に向けながら教室を出て行く。去り際に「後で覚えてろよ」とやつは呟いたが、その台詞の陳腐さに笑ってしまう。
 なにが覚えてろよ。だ。そんなこと言われなくてもお前らが俺にしてきたことすべてを、覚えているに決まっているだろう。俺がどれだけ頭の中でお前たちを殺したと思っているんだ。両手足の指を使ったって、その数はかぞえられない。
 傷だらけ、痣だらけの体を横たわらせて消えていくあいつらの姿を焼き付ける。
 あぁ。できることならその背中を切りつけてやりたい。
 そんなことを考えていたら、いつのまにか教室内には静寂が戻ってきていた。
 さっきまで喋っていた男も急に押し黙ってしまい、なんともいえない空気が俺と男の間でただよいだす。どうしよう。なにか俺から話しかけたほうがいいのだろうか。でもなんと喋ればいい。体が痛い。思考が痛みでまとまらない。そんな俺を、男は片時も目を離さずただただ見つめている。
 やがて男の目尻が緩やかに下り、優しい声が降ってきた。

 「助けてやったぜ、ゆたかくん」

 「…っ」

 発言は上から目線なのに、不思議とその言い草に嫌な気は起きなかった。言葉のわりにはその声の響きがとても優しかったからかもしれない。暖かみのある声に鼻の奥がツンとした。痛みが生み出すのとは違う熱に心の底が震えだす。
 
 「頭大丈夫か?さっき思いっきり踏まれてただろ?」

 「…まだ、ぐらぐら、する」

 「だよな。今から体起こすけど、大丈夫か?」

 「たぶん、大丈夫」

 すぐそばで男が俺を、見下ろしている。
 踏みつけられた頭と、痛みで流した涙のせいで判然としない視界の中、優しく声をかけてきてくれる男をじっと見つめる。男の顔は、恐ろしいほど整っていた。彫りが深いというのだろうか、はっきりとした目鼻たちが男の意志の強さを表している。俺にかけてくれる声も低く落ち着きをもっていて、心地よく鼓膜を揺らした。
 こんなに美しくも格好良い人間がこの学校にいたなんて知らなかった。
 そんなことを考え、どこか夢うつつに男の言葉に返していれば首の後ろに腕を差し込まれ反射で体がビクつく。それに大丈夫だと笑って、至極丁寧な手つきで男は俺の上体を起こすと自分の胸に凭れかからせるようにして座らせた。
 背中に感じる男の体温と、体に回された腕の感触に心臓が早鐘をうちだす。男の行動は何一つ予測できなくてドキドキする。

 「派手にやられたな、ゆたかくん」

 「いた…っ」

 「悪りぃ、悪りぃ」

 散々蹴られた腹を少し押されて痛みにうめく。ほんの少しの力なのに身体中に広がる痛みに流したくもない涙が浮かぶ。男は、悪いと言いながらその手を止めずズボンからシャツを引き抜くと今度は直接醜い痣に指を這わせた。

 「えげつねぇな、これ。治る前に新しい痣つけられてんじゃねぇか」

 「ひぁっ、ん…、やめ…っ」

 薄い痣から、濃い痣まで。
 指でなぞり、時には爪先でやさしくつつかれて、なんとも言えない感覚に肌の上がぞわぞわしだす。
 痛みを与えるつもりはないらしいその指先は、けれど別のなにかを与えようとするかのように行ったり来たりを繰り返した。

 「さっきも大人しく蹴られてたけど、ゆたかくん抵抗とかしねぇの?」

 「…っ」

 さらりと言われた台詞に喉奥で息がからまった。
 なんてことはない感じで男は言うけれど、それはまさしく俺の鬼門そのもので、最も忌諱し敬遠したいことだった。自分の中ではなんども繰り返してきた葛藤を赤の他人である男に指摘されて尋常じゃなく感情がぐらつく。
 男は変わらず醜い痣の上をなぞる。
 その指先からこちらを傷つけようとする意思は感じないのに、まるで喉元にナイフを突きつけられたような緊張感が俺を襲った。心臓はバクバク鳴り響いているし、喉はカラカラに干上がって生唾を飲み込んでも乾きがますばかりである。男は、ただ痣をなぞっているだけのに。ひりつく恐怖と威圧感に俺は訳がわからなくなってしまう。
 だけど俺はぐちゃぐちゃになる思考と感情のなか、喘ぐように口を開いた。

 「だ、だって、抵抗できるわけ、ないだろ…っ」

 空気を揺らした声は、思う以上にがさついて汚ない音だった。
 嗄れた老人のような声が、どうしようもない憎悪を含んで反響する。
 吐き出すほどに体の痛みは増し、絶望を背負った怒りや憎しみがメラメラと黒く燃え上がる。
 俺の吐き出す言葉が呪詛となり、この世界を壊してしまえばいい。
 俺のなかにはもう、どぶのように腐った感情しかなかった。
 そんな俺の言葉に男は何も言わなかったけれど、先を促すように喉元を撫でられた。緊張感はまだぬぐえなかったけど、その指に背中を押されるようにいままで溜め込んでいたどろついた感情を吐き出していく。

 「最初は、抵抗したさ」

 やめてくれと、なんどもなんども。
 殴り返してやろうと、蹴り返してやろうともした。

 「だけどっ、あいつらは数人で、俺は一人で…っ」

 たった一人の抵抗など、それ以上の圧倒的な力によっていとも簡単におさえつけられてしまった。
 むしろその微々たる抵抗は、やつらの嗜虐性に火をつけるだけだけった。やつらの俺の抵抗を嘲笑う顔が網膜に焼きついて消えない、下卑た声が鼓膜にはりついてはなれない。
 夢のなかにまでやつらは出てくる始末で、それがなんだか俺の弱さを象徴しているみたいで悔しくてたまらなかった。

 「クラスのやつらは見て見ぬフリだし…!先生もぜんぜん気づいてくれない!」

 目の前で、すべてをなかったことにされてしまう気持ちが分かるだろうか。
 目の前でみんなに目を逸らされて、なかったことにされる惨めさを。
 俺だけ切り離された世界を、一歩はなれたところから見せつけられる虚しさを。
 なにごともなかったように過ぎていく。なにも変わっていないかのように、過ぎていく。

 「なんで俺なんだよ、俺がなにしたっていうんだよ。俺は悪くない。ぜんぶあいつらが悪いんだ。俺はなにもしてないのに。もうやだ。あいつらなんて死んじゃえばいいのに…!」

 みんなみんな。消えてしまえ。
 自分の弱さは棚上げして、一息に叫んだ。
 シャツをめくり上げられて寒さを感じるはずなのに、俺の体は激情に熱をもち暑いと感じるほどだった。
 視界は次から次へと流れてくる水のせいでぐちゃぐちゃだ。途中から自分でもなにを言っているのか分からなくなってしまうくらい頭の中が混乱している。だけど、男の指先の感触だけははっきりと感じとっていた。
 浅い息のまま叫んでしまったせいでせわしなく呼吸を整える俺の頬を撫でて、それまで沈黙していた男が口を開く。

 「そうだな。ゆたかくんはなにも悪くねぇ」

 「…え」

 甘やかに言われて、思わず声を漏らす俺の頭上で男が笑ったような気がした。
 だけど吐息しか判断内容がないので、俺の気のせいかもしれない。なんてつらつらと考えているうちに男は甘やかな声のまま話し続けた。

 「そりゃいくら男でも相手が複数だったら抵抗しても無駄だよな。ゆたかくんはどうみても喧嘩に強そうなタイプじゃねぇし」

 「…んっ」

 「…どっちかっていうと、喰うより喰われるほうだしな」

 言葉とともに指先が頬から首元に移動し、驚くことに首を甘噛みされた。
 軽く歯を立てられて体をビクつかさればなだめるように舌を這わされ鼻にかかったような声が漏れてしまい、顔が熱をもつ。頭上にはてなを浮かべながらもされるがまま、俺は男の言葉を聞く。

 「抵抗できねぇのもしかたねぇ。普通の人間は暴力に慣れてねぇから、なかなか抵抗なんてできるもんじゃねぇ」

 「…ほんとに?」

 「あぁ。悪いのはゆたかくんじゃなくて、他のやつらだ」

 「…っ」

 力強く肯定されてあたたかいものが込み上げてくる。
 はじめて得られた理解者に、俺はいま狂喜している。
 助けてくれとずっと願っていた。とにかくこの最悪な世界からすくい上げてくれる手が欲しかった。
 だけど救いの手は現れず、いつしか俺は『俺は悪くない』と言い聞かせることによって自分の心を守るようになっていた。いじめられる方にも問題はあると言うけれど、じゃあそれを見て見ぬ振りをするやつらには問題はないのか。くだらない娯楽のために人を傷つけるやつらには問題はないのか。綺麗事をぬかすばかりでクラスの異変に気がつかないやつには問題はないのか。
 否。問題があるのは俺より、やつらだ。
 だから俺は悪くない。やつらがぜんぶ悪い。
 そうして自分を守るために抱いたものが、いまはじめて他人に肯定された。
 それはまるで俺がいままで願って、求めてやまなかった救いの手そのものだった。

 「ゆたかくんにこんな暴力をふるうなんて許せねぇし、目の前で起こることに目を背けるやつらはクズ以下だ。あんだけしか生徒もいねぇのに異変に気づかないのもありえねぇ。…ゆたかくんはいつだって助けを求めてたのにな」

 そうだ。俺はいつだって求めてた。
 親にいえば転校なりなんなりさせてもらえたかもしれないけれど、いじめられている恥ずかしさと申し訳なさから言い出せず一人抱え込んだ。
 自分で決めたことだけどやっぱり苦しくて、悔しくて。

 「でももう大丈夫だ。これからは俺がゆたかくんを守ってやるよ」

 救いの手なんて、差しのべられないものだと思っていた。
 だけど俺の手に指を絡めた男は、慈愛と甘さが溶け込んだような声で囁いた。
 
 「ゆたかくんが望むならなんでもしてやる」

 「ツ…っ」

 「このつけられた分だけ…いや、それ以上の痛みをあいつらに与えてやるし」

 痣を強く押され、痛みに声をあげればごめんねと言うようになでられる。

 「見て見ぬフリしてたやつらにはなにして欲しい?」

 「なに、って…?」

 「なんでも、だ。ゆたかくんが望む末路を、俺が用意してやる」

 男の声は、信じられないほど優しかった。
 その声でつづられる内容も信じられないものばかりで、俺は夢の中にいるんじゃないかと思ってしまう。やつらに頭を踏まれたときにじつは気を失っていて、男が現れたところからがすべて夢なんじゃないかと。
 だけどつないだ俺の手の甲にキスを落とす感覚はとても艶かしいし、背中に感じる体温はとてもリアルだ。そもそも夢の中にしては感じる痛みも現実の痛みそのものだった。
 ということは、いま俺に起こっていることは夢ではなく、現実ということになる。
 そう認識したとたん、俺は叫びだしたい衝動にかられた。さきほど抱いた狂喜よりも大きくうねりだす感情のまま、叫びたくなる。だけどいままでにない感情のうずは俺自身でも持て余してしまう激しさで、うまく音になりそうになかった。

 「なぁ、どうして欲しい?ゆたかくん」

 手の甲に唇を落とされながら囁かれ、俺は緩慢な動きで繋がれたままの男の手にもう片方の手を伸ばす。そうして片手は繋いだまま胸元に引き寄せ抱きしめた。そのあいだ男はされるがままで、痣をなぞっていた手も様子をみるように動きを止める。
 きっと誰も俺の中で荒れ狂うこの感情を理解できないだろう。
 いま俺がどれだけ狂喜し、男の言葉に救われているか。
 男の言葉が真実であるという保証はない。そもそもはじめて会う人間の言葉を信用しようとしているのだから正気の沙汰ではない。だけど今の俺は正気ではなかった。俺の正気はやつらによってとうの昔に奪われ、無残にも地に投げすてられてしまったのだから。今さらそれを拾い上げることなどできない。だってそれがあった場所にはいま、それとはかけ離れたものが深く重く居座っているから。

 「……まもって、」

 男の手を抱きしめたまま呟いた。
 男の手は節くれだって、長くて、拳の部分が少し潰れていて、とても男らしい手だった。
 たとえこの手がやつらのように俺を傷つけるようになったとしても、それでもいいと、思ってしまった。

 「俺を、守って」

 何からも、誰からも、俺から奪いなきものにした全てから。
 弱いと詰られてもいい、愚かだと罵られてもいい。
 俺は俺を守れないから、誰かの庇護を受けるしかなかった。

 「守ってやるよ」

 「…本当に?」

 「あぁ。それをゆたかくんが望むなら」

 甘い。どうして男の声はこんなにも甘い響きを含んでいるのか。
 きっと砂糖菓子もこの声の甘さには敵わないだろう。甘くひそやかに鼓膜をゆらし、俺の思考を酩酊させる。男の声しか聞きたくないと思わせるほどの甘美さだ。祈りは届き、願いは受け入れられた。まやかしの救いでも、救いは救いだ。誰もくれなかったそれを、男はくれた。それだけが事実で、それだけがすべてだった。この手が本当に俺をすくいあげてくれるものでも、より絶望に陥れようとするものでもいい。
 神に祈る信者のように男の手を握りしめる俺の耳元で、男はとどめとばかりに囁いた。

 「俺がずっと、守ってやるよ」

 その言葉に陥落し嗚咽をもらす俺を男が片腕で抱きしめる。
 包みこむ腕に安堵し、背中に感じる熱にもう一人で苦しまなくてもいいのだと張り詰めていた気がとけていく。はじめて会う男を俺の心は受け入れ、体は男を離すまいと必死にすがりつく。





 「俺だけが、お前のみかただ」


 背後で浮かべる男の愉悦の表情の意味にも気付かず、俺は陽が落ち薄闇が訪れるまで男の腕の中で泣き続けた。





 END



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