吸血吸愛

 お病みさん×お馬鹿さん







 男にはこの世界で最も苦手とし、忌み嫌う存在がいた。
 そいつは持前の小さな体を生かし、いつもいつも男の死角に身を潜めて残虐と言える吸血行為を行っていくのだ。
 姿を見せずに血を吸う卑劣さと、その小さな存在に翻弄されているという事実に、男はどうしようもない怒りを抱いていた。
 そして、その存在というのが。

 「かゆい」

 吸血行為だけでは飽き足らず、耐え難いかゆみも一緒に残していく…ハエ目カ科の昆虫の総称。

 つまり、蚊のことである。
全くもって、その陰湿さといったら凄まじい。
 今しがた刺された箇所に親指の爪で十字を作りながら男は体を震わせた。膨れ上がる己の皮膚に、鳥肌が立つのを止められない。
 なんと言うことだ。こんなこと、人の体には起こってはいけない現象だ。
 どうして奴に血を吸われたら皮膚が膨れ上がる。
 どうしてあんな小さい存在から、耐え難いかゆみが与えられる。

 「どうすればこの苦痛と怒りから解放される?」

 かきむしりたい衝動を必死に抑えながら、男は焦りと憤りに呟いた。
 どうすればこの皮膚は膨れ上がらない?
 どうすればこのかゆみから解放される?
 世界中に殺虫剤をまき散らせばいいのか。
 それとも密閉された部屋にこもるべきか。
 それとも…。
 どこか現実離れなことを考えていることにも気付かずに、男は頭を悩ませる。
 男がうんうん唸りながら髪の毛を掻きむしった時だった。
 稚拙ともいえるアイディアを続ける男の耳が男以外の声を捕らえたのは。

 「何をぶつぶつ言っているの?」

 「あぁ。吮風(コウフウ)か」

 「あぁ。吮風だよ。赭南(シャナン)」

 声をたよりに振り返った先に居たのは男の親友である吮風だった。
 男は親友の登場にふわりと微笑むと、ちょいちょいと吮風を手招きする。そんな男の姿に吮風も微笑み返し、男が手招くままに歩を進める。
 一歩一歩近づいてくる吮風。
 手招きを続ける男、赭南。

 「さてと赭南。君は一体何をぶつぶつ言っていたの?」

 近づいた距離に、吮風の赤い唇が問う。
 目の前で動く赤い唇を視界に収めながら赭南は想いの内をそっとぶつけた。

 「吮風、僕は分からないんだ」

 「何が分からないの?」

 「この苦痛と怒りから逃れる術が」

 首を傾げる吮風に赭南は告げた。そして彼の答えを貝の様に息をひそめてじっと待つ。

 「この苦しみと怒りって…」

 「蚊から与えられる皮膚の膨れとかゆみ。そして奴に対する怒りのことだ」

 「あぁ。なるほどね」

 「なぁ、吮風。どうすれば僕は解放される?教えてくれ」

 しがみつき吮風に答えをせまる赭南。
そんな赭南を優しく抱きとめた吮風の口角が愉悦に歪んでいたことに、しがみついていた赭南は気づけなかった。
 そうして気付かない赭南の耳元に捕食者の笑みを刻んだ吮風が、妖言(オヨズレゴト)を流し込んでいく。


 「そんなの簡単さ赭南。…体中の血を全て抜いてしまえばいいんだよ」

 「血を…?」

 「そう。蚊は血を吸う生き物でしょ?だったら血を全て抜けば、吸う血が無くなるからもう赭南が苦しむ必要はなくなる」

 「なるほど…」

 遠まわしに死ねと言っているような提案にも関わらず、赭南は感嘆の声を上げる。
 血を抜くなど盲点だったと言わんばかりの声音と表情に、なんとも言えない快感が背筋を走り抜けていくのを吮風は感じていた。
 愛しい愛しい赭南が、自分の描く未来へと足を進めているのだ。
 笑い出したくなるほどの狂喜を、抑え込むのが大変だった。
 次いでくるであろう言葉に、吮風は口元が弧を描くのを止められない。
 さぁ、はやく。


 「では吮風。さっそく僕の血を抜いてくれ」






 (死して君を、手に入れる)



 END



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