溺れ谷

 ヤンデレ美形×逃げられない平凡
 ※嘔吐表現注意












 どうぞ私を、殺してください。





 空は、晴れだった。
 綺麗な青と白い雲のコントラストがどこまでも続く。遠く遠く、遥か向こう。今俺が見ているこの空は、どこかの空と繋がっている。地平線。大地と空を切り分けて、交わることのない絶対の不可侵領域。空は空。大地は大地。そんな風に俺も在れたらいいのに。まごう事なき存在を、揺るぐことのない名称を。記号ではなく象徴として、事実として、俺だって存在していたいのだ。だけど俺はただの俺で、象徴などにはなれなくて、上を見ては打ちのめされて、下を見ては絶望に唇を噛む。絶対的な存在の狭間で、ちっぽけな存在が何かを叫んだってその声は雑音にもならず消えていく。
 それは青と白の世界だけでは止まらず、俺が足をつけるこの世界でも変わらない。
 ちっぽけな存在の中でも、俺の存在はよりちっぽけだ。
 小道に転がる石ころの方がまだ相手をしてもらえるだろう。だってあの石ころでは石蹴りができるし、靴先に当たればそれだけでもその存在を知覚される。なんか蹴ったな、でも。この石をどこまで遠く蹴り飛ばせるか、でも。存在を認識してもらえるだけマシだ。
 だからと言って石ころのように蹴られたいというわけではない。俺は平和主義者な人間だから暴力をふるうのもふるわれるのも好きじゃない。もし暴力が好きなニンゲンが居たとしたら、その人間はいろいろと歪みまくっている。どうしてそんなに歪みねじれた性癖をもつに至ったのかはどうでもいいが、俺にさえその矛先がむかなければそれでいい。暴力はだめだ。暴力は人の心を壊してしまう。俺はそのことを、少し前に経験していた。
 今まで生きてきた中で一度だけ、本気で他人を殴ったことがある。
 握りこぶしで思いっきり、俺は拳を人体にめり込ませた。強く握った手のひらは爪が食い込み血を流し、他人の顔をとらえた鈍い感触は今でも鮮明に思い出せる。誰かを殴るのは、とても痛い行為だった。物理的にも、心理的にも。殴ったあとに殴られた本人よりも俺の方が情けないほど叫び喚き散らしてしまうくらい、その行為は俺の感情を悪い意味で揺さぶった。
 固かった。まるで鉄の板を殴ったように。熱をもった拳がとんでもない痛みを訴えてくる。あまりの痛みに、指先から俺の手は爆発してぐちゃぐちゃになってしまうんじゃないかと思った。でもこの痛みよりも殴られたあいつの方が痛いに決まっているのだ。だって俺は殴った。無抵抗な、彼を、俺は一方的に殴りつけたのだ。その事は俺に凄まじい恐怖を与えた。まるで自分が自分で無くなってしまうようだった。抗いようのない刹那的な感情に呑まれてしまった俺は、たしかにその瞬間なにか恐ろしいものに変わっていた。
 こんなの知らない。こんなの俺じゃない。
 こんな、まるで、自分が忌諱する人間そのものじゃないか。
 なにもないからっぽな俺に与えられたものが、そんなものしかないなんて、そんなの許さない。そんなのはあんまりだ。唯一残されたそれが働かないのであれば、一体俺はなんなのだ。人でさえ在れないというのだろうか。
 あいつを殴ったあの瞬間、俺は俺が一つ崩れ落ちる音を聞いた。
 ぽたりとしたたり落ちる赤。
 凄まじい痛みと熱を訴えてくる手に触れる低めの温度。
 見下ろす先、あいつは

 「アカネ」

 名前を呼ばれた。そう頭が認識した瞬間には、視界一面に男の顔が広がっていた。さっきまで見上げていた空を遮るように顔をのぞかせた男は「授業、始まってるぞ」と笑う。
 太陽の光をあびて金髪がキラキラときらめく。この学校はそれなりに校則が厳しいのに、こいつは髪色を変えるのをやめない。この前はドブ川みたいな濃い緑色だったのに、おとといからこいつは打って変わってキラキラな色を頭にのっけていた。ちなみに我が家の校則ではダークブラウンまでしか認められていない。なのにこいつは我関せずで何度生徒指導の先生に叱られても「個性を持ちなさいって言ったのはセンセーじゃないですかー」とかなんとか言って髪色ルーレットをやめはしなかった。
 
 「…チャイムの音聞こえなかった」

 「すぐそこにスピーカーがあるのに聞こえないなんて、老化が進んでる証拠だね」

 「ちがう。壊れてるの、スピーカー」

 「壊れてるのはアカネの耳の方じゃない?」

 「……」

 「怒んないでよ、アカネ」

 男は変わらず空を背負って俺を見下ろす。
 少しつり上がった猫目を楽しそうに細め、そっぽを向く俺を見ていた。横顔に注がれる視線。あまりの視線のうるささにやめろ見るなと意思を込めて視線を向ければ、猫目がより楽しそうに歪んだ。
 どろりと溶ける光彩は、男の感情を雄弁に語る。色素の薄い、蜂蜜に近い薄茶色のその瞳は、隠すことなく俺に男の感情を伝えてくる。
 男の瞳から溶け出たそれが俺の顔中に落ちてきてじんわりじんわり肌に染み込んでいく。だけど知りたくないものまで一緒に溶け出てくるのは、やめてほしい。いや、それだけではなく男の感情一粒でも受け入れるのが大変なのだ。そう言ったところで男は不思議そうに首をかしげるだけなのだが。

 「別に怒ってない」

 怒ったりなんか、するものか。
 だってちっぽけな俺はすぐに呑み込まれてしまうから。
 だからむやみに感情を動かすなんてことはしないのだ。たかが俺が感情に呑み込まれたところで、世界は何も変わらないだろう。むしろ世界はもっと潤滑にまわるかもしれない。いや、でも、それもないか。可もなく、不可もなく。マイナスにもプラスにもならない。俺なんて見向きもされず通り過ぎられていく存在でしかなかった。石ころにもなれない、いるのかいないのか分からない存在だ。
 だけど、それでも、俺は生きている。
 誰にも知覚されないような俺でも、俺に用意された小さな世界の中で必死に生きているのだ。

 「アカネは優しい子だね」

 「……いきなりなに」

 ふわふわ浮ついた声で突如言われた言葉に、俺は眉根を寄せた。聞き様によっては馬鹿にしているとしか思えないその発言。なにより発言者の人格に問題があり過ぎる。だってこいつはいい加減でズボラで、口から出まかせで、何が本当で、何が嘘なのか分からない。
 言葉だけならそうだけど、あぁ、やはり、その瞳は雄弁に語る。

 「ん?いやー、なんかそう思ったから言ってみた」

 「頭と口が直結しすぎだろ。だからすぐフられるんだぞお前」

 「別にいいよフられても。むしろフられてラッキーじゃん」

 「毛根死滅して禿げろこのイケメン」

 「そしたらアカネの髪の毛植毛する」

 「一本たりとも俺はやらないぞ」 

 「なんで?あ、もしかしてアカネ将来禿げる予定?それなら無理して髪の毛くれなくてもいいからね?」

 「……」

 「怒った?アカネ」

 いつのまにか寝転がる俺の上に座り込むような形で男は俺をのぞき込む。みぞおちらへんに容赦なく座られ苦しい。重い。どけろ。その言葉を俺は口にすることができない。内臓が圧迫される感覚に、昼休みに詰め込んだ食べ物が全部押し戻されそうである。内臓圧迫に呼吸もしにくい。じんわりのぼってくる気持ち悪さに、俺は後どれくらい耐えきれるだろうか。
 俺がギブするのが先か、男が俺の上から退いてくれるのが先か。
 なんて考えるまでもなく、その勝敗はすでに決まっている。
 せりあがる酸を含んだ液体。
 色んなものが混ざり合ったような味が口の中に広がり、俺は慌ててそれを唾液とともに押し戻す。だけど気道を圧迫する男のせいで喉元から下に落ちていかない。
 こわばる俺の体の変化に気がついているはずなのに、男は体をどかすことはなく逆に重みをかけてきた。
 両手を口にもってきて、せりあがる物が出てきてしまわぬようにおさえる。今にでもぶちまけてしまいそうになるのを必死にこらえる俺を、男はどろりと瞳を溶かして見下ろしていた。
 ほらな、やっぱり。
 全く動く気配のない男に頭の中で誰かが囁く。思ったとおりの結果だ。この男との勝負に、俺はいまだかつて勝てたためしがない。
 
 「怒んないのアカネ」

 「…っ、怒ら、ない」

 「アカネは優しいけど、つまらないね」

 もっと素直になればいいのに。
 胸元に手まで置いて俺の気管を圧迫しながら男は不思議そうにこぼす。お前は素直になりすぎだ。そんな罵倒は口を押さえているため言葉にできない。その間にも体にかかる重さは増すばかりだ。自分より体格も体重もある男に乗っかられて俺の軟弱な身体が耐えきれるわけもなく、

 「……うっ」

 「あーあ。なにやってるのアカネ」

 加重に耐えきれずとうとう口を押さえた指の隙間から胃液が食べたものと一緒にあふれだす。胃酸に喉を焼かれながら汚物を吐き出す俺を見る男の温度は変わらない。いつも通りのトーンで吐瀉する俺を見下ろしている。そこに自分のせいで俺がこうなってしまったことに対する申し訳なさもなにもない。拍子抜けするほど、通常運転だ。

 「…げほっ、ぅう」

 「ほらほら手を離す。あと横向きな。仰向けだと喉にゲロ詰まって窒息するから」

 「おぇ…っ、」

 「お背中さすさすしましょうねー」

 大きな手のひらに手を口から離され、ごろりと身体の向きを変えられる。そのせいでコンクリの上に落ちた自分のゲロに横顔をべちゃりとつけるはめになったが、窒息するよりはマシであると自分に言い聞かせた。喉は胃酸でやかれいがいがするし、独特のすえた匂いに新たな吐き気を誘われる。
 自分のゲロにさえもらいゲロを食らっているのに、近くに居る男は平気なのだろうか。
 ふと気になって涙で滲む視界で男を見上げれば、顔をしかめるどころかニコニコと楽しそうに笑っていた。こいつは、頭がおかしいんじゃないか。人が吐いている姿をそんな顔で見れるものなのか。俺には無理だ。俺だったら顔をしかめてしまいそうだ。
 涙で滲む視界の向こう、金色の髪が太陽の光を浴びてとても綺麗だった。俺の体を挟んで座り込む男の顔は逆光で影を作る。そしてその影は、真下にいる俺にも繋がっている。

 「アカネ」

 もらいゲロにもらいゲロを重ねて、もう吐き出せるものもないのに吐き気に苦しむ俺の背中を依然撫でながら男が俺を呼ぶ。吐いたことによって息も絶え絶えな俺は男に応える余裕はない。
 顔はもう、ぐちゃぐちゃだった。吐き出した物に顔を突っ込んでいるような状態なのだから当然だろう。これでは臭いにあてられて吐き気がおさまらない。体を起こそうにも男が座っているので起きあがれないし、顔も髪の毛も汚れてしまって不快だ。気持ち悪い。吐き気はかわらず込み上げる。汚物にまみれる俺なんて顔をそむけてしまいたくなるほど悲惨なものだろうに、どうしてこの男はあんなに楽しそうな顔をしているのだろうか。

 「アカネ」

 体にかかる重みが増す。
 仰向けではなく横向きだからか、さきほどよりは体重をかけられても押し出されるような吐き気はこない。
 だけどこれ以上負荷をかけられたら俺はぺしゃんこになって死んでしまうかもしれない。空と地の間、死んだら俺はどこにいくのかな。どこかに、行けるのかな。もしどこかに行けるのなら、俺はどこに行きたいんだろう。分からない。自分のことなのに俺には分からなかった。どこかに行きたいという欲求はあるのに、どこに行きたいのか、その答えを俺はいつも持っていない。

 「怒った?アカネ」

 声がふる。
 その声は何かを期待しているかのようだったが、俺はその期待に応えることはできないだろう。自分の中にも答えを持たないのに、どうして他人に応えられることができるだろうか。そんなこと、俺の次に男は分かっているはずだ。

 「……怒って、ない」

 「へぇ、アカネは怒ってないんだ」

 そうだ。俺は怒ってなんかいない。もう二度と怒らないと、一定量以上の感情を動かさないと決めたんだ。
 僅かな自由しかないなかで体を丸めようとする俺の目の前に、手が置かれる。べちゃりと音を立てて置かれたそれは男のもので、まるで俺を囲うように男の手が頭の両脇に置かれていた。そのせいで、より男との距離が近くなる。すえた匂いにまざって男の体臭が香ってくる。まざりあう二つのにおいになぜか頭の奥が痺れたような気がした。
 異様だ。その異様さに、俺は呑み込まれる。
 浅い呼吸を繰り返す俺を覆い囲んで男は歌うように言葉をふらせた。

 「俺のせいで吐かされて、」

 「汚いゲロにまみれてるのに、」

 「それでも怒らないんだね、アカネは」

 そこまで言葉にして、男は俺の耳元に唇をよせた。形のいい唇で俺の耳朶をはんで、低い声を流し込む。

 「本当にアカネは優しい子だ。優しすぎて俺はいつもびっくりしてるんだよ。お前がそうやって俺を許すたび、俺はどうしようもなくなるんだ」

 優しいアカネ。
 男がそう言葉を重ねるたび、俺の体は見えない鎖で縛られていく。違う、という否定はひりついた喉に邪魔され出てこない。いや、出てこないんじゃなくて、出さないんだ。俺はいつだってその言葉を否定できるのに、あえて否定せずに野放しにしているのだ。だってそうしないと俺みたいなちっぽけな人間は生きていけない。
 認識されないのは悲しい。求められないのは寂しい。どこに行けばいいのか分からないのは、とても不安だ。望むだけ、妬むだけの日々はとても疲れる。精根尽き果てて、疑問と不安に頭の中を支配されて。
 そしてなによりも、

 「そんなに俺に嫌われるのが怖い?アカネ」

 「……っ」

 俺はこの男に嫌われてしまうことを恐れているのだ、なによりも。
 気づいていないとは思っていなかった。だけど面と向かって言われると体が緊張で固まるし、今すぐこの腕の中から逃げ出したくてたまらなかった。でもそれは出来ない。感情を一定量でたもて。大丈夫。落ち着け。落ち着くんだ俺。何度も言い聞かせるけども、心臓は耳元に移動したみたいに爆音を轟かせているし、体は緊張をたかめるばかりだった。
 いやだ、どうしよう。とうとう嫌われてしまったのだろうか、彼に。嫌われてしまったのなら、俺はこの狭間に一人取り残されてしまうのだうか。いやだ。こわい。こわい。こわい。いまさら一人で、あの重圧に耐えて生きていくなんて、そんなことできるわけがない。
 ガタガタと体が震えだし、緊張と恐怖にちがう吐き気が込み上げる。げぇげぇと醜い声をあげ吐き出す俺を、彼がどんな顔で見ているのかなんて確認する勇気も余裕もない。
 
 「…うっ、おぇ…っ」

 涙とゲロと、とにかくぐちゃぐちゃのドロドロだ。
 どうしてこんなことになっているんだっけ。吐きすぎて頭はぼうっとするし、苦しいし、助けを求めたくても誰に求めればいいのか分からない。いっそのこと楽にしてくれ。そんなことを考えた瞬間、俺の体は暖かいもので包まれた。
 色濃く香る匂いに、げんきんにも俺の体は一瞬で吐き気を忘れる。
 頭と、腰のところを支えられて体を起こされる。体力がもはやそこをつきそうだった俺は成されるがままだ。体を起こされ、男の膝をまたぐように座らせられる。ぐったりと男の肩にもたれかかる俺の背中を、かわらず優しい手つきで男は撫でる。その手の感触と男の暖かさに縋りつきたくなって、でも縋ろうとした手は力をなくす。

 「かわいそうなアカネ」

 ぽんほん。背中を優しくてたたかれる。まるで我が子を眠りに誘おうとする母親のように規則正しく、一定の速度で。俺は男の肩にもたれながら、さきほど抱いていた恐怖が薄れていくのを感じていた。ちがう。かわいそうなのは俺じゃなくて、男だ。だってゲロまみれの人間に肩口を汚されているのだから。ちがう。ちがうよ、俺は、かわいそうなんかじゃ、ない。
 ぽん、ぽん、ぽん。
 眠れ。眠ってしまえ。そんな男の意志を感じる手つきに、素直な俺の体はゆるりと視界を閉ざそうとする。
 一番安心する香りと体温に包まれて、男の言うとおり意識は霞の向こうへ落ちていく。
 落ちる直前、閉じかけた視界でちらりと男を見上げる。俺をずっと見ていたのだろう、男の猫目と視線が合う。ほぼ瞼が閉じてしまっているような俺を見つめる瞳から、どろりと、男の感情が溶け出した。ぼたぼた、ぼたぼた。際限なく落ちてくる感情の粒を顔に受けながら、俺は逆らうことなく瞼を閉じる。
 とても、疲れた。
 少しだけ深く息を吐き出して、俺は背中をたたく手の感触に導かれるように、意識をくらいところへ落としていく。俺だけの場所。俺しか居ない場所へ。ちっぽけな俺にはお似合いの、ところへと。
 意識が完全に落ちようとした瞬間、ゲロまみれのほおを撫でられた。



 「…あのとき俺から逃げればよかったのに」


 したたり落ちる赤。
 痛みをうったえてくる拳。
 倒れこんだ彼は、俺を見上げて。

 『「大好きだよ、アカネ」』

  俺を抱く今も、あの時もーーーセイはとても嬉しそうに、笑っていた。




 END



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